第二百二十九話【『超過死亡』の怪】

「解りません。なぜ我々(ASH新聞)苦しくなるのかが」天狗騨記者は言った。


「その話しは動機面の後だな。犯人はこう言ったそうだ。『俺の寿命を返せ』と」社会部長があまりに端的に口にした。


「じゅみょう、ですか? それはまた……」


「要するに犯行の動機はほぼ怨恨だ。新型コロナワクチン、いやmRNAワクチン(メッセンジャーRNAワクチン)と言った方がいいのか。『子ども時代にこれを打たれてしまった結果心臓に慢性的な持病を抱えるようになってしまった。もう先の人生が見えない』と、これが犯行の動機だ」


「——また犯人はこうも言っていた。『生まれついての心臓病ではなかったのに』とな」


「それ、全然報道されてませんね」


「ウラを取ってる最中かもしれんがあくまで内々に、な、先のことは分からんが——」


「——さて、ここからがウチ(ASH新聞)の内部の問題となるが、天狗騨、mRNAワクチンについて微妙に微妙に、ウチがその立ち位置を変えているという事に気づいているか?」


「なにか抽象的ですね」


「端的に言うと『支持/不支持』だ。露骨な言い方をするなら『このワクチンは毒ワクチンかもしれない』というそういう方向性もアリとする。つまりはいわゆる両論併記。〝薬害〟の可能性を考慮した場合の〝会社にとっての安全策・保険〟というやつだ——」

 さらに話しは続く。

「——しかしこうした方向性については周囲の環境が変わりつつある事も考慮する必要もある。例えば新型コロナワクチンについて『厚生労働省の認めた副作用』というものがある」


「確か、『心筋炎』を発症するケースがあるとかでしたっけ?」天狗騨は訊いた。


「そうだ。2021年の12月だったか、厚労省はmRNAワクチン接種後の『心筋炎・心膜炎』を重大な副作用として添付文書に載せるよう決めている。同時に接種後28日以内に発症した場合には法律に基づき医療機関に報告義務を課している」


「はい」


「その結果10代の子どもが重い心筋炎に罹患しているという報告が次々に上がって来るようになった」


「つまり犯人はその中の一人が自分だと言っているわけですか」


「そういう事だ。そしてソレとは別に一概に〝荒唐無稽〟で片付けられない不気味なデータもある」


「不気味?」


「——例えばこんな記事を覚えてないか、天狗騨。いや、現物を持って来た方が早いか、少し待ってろ」と言って社会部長は応談室から出て行き、程なく新聞の切り抜きを持って戻ってきた。戻って来るなりその切り抜きを天狗騨に示し言った。


「こうして一度ウチ(ASH新聞)でも記事にした事がある。『超過死亡』という数字の問題だ」


「あっ、この記事、うろ覚えですが記憶にあります」


 社会部長は肯くと手にした記事に目を落とす。前提として『超過死亡』の話しを始めた。

「『超過死亡』とは死亡数が平年に比べてどれだけ増えたかを示す指標で〝平年から予測される死者数〟と〝実際の死者数〟を比較して算出する。あらゆる死因を含む推計だが特定の災害や感染症による社会へのインパクトを測る目安として使われる」


「はい」


「国立感染症研究所が2021年の1月から5月までの死者数をこの『超過死亡』という指標で分析したところ、それ以前の五年間と比べて最多レベルになっていた。しかも5月が特に多い」


「新型コロナワクチンの接種開始時期は確か——」


「2021年の2月から。まずは医療従事者から接種を開始した。3月下旬以降、順次全国で65歳以上の高齢者の接種が本格化し始めた筈だ」


 天狗騨は厳しい表情のまま肯く。社会部長は続ける。

「——超過死亡は冬場に季節性インフルエンザの影響などで多くなる事はあるが、例年4月から5月にかけ多くなることはほとんど無い、という」


「季節外れの5月になぜか増えた『超過死亡』ですか、確かに不気味なデータです。しかし、確かウチ(ASH新聞)の紙面はそういう論調ではなかったような……」


「その通り。決して糾弾調の記事ではなかった。記事のタイトルに『超過死亡』を入れたのはいいとして、『新型コロナ影響か』ともぶっていた。これではどう見ても『ワクチンが原因』とは読めない。記事の中身にあった専門家による原因の解説も『ワクチンが原因』とはなっていない。むしろ新型コロナだ」


「あっ、思い出しました。その専門家、その国立感染症研究所の人間ではなかったですか?」


「そうだ。感染研の感染症疫学センター長だ。曰く、『新型コロナによる死亡と医療逼迫によって増えたコロナ以外の死亡が原因であると考えることが合理的だ』とな。それが記事として掲載された」


「〝超過死亡は大幅に増えたがワクチン接種とは結びつけたくない〟という強い意志を感じますね」

 天狗騨はつい最近『水の専門家』に振り回されたばかりである。そのためか『専門家だ!』と聞いても今ひとつ疑って掛かりたくなる。

「——しかも国の機関に所属する人間の発言ですか。政府が推進するワクチン接種に批判的な意見が言える立場なのかどうか」


「まあアリバイ造りなのかもしれないが、データを公表した事だけは評価すべきだろう。これも両論併記の一種と言えなくもない。少なくとも後でデータ隠蔽の罪は問われない」


「しかし何か妙ですね、それは2021年の超過死亡の話しで、新型コロナは2020年の初頭には日本に入って来ています。なにせこの年に開催される筈だった東京オリンピックが延期になっているくらいです。ならば2020年の超過死亡がどうなっていたのか? って事になります」


「それについて両論併記的に記事を書いたのが今俺が持って来たこの記事だ」


「しかし専門家のコメントがアレ過ぎますが、それ、両論併記と言えますか?」


「だから〝微妙に微妙に〟と言ったろう。それについての該当箇所を読むから聞いてろ」そう言って社会部長はASH新聞記事の切り抜きを読み上げ始めた。

「——『20年の1〜5月は欧米で感染が爆発的に広がり多くの超過死亡が報告された。一方、国内では204〜3917人に抑えられていた。新型コロナ対策でほかの感染症の流行が抑制されたり、健康管理が進んだりしたために、大きく増えなかったとみられていた』とも記事には書かれていたんだ」


「その記事に2021年の1〜5月の数字は載ってますか?」天狗騨は訊いた。


「当然載っている、えーと、『今年1〜5月の超過死亡は全国で5076〜2万4300人』とあるな」


「全然違うじゃないですか、4千人と2万4千人じゃ死者の数およそ6倍ですよ! 2021年に年が代わるや新型コロナ対策や健康管理がおざなりになったとでも言うんですか?」と天狗騨が疑義を呈す。


「あるいは2020年には新型コロナであまり人は死亡しなかった、よって医療逼迫によるコロナ以外の死亡者もろくに出なかった』とも言える」と社会部長も疑義を呈す。


「新型コロナで新たな変異株が出る度に毒性が増したなど聞いた事がありません。むしろその逆で弱毒化していた筈です」天狗騨は断言した。


「どう考えても2020年と2021年の最大の条件面での違いは『mRNAワクチンの接種の有無』という事になるんだがな」と不信感も露わに社会部長は言った。

「——ましてmRNAワクチンは新型コロナ限定にしておくつもりは無いらしい。近い将来インフルエンザワクチンもmRNAワクチン化するという話しもある」


 社会部長の話しを聞いていて天狗騨はふと思った。

(首相官邸宛ての犯行声明文の中身が『米軍慰安婦問題』だったのはもしかしてこれが原因か? 政府がワクチン接種を推進していた以上、これに関するどんな声明を送りつけようと握り潰される可能性は極めて大だ)


 天狗騨が口を開く。

「なるほど。よくよく読めば、ですが、ね。そして新型コロナワクチン接種の結果同じ悩みを抱えている人間がいるとしたなら、犯人に対する共感もあり得る。部長の言った『私憤のようであるが公憤もゼロとは言えない』とはこういう事だったんですね」


「うん」


「しかしですよ、『米軍慰安婦問題無き慰安婦問題』が真に訴えたかった事ならともかく、mRNAワクチン接種を問題とするならなぜウチ(ASH新聞社)がテロの標的にされるんです? 確かにウチも接種の前や接種たけなわの頃にワクチンの危険性を訴えていたとは言い難いかもしれませんが、どこの新聞社もこれについては五十歩百歩の筈です。こう言ってはなんですが我々だけが安全を確保していたわけじゃあないんです! 現にこの私も打たされたんですよ!」


 新聞記者の基本は取材活動。人と会うのが仕事といっていい。その際ワクチン接種の有無を取材対象から常に訊かれてしまうという当時の状況だった。

 遺伝子組み換え食品に疑義を呈していたASH新聞の社論に大いに賛意を示していた天狗騨は遺伝子組み換えワクチンに対する忌避感も半端無かったが、打たないという事は〝仕事をやらない〟という意味になってしまうため、この自我の強い男にしては珍しくこの時は折れてしまっていた。

 だから天狗騨はここについてだけは、全く納得できない。

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