第二百二十二話【天狗騨記者、無謀にも理系の大学教授に突撃する】

 翌日、天狗騨記者と祭記者は当該大学を取材で訪れていた。天狗騨はじっくりと話しのできる面談室か応接室か、そうした所を希望したのだが通されたのは〝研究室〟。およそ15名超といったところだろうか、研究生や院生がコンピューターに向かい何事かを実行中。壁一面が河川の写真及び地図及びなんらかのデータのメモ書きによって隙間の無いほどに埋め尽くされ、あたかも圧縮陳列するが如し。


(要するに威圧か、はたまた見栄を張りたいのか、そういったところだろう)と天狗騨は早くも内心辟易としていた。

 見た目60代と思しき大学教授の口上は、自らの学問である『水文学』のなんたるか、から始まった。


 それを要約すると『地球上の水について、その状態・分布、物理的・化学的性質、環境との関係等を循環の視点から研究する学問』との事。その応用分野は『水資源の開発・保全、水質管理,水利・水法等、広く社会・経済面にまで及ぶのだ』、といったところ。

 そうして教授本人は「40年以上この学問に携わってきた」と、エキスパートである事をアピールしてみせた。

(するとやはり60代なのか)と思う天狗騨。ともあれようやくついた一区切りの間隙を縫って天狗騨が初弾の質問を始めた。


「教授は南アルプスにトンネルトンネルを掘っても大井川の流量に影響を及ぼさないと、そうしたご意見であると伺いましたが、」


「いかにも、」と教授が重々しく肯き、次いでこう言ってのけた。「静岡県が指摘している問題が現実に発生するのかどうか、私には大いに疑問があると、そう言わざるを得ない」


 天狗騨はそれに対し〝一応〟相づちを打つ。(理由は黙っていても勝手に説明するだろう)と思い、今は調子を狂わせるような真似は慎む事にしたのである。


「私は国内でかつて稼働していた石炭や磁鉄鉱の鉱山の長大立坑を使い、雨そのものが水蒸気から相変化を経てどのようにしてできるのかを解明しようと実験を10年以上続けてきました」


「はい、」


「私はJRTKがまとめた環境影響評価準備書を読みました。そこには素掘り、即ち覆工コンクリート等の防水工事がない条件で『最大で毎秒2t減水と予測』と書かれています。しかし、予測される減水量の『最大』を出すのであれば『最小』の予測にも触れて、その間の分布がどうなっているのかを一緒に示す必要があると考えます」


「——その上で、その数値について丁寧な説明を行い『これは素掘り、即ち防水処理無しの場合の数値です』というように、計算の前提となった条件などについて正確に示さなければならないと考えます」


 天狗騨は一生懸命にメモをとりつつ聞いている。だが天狗騨的には早くもこの時点でこの教授に〝?マーク〟がついていた。

 最大値と聞いて連想したのは津波の最大の高さであった。

(JRTKとしては最悪の事態を想定しての報告書を作ったつもりだろう。だがその最悪値をこの教授は下方修正しようとしている)

 この時点で信用度に黄信号がともったのだが、天狗騨は相手が理系という事もあり、いっさい突っ込まずただメモ書きを続ける。


「—— 一辺1メートルの水の立方体を想像してみて下さい。『毎秒2tの水』というのは、こうした立方体が二個、それも一秒間に流れるという膨大な量なのです。大井川の中流域での年平均水量は、毎秒30.9立方メートル程度でしょうか。つまり『毎秒2tの水』とは大井川の水量のおよそ15分の1。これほどの量の水が源流域の深い地下から常時湧き続ける、そんなことがあるでしょうか? 私は大きな疑問です」


 正直天狗騨的には〝大きな疑問〟は感じなかった。大井川の中流では一秒間に30.9立方メートル水が流れるという。その15分の1程度の水が南アルプストンネル掘削現場から流れ出しても、これが〝多い〟とは思えなかったのである。

 この数字は〝残りの15分の14もの水〟、即ち93.3%もの水は南アルプストンネル以外の別の所から来ている事を意味しており、これは『大井川中流域を流れる水量の15分の1程度、パーセントにして6.6%しか大井川の水は減りません』、とJRTKが言っているように聞こえるのである。

 これでも目の前の教授はこの数字を『多すぎる』と言う。ただ、天狗騨は相手が理系という事もあり温和しくメモ書きだけを続けている。


「——先ほど私は二つの鉱山の話しをしました。坑道は山の中を網目のように掘りまくっており、その総延長距離は数十から数百キロに及びます。今議論している静岡県内のトンネルの全長の比ではありません。それでもその二つの素掘りのままの坑道の側溝には毎秒数リットルから10リットル程度の湧水があるのみです」


 これについても天狗騨には疑問が生まれた。大井川は一級河川である。その源流部とこの鉱山とが比較するのに妥当な〝同じ条件〟とは到底思えなかったからである。ただ天狗騨は警戒心を解くこと無く、安易な突っ込みは避けた。またそんな間など無かったとも言える。

 ただ、記者とは持論を主張する仕事ではなく、人の話しを聞くのが本来の仕事である。天狗騨も記者。そうした職業上の立ち居振る舞いは一応身にはついていると言えた。教授のトークはなお続く。


「——『毎秒2tの水』は凄まじい水量で、それほどの水が出るようなトンネルの工事は、最近は見たことも聞いたこともありません」


 これを聞いた時天狗騨には絶対にぬぐえぬ不信感が目の前の人物に対して生まれてしまった。東日本大震災前に見られた〝楽観主義を基準とした思考〟を想起させたからである。


「——湧水を心配する人は、東海道線の丹那トンネルで鉄砲水が出たときのイメージが強いのでしょう。あの工事では、破砕帯の亀裂に溜まっていた水がドーッと吹き出してきたものだと記憶しています。一般に地下深く掘削するとその上数百メートルの地下水圧がもろにかかって大量の湧き水が出てくるように思えてしまうものですがこれは学問上、間違いです」


(しかし丹那トンネルの地表部に当たる丹那盆地では水涸れが起こり、それまでの農業が続けられなくなっただろう)と天狗騨は思った。むろん思ってる傍から話しは流れるように続いていく。


「——例えば東京湾の海底に敷設してあるアクアラインのトンネルの上の海水圧はトンネルにもろにかかっていて、小さい穴が空いていてもその上の水圧によって大量の水がトンネル内に吹き出してくるでしょう。これは潜水艦に空いた小さな穴と同じです。しかし山岳トンネルの湧水はこれとは同じになりません」


 正直なところこの後の話は天狗騨的にギブアップであった。

 『粘性抵抗』『地下水理学』『損失水頭』——。専門用語のパレードはド素人にとってはお手上げである。もっともらしく聞こえるようであり、上手く言いくるめられているようでもあり、要するになんだかよく解らない。

 しかし次の教授のことばを聞いた瞬間天狗騨は明確な違和感を持った。


「—— 一般に破砕帯を含まない地山の透水係数は非常に小さいものであり、全部合わせても家の前の側溝を流れる雨水程度の量でしょう。このように見積もるとJRTKが示している『最大で毎秒2t』という数値よりもかなり小さくなる可能性が高いと思います」


 たった今教授は〝〟ということばを使った。これについて天狗騨はSZO新聞の静狩から聞いていた事があった。

(とっかかりは既にできた)と天狗騨は確信し、しかしそれでも慎重に、ただ今は温和しく話しを聞き続けている。


 次いで教授は現代土木工学を礼賛し始めた。青函トンネルなどの例を持ち出し『日本が世界に誇る』ナントヤラ。

 そうして技術を誇った上で『技術的対策を施すので〝毎秒2tの湧水〟が発生する可能性などほとんど無い』と言う。


 天狗騨はASH新聞記者である。だからなのか『素晴らしい日本!』『凄い日本!』、といったこの手の言説に〝あってはならない過信〟が含まれているような気がして仕方がない。


 天狗騨がフンフンと調子よく相づちを打ちつつなにかしきりとメモだけはしている様子に気をよくしたのか教授の口はさらに滑らかになっていく。


「静岡県知事はしきりと環境問題を口にしていますが、それについても言っておかなければならない事があります。実はテレビ出演したときにも同様の質問があったんですが、」と〝なぜこの質問をしないのか?〟と天狗騨をチクリ。

 天狗騨はそれに気づいたが敢えて聞き流し、続きを促す。

 案の定と言うべきかその口から出てきたことばもまた〝日本礼賛〟であった。

 今度は〝制度〟、そして環境対策に今の日本がどれほど費用をかけ安全性を確保し綺麗な水を流すことに留意しているかを蕩々と語り出す。


 天狗騨自身にも経験があるが、こういう状態になると〝喋り〟はもう止まらない。すっかりゾーンに入ったかのようになっている。遂には〝環境基準の捉え方〟についても触れ始めた。


「環境問題について指摘される方々は『環境基準値を超えた!』といったような調子でその危険性を訴えます。しかし日本の環境基準というのは世界的にも厳しいものがほとんどで、人体に影響が出る値の10万分の1程度の低い値に設定されています。このことから水質についてもたとえ瞬間値が環境基準値の数倍になった程度で大勢の方々に影響が出るということはまずないでしょう」


 さすがにこの言い様には天狗騨はカチンと来た。(原発推進派か!)と。(基準値を超えていても問題が無いと言うのなら基準値は基準になっていないじゃないか)、と。そうしたらまたしても案の定、


「私たちには数字を正しく評価するための知識が必要です。そしてこの知識の不足が東日本大震災に続く農産物や魚介類へのいわれなき風評被害につながったのだと考えています」と来た。


 もはや教授の口舌は止まらなくなっている。天下の(?)ASH新聞記者が温和しくウンウン話しを聞いているだけの状況に、〝今圧倒的に論破している最中〟と自己陶酔モードに入り込んでしまったかのようになった。

 話しは段々と横道へと逸れ静岡県知事の行状へと移行していく。

 静岡県知事は大井川の水、即ち静岡県内で発生した水を「一滴も漏らさない科学的根拠」をJRTKに求めてきた。これについての〝異論〟を教授は訊かれもしないのに語り出していたのである。


「私はリニア中央新幹線の問題をきっかけに山梨県と静岡県との境の地形について調べました。表面を見ると、南アルプスの稜線が県境になっています。静岡県知事は静岡県内に降った雨や雪が真下に染み込んで地下水となり、その地下水がトンネルの傾斜に沿って山梨県側に流れてしまう事について言及しているのだと推察します。ところがあの辺りの地層は山梨県側から斜めに静岡県側に入っています。山梨県側に降った雨や雪が県境を越えて静岡県側に地下水として入っているところなのです。地下水の流れというのは複雑でその水の動きというものも地表の形からだけで一概に語ることはできません。『一滴』という言葉を本当に使われているのだとすると、それは科学的にも不可能でありナンセンスです」


(⁉)


「また地層が斜めに入っているところとしては神奈川県と静岡県の境も同様だと思います。神奈川県の山間部に降った雨の多くは、地下水として静岡県側に入っているだろうと推測されます」


(なぜ理系の教授が〝静岡県〟だとか〝山梨県〟だとか〝神奈川県〟だとか行政区画を語る? これではまるで静岡県が隣の県の水を『俺の物だ』と言っていると、そう言わんばかりだ)


 さらに教授のマシンガントークは続く。


「トンネル工事で発生する僅かな湧水よりももっと心配しなければならないものがあります。地球温暖化の計算をしてみると、台風の発生個数は減りますが、逆に1個あたりの台風の勢力は強くなる傾向が見えてきました。そうすると台風がもたらす集中豪雨による洪水と、河川の枯渇が周期的に発生するようになるかもしれません。河川の水量は短期的には増えますが年間を通しての水量は減少するでしょう」


「——さらに、梅雨のようにシトシトと降る雨は地下水として浸透しますが、瞬間的な集中豪雨は地表を流れて川に入ってしまいますから地下水には浸透しにくくなります。リニアのトンネル工事による大井川の水量は大きく変わらないと考えられますが、地球温暖化によって


(ハアッ?)と同時に天狗騨は脱力してしまった。しかし教授はそれに気づかない。


「——静岡県だけではなく日本中の河川において将来を見越した渇水対策を始める必要があります。これが将来の河川がもつ最大の課題であり、優先して検討すべき事項なのです」


 ここで初めて天狗騨が口火を切った。

「申し訳ありませんが最後のひと言で全てが吹き飛んでしまったのですが」


「どういう意味だ⁉」瞬間的に教授が気色ばむ。


「我々は『大井川の水量は減らない』という考えを拝聴するために来たのです。しかし結論が『』では話しが違います」


「だから地球温暖化で河川の水量が減ると言っているだろう! 聞いていなかったのか⁉」


「では大井川の水が減ったとしてそれが地球温暖化が原因だと、どうやって証明するのですか?」


「専門家が言ってるんだ!」


「今し方教授は『日本中の河川において将来を見越した渇水対策を始める必要がある』と言いました。つまり日本中の河川で大井川と同じ割合で水量が減っていないと証明が成り立たない筈です。違うでしょうか?」


「それは……」と言ったところで教授は詰まった。しかし天狗騨が後を勝手に引き継ぐ。


「大井川の水量減少割合が例えばすぐ隣の富士川や天竜川と比べ明らかに多かったなら水の量が減ってしまった原因はトンネル工事の影響だと言えるのではないですか? しかしわけです」


「私に予言者になれと言うのか⁉」


「その通りです。しかしあなたは別の意味で予言者になってしまった。結論が『大井川の水量が減ることは避けられません』ではやはり南アルプストンネルは掘るべきではないでしょう」


「なんだと!」


「大井川の水を使い生活をしている人々からしたらって事です」


「しっ、素人が何を言うか!」


「しかし教授が予測された水量数値はあくまで『』の場合ですよね? では〝破砕帯〟とはなんでしょう?」


 この言にギグリと固まる教授。天狗騨のターンが続く。


「——破砕帯とは、であるとの事です」


「——ならば〝破砕帯を含む場合〟は話しが違ってくる筈です」そう言って天狗騨は手にした手帳を繰り始める。


「【破砕帯】とは断層に沿って岩石が破壊された帯状の部分で、断層角礫や断層粘土が、ある幅で一定の方向に分布する。大規模な断層には大規模な破砕帯を伴う場合が多いのだそうです」


「素人が私に講義とはなんのつもりだ⁉」


 しかし天狗騨は委細かまわず続けていく。

「トンネルを通そうとしている南アルプスは日本列島を東西に横断する『中央構造線』と南北に縦断する『糸魚川静岡構造線』との交点に当たり、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートがせめぎ合う現場です。正にそこは大規模な断層そのものです。となれば当然そこには大規模な破砕帯がある」




 重い沈黙が場を支配する。しかし天狗騨は続ける。


「大井川の東方に位置する〝破砕帯〟の幅がよく解らないまま工事を進めようとしているという指摘があります。地質を調べるためのボーリング調査は静岡県側でしか行われず、山梨県側では未実施だとの事」

 これはSZO新聞静狩記者から聞いていた。


「南アルプスの〝破砕帯〟にトンネルを通しても大井川の水量にほとんど影響が出ないものでしょうか?」天狗騨は訊いた。


「……」




 あまりに間の悪い沈黙が続くため天狗騨の方から話しを切り替えた。


「これは皆さんに伺っている事なのですが、南アルプストンネル掘削によって大井川が例えば中流域で消滅してしまう可能性はあるでしょうか? 教授は地球温暖化の影響で日本全国の河川の水量が減る可能性を指摘されました。ならばなおさらその可能性は高くなっていると、率直にそう思ったのですが、教授の考えをお聞かせ下さい」


 教授は苦悶の表情を浮かべ黙り込む。しかしやおら、

「ノーコメントだっっ!」と怒鳴り散らした。


 天狗騨は抑揚無く「そうですか」と言ったのみで席を立とうと腰を浮かした。

 その瞬間教授の口からことばが飛んだ。

「まさかこの取材を記事にするつもりじゃあるまいな!」


 天狗騨は苦笑いを浮かべ、

「そのつもりはありません。期待した答えが得られませんでしたから。なに、取材活動ではよくある事です。どうかお気になさらずに」と口にし、傍らでもメモをとり続けていた祭に、

「じゃあ行くか」と声をかけこの場を辞する事にした。

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