第二百二十一話【今本能寺】

 天狗騨記者は静岡滞在二泊三日で帰京する運びとなった。SZO新聞の反応が〝良い意味で〟思いの外早かったため天狗騨的には率直にいって(これほど短く済むとは)という感慨を抱くほかない。


 その日の午後遅くASH新聞東京本社社会部フロアに足を踏み入れるなり天狗騨は違和感を感じた。

(なにか空気がおかしい)

 飛び交う怒声めいた声。しかし怒号のようでいてその声には真性の怒りがどこか希薄で、場全体が奇妙な興奮状態にあるように思われたのである。天狗騨は自身の机の傍まで早足で歩いていく。その僅かの間に〝どうも誰かが刺されたらしい〟事までは察知できた。

「ただ今戻りました」と隣に座る中道キャップに声を掛けると、待ち構えていたかのように中道が喋り出した。

「大変だ天狗騨、人が刺された! 20分前に入ってきた!」

「誰です?」天狗騨が訊き返す。

 なにかしら大事件が起こった際には人はそれを知らない人に伝えたがるものであり、例えばSNSによる誤情報の拡散はこうした人間の性質を証明していたりもする。中道も例外に漏れずそうした行動をとっていた。

 中道の口から聞かされた名は〝〟。聞いた瞬間天狗騨にはと来るものがあった。

「それで生死は?」と確認を求める。

「死亡が確認された」

(あれ?)と天狗騨は驚くより先に不可思議に思った。

「20分ほど前に〝刺された〟という第一報が入ってきたのなら、どうしてもう死亡が確定してるんです?」

「刺されたのが20分前じゃない。発見された時が20分ほど前でその時既に事切れていたからだ」

「いったい現場はどこです?」

「社長室だ」

「え? 社長室? そんなところで刺されて、刺された事に誰も気づかないんですか?」

「刺したヤツが秘書室長だったからだ」

 それを聞くや瞬間天狗騨は既に思考モードに入っている。

(大企業の社長ともなればスケジュールは分刻みの筈だ。社長が姿を現さなくても誰も奇異に感じなかったというのか? それとも社長のスケジュールを管理しているのが刺した本人だったから『スケジュールが変更された』と虚偽の情報で周囲を言いくるめられたのか?)

 しかし〝論理的考察〟とは別に人間には〝感情〟というものがある。だから思わず声に出た。

「つたく、が」と。

「それは社長の事か?」中道が訊き返す。暗黙の了解で誰の事を言ったのか通じてしまったかのようだった。

「その社長、『』とか言ってましたよね?」天狗騨は確認するように口にした。

「やっぱりお前も動機はそこだと思うか?」我が意を得たりとばかりに興奮気味に中道が尋ねた。

「まあ〝予断を持つな〟というのが建前、とは思いますが」

 天狗騨が一応そうした〝注釈〟をつけると中道は声を潜めた。

「いや、その秘書室長はな、なんと〝44歳〟なんだと。これは確度の高い〝予断〟じゃないか、この場合は。だ」


 天狗騨は自身が会社のお偉いさん連中に向かってこの現代が『明智光秀や松永久秀が市民権を得つつある社会』であると一席ぶった事を思い出した。


「本能寺だとマズイんじゃないですか?」天狗騨は訊いた。

「ああマズイな」と言いつつ中道の声は弾んでいる。

「いや、昔の終身雇用制の日本だったら恩を仇で返した明智光秀が『完全に悪党』で終わりなんですが、今は本能寺の変で明智光秀側に肩入れする勢力がいる時代です。しかし一方で織田信長側に肩入れする勢力も相変わらず健在でしょう。こりゃ分断しますよ。社説をどう書くか、論説委員は頭が痛いでしょうね」

「つまり部下を解雇したい立場の者は織田信長側に立ち、解雇される側に立つ者は明智光秀側に立つというわけか?」

「それは道理ですけど、どうも事はそう単純じゃなさそうですけどね。一流企業の社員が45歳で定年にされ路頭に迷わされる様に快哉を叫ぶ層が出ないとも限らない」

「そんな者がいるのか?」

「いるとするなら非正規雇用で働いている人々です」

「あ……」と合点がいってしまう中道。

「一年後の運命さえどうなるか分からない人々が果たして『45歳定年制導入』にどこまで憤りを持つでしょうか? なにせそうした人々には〝定年〟なんて概念が無いんですから」

「しかしそんな事を言っていると横暴な経営者の思う壺だ」

「いえ、全然思う壺ではありません。『上手いこと社員や社会を言いくるめ45歳で社員を定年に追い込み会社に利益をもたらす男』が栄耀栄華を極めそう、となったらまた状況は違うんでしょうけど、その男はもう死体になった訳ですよね。死体は栄耀栄華を極められません」

 その天狗騨の言い方に軽く引く中道キャップ。

「既に死体だから支持される、と?」

「そうですよ。見せかけの支持がどれほどかあっても近くには敵対者ばかりではね。明智光秀に常に傍にいて欲しいというトップもいないでしょう。むろんこの場合は〝有能な家臣〟としてでの明智光秀ではなく、〝謀反を起こす者〟として、を前提とした話しですが」

「天狗騨、お前の意見はどっちなんだ?」

「もちろん『45歳定年制』など論外です」

「そうだろうとも!」

「しかしそれはあくまで世間一般に〝良いところで働いている人々〟だけが支持する意見です。改革が社会を分断した結果、誰にでも訴求力がある総花的意見があり得なくなりつつある」

「うむぅ……」と言ったきりの中道。

 天狗騨は天狗騨で明らかに忌々しげな顔をしていた。

「だから〝とっつあんボーヤ〟と言ったんですよ。定年は60歳と社会的に決まっていたのに、余計な事をしてくれたもんです。いい歳ぶっこいて社会経験が全く足りてないから〝その価値観〟を口にしたとき誰が味方になって誰が敵対者になるかがまるで読めないんです」

 それはほとんど死者に鞭打つが如き言い様。それでも足りないのかさらに天狗騨がまくし立てる。

「——人間という存在を洞察する力が圧倒的に足りないあの〝とっつあんボーヤ〟には『何をやろうと従順に温和しく我慢してくれる存在が人間だ』と思い込んでいる節さえあった。江戸幕府という存在がどれほど年月をかけて日本人の凶暴性をそぎ落とし治めてきたのか、そうした歴史経緯についての教養すら持ち合わせていないで社長だったとは笑えます。未成年の頃はもしかして人をイジメた経験があるんじゃないですかね。それでたまたま誰からも仕返しを受けないで生きてこられた。これで益々社会は悪くなりますよ」


 そこに後ろから声が掛かった。

「天狗騨キャップ、じゃなかったんですか?」

 それは祭の声だった。天狗騨は反射的に椅子をターン。

「ああそうだった。つい熱弁化してしまった」と反射的に弁明。

「悪い。俺が訊いただけなんだ」と中道も弁明する。しかし天狗騨の『この殺された社長を支持する勢力が出るかもしれない』という話しを聞いて〝なぜか高揚していた気分〟が沈降の一途を辿っている。

 天狗騨は天狗騨でリニアにかかりっきりになっていて、するとまるで世の中の中心問題がリニア中央新幹線であるかのような感覚にすっかり陥っていた。

 ——のだが、大事件というものはそんな意識とは無関係に起こるものだと改めて思い知らされていた。

 その祭がさっそく切り替え喋り出している。

「リストアップした大学教授達への問い合わせは現在〝半分ほど〟といったところですが、問い合わせた中に我々の報道方針の根本に関わる主張をする者がいまして、」

「根本に関わる?」

「『南アルプストンネル掘削に伴う湧水によって大井川の水量は減る』というのが議論の絶対前提なわけですが、『静岡県が指摘する問題が現実に発生するか大いに疑問がある』と言う大学教授がいるんです」

「そんな者がいるのか⁉」

「はい」

「それはトンネルを掘っても川の水量は減らないと言っているという事だぞ」

「正にその通りです」

「この主張に一定以上の説得力があった場合、特集記事そのものが成り立たなくなります」

「俄には信じがたいが……、で、その教授はどこにいる?」

「幸いにして都内の大学勤務です」

「じゃあ明日そこへ取材に行くしかないな」

「そう言うだろうと思って既に電話でアポはとっておきました。最悪私が行けば良いと思いまして」

「俺が行かないわけはない!」

「では今度もお供致します」

「分かった。どういう理屈でそう言えるのか、話しを聞いてみようじゃないか」


 と、天狗騨は言ったがそうした空気はこの半径2メートルほどの極小のテリトリー内だけ。白昼、大手企業の社長室で『45歳定年制導入』を押し進めようとしていた社長がその部下によって刺殺されていた事件によるこの奇妙な興奮は当分収まりそうにない。

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