第二百十六話【ふたりのキャップ】
渋々ながらも祭の静岡同道を認めてしまった天狗騨記者。その祭は、
「ではまずリストを作ります」と言って天狗騨の元を退去していった。それを目で追う天狗騨。なぜだか社会部フロアから姿を消してしまった。
(政治部へご注進か)などと思ってしまう天狗騨。
「天狗騨、天狗騨、」と隣から声が掛かる。隣の席はもちろん中道キャップ。キーボードを叩く指の動きが止まっている。
「なかなかのキャップっぷりだったじゃないか」となぜだか褒めてきた。
「キャップって言ったってこの特集が終わるまでの一時的なもんですよ、キャップ」
「キャップにキャップと呼ばれるのも妙だが」と中道。
「いえいえ。この仕事が終わったらキャップは元のキャップになります」
正直なところ中道は『ようやく天狗騨の上司を辞めることができた』と胸をなで下ろしていたところであった。『同格になってしまった……』という意識は希薄。それがまた下にくっつかれてしまったら元の木阿弥である。
「それはヒラの記者って事だぞ。出世欲が無いのか?」
「出世すると自由が無くなるじゃないですか」
その言い様に軽く目まいを覚えるが、しかしこれまでの会話はいわば前振り。
「あの祭って部下をどう思った?」そう中道は訊いた。
この上司の迷惑を一切顧みない男が部下を持ったとき、いったいどういう感情を持つものか、単純な興味本位であった。
「よく解らないヤツですね。何を考えているのやら」
「まあお前の場合、何を考えているのか分かり易すぎるが」
「そりゃ言うだけ言いますからね。しかしどうもあの祭という部下は色々言うは言うが、魂が入ってないというか」
「なんだその精神論めいた抽象的な言い草は」
「『魂を入れろ!』とかそんなよく解らない説教はしてないですけどね。ヤツの場合本気でそう思って言っているのかどうか解らんのです。何かいろいろ探られているというか調査されているような気がする」
「そら簡単な理由だ。政治部から来ているからな。疑いのまなこで見ればそう見えるだろう。だいたい記者が感情も露わに質問をするってのはどうかと思うぞ。『江川事件』の昔じゃあるまいし」
「『江川事件』って、思いっきり昭和じゃないですか。『まあ皆さんそう興奮しないで』でしたっけ?」
「よく知ってるな。確かそんな事言ってたよな。ま、今じゃ巨人もそこまで憎まれちゃいないが」
「〝よく知ってる〟云々はお互い様ですよ。しかし巨人がどうとか言うより、壮年の男が二十代半ばの若造に舐めた口をきかれたのが許せないとか、そっちの方が勝っていたような気がしますね。こういうのには昭和も令和もないでしょう」
「いや、ルール無視で他人の迷惑顧みず人気球団に強引に入団しようとしたとか、憤る点はそこになるのが普通じゃないか?」
「いやいやキャップ、私は特定球団に固執するプロ野球志望選手のメンタリティーよりは当時の記者のメンタリティーの方に興味がありまして。まあ当時の映像を今見ると記者が大人げない事にされるんでしょうけどね。だけど紛れもなく本心だったという意味ではあれはあれでいいんです」
「相変わらず変わってるよな」
「取材側の誠実性の問題ですよ。取材の時だけ感情を偽り取材対象に質問していてもですよ、それが記事になると結局本物の感情が行間からにじみ出るじゃないですか。これを取材される側の視点で見ると『裏切られた』とか『騙された』とか『嵌められた』だとかになるんじゃないですか?」
「それはオフレコ発言が記事にされるパターンだな。だがそれならあの祭ってのは逆に安心できないか? 露骨な味方のフリをしていない。取材対象が警戒して本音を口に出さない状況を避けるには『私は味方ですよ』というアピールが必須だからな」
「キャップはなかなかのポジティブ思考ですね」
「まあそういう事になるかな」とまんざらでもない中道。
「しかしですね、私も記者ですよ。私は取材対象ですか?」
「或る意味取材対象だな。『天狗騨』という人間はそれくらい興味を持たれる人間になってしまった」
「勘弁して下さいよ。そういうのは確かに理屈ですけどね、後々の事を考えたら別の面で良くないような気がしますがね」
「〝別の面〟ってなんだ?」
「記者同士で本心の探り合いです。同じ組織で日常的にそれをやってるとなんだかソ連っぽくないですか?」
「……まぁ、な……」と口にしたところで〝うぅんっ!〟と中道は咳払い。「——ところで天狗騨、明日から静岡出張か?」とここで話題を切り替えた。
「ええ、何日間になるのかちょっとよく解りません」
「は? 静岡だぞ。日帰り圏内だろ?」
「上手くいくかどうか解りませんが、上手くいくようだったら数日戻らないかもしれません」そう天狗騨は言った。
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