第二百五話【アリバイ造り】

「主幹、『ナチスは良い事もした』などというそんな言い草は〝逃げの議論〟です。ハッキリ言って

 〝本題〟とは明らかにかけ離れているのが解っていながら天狗騨記者は律儀に『ナチスな話題』につき合っていた。己が少しも認められていないと気づいているが故でもある。


「逃げ?」


「私ならそう言った者にこう問い返しますね。『ではナチスのした悪い事を言ってみて下さい』と」


 しかし論説主幹の顔には〝?〟マークが書いてあるようだった。乗りかかってしまった船でしょうがなく天狗騨は解説するハメになった。

「本当に逆に張っているのなら『ナチスは良い事した』と断言しなければなりません。逆になど張れないから『ナチスは良いことした』としか言えんのです。『を』と『も』の助詞の使い方で発言者の内心など簡単に見抜けます!」


 しかししかし、まだ論説主幹は何の反応も示してはくれない。


「こういう事ですよ。『ナチスは良い事した』という表現ではあたかも良い事だけしかしていない、と言わんばかりです」


「——一方『ナチスは良い事した』という表現には〝悪い事をした〟という前提がある。おっかなびっくり少しだけ肯定するような輩を相手にしての論争などイージーモードですよ」


「いや、ナチス肯定論だぞ、それは」


「ナチスの思想とは『ゲルマン民族・アーリア人など表現はいくつかありますが、ともかくドイツ民族は優秀民族であり、その対極にいるのがユダヤ民族である』という思想ですよ。ちなみに日本人はドイツ民族の格下の二級民族であるという位置づけです。日本人がナチスなど肯定する意味はありません」


「いや、日本人にもナチスを肯定するメリットというものはある。世界中の誰もが認める『ナチス=悪』が絶対じゃなくなれば日本の戦争責任だって絶対じゃなくなる。それを信じたいという需要があるだろう」


「そりゃそうでしょう。『日本にだけ戦争責任がある』などという価値観は粉砕するに限る」


 あまりにド正面から肯定されてしまい立ちすくむしかない論説主幹。しかしこれは通常運転の天狗騨。よって次の発言もまた天狗騨である。


「——しかしそのために『ナチスは百パーセントの悪じゃない』などと曰う意味は無いです。第二次大戦の史観は『連合国=善・枢軸国=悪』という勧善懲悪史観です。『日本にだけ戦争責任がある』などという価値観を粉砕しようと思ったら、『連合国側の正義』こそを絶対的なものにしない事です。つまりです。連合国から見てドイツも日本も悪党にされているのに、悪党の仲間内で『オマエは悪党じゃないよ』と言い合うことにカケラ程の意味もありません」


 これにはぐうの音も出ない論説主幹。しかし〝話すこと〟をやめるでもない。

「『アウトバーン建設で失業者が激減』とかいう研究者の間では既に否定されている事柄を吹聴し続ける連中の味方をするつもりか?」


 今の論説主幹の発言で(ははぁ、)と天狗騨は思い当たった。(ASH新聞のあの記事か)と。

 天狗騨はハッキリ言ってその記事にまったく感心していなかった。やはり大学教授はダメだと、改めて『最も恐ろしい敵は無能な味方』なのだと痛感させられたものである。


「主幹、そのアウトバーンですが、『アウトバーン建設で便』と言い換えられてしまったら簡単に『ナチスは良いこともした』という意見の方が優勢になってしまいますよ。『研究者の世界では否定されている』とかいう大学教授の権威を笠に着たマウント取りは逆に言論的敗北を招きます」


(この男にはまったく通じないのか——、)と論説主幹は思うしかない。


「——『アウトバーン建設で減った失業者は全体のごく一部』というのも鬼の首を獲ったように言うべき事柄などではなく、一般論に過ぎません。例えば、ほぼ同時代のアメリカのニューディール政策にしても政府の公共事業による景気回復は限定的で、こちらの方も軍需産業のフル回転で経済回復したのです」


「——またアウトバーンは道路ですが、日本でも90年代後半頃に『無駄な公共事業』として散々道路建設が我々メディアによって叩かれていた筈です。道路をいくら造っても失業者が減る筈も無く、新たな失業者を出さないための政策でしかなかった。公共事業で経済再生は無かったわけです。なにせ90年代後半の日本では軍事需要など有り得ませんから」


「これは君の癖かもしれないが悪を相対化しようとするのもよくあるレトリックだぞ」まだ論説主幹は続けるらしかった。天狗騨はここでふと疑問が沸いた。

(なにか熱量が乏しいような気がする)と。

「ナチスの政策をアメリカや日本といった他国の政策と比べたらまずいですか?」と、まず訊き返した。


「そうじゃなくてだな、」


「ああ、という事はもしかして自己批判ですか?」と天狗騨。


「え? 私が?」


「ほら、2022年の2月でしたか、衆議院が『新疆ウイグル等における深刻な人権状況に対する決議』とかいう決議を採択しましたよね。新疆の他、チベット、内モンゴル、香港での信教の自由への侵害や強制収監をあげ、国際社会が納得する形で説明責任を果たすよう求めた決議です。『中国』という国名こそ盛り込まれませんでしたが『ウイグル』だとか『チベット』だとか触れてる時点で事実上『中国』を名指ししているも同じでした」


「——ただ、事前の調整の過程で元々『非難決議案』だったものがただの『決議案』にされ、『人権侵害』だったものが『人権状況』に改められてしまったのは腑に落ちないところでした」


「——ところがもっと腑に落ちないのが我々ASH新聞の社説でした。この中国を名指ししていないようでしているイマイチ微妙な決議について書いた社説です。一通り中国の行状に触れた後で『ならば』と啖呵を切り、『日本国内の人権問題の改善も必要だ』と日本に対する要求が盛り込まれていたのです」


「——『国連の人権理事会』『米国務省の人権報告書』からの指摘といった〝いわゆる外圧〟に触れた上で、『入管施設での外国人の処遇問題』、『外国人労働者らを守る制度も不十分』、果ては『部落差別』まで持ち出してきた」


「——こうした様々な日本の人権問題を並べ立てた上で『これらが解消されていない』として、『自ら襟を正してこそ他国に人権改善を求める説得力が増す』といった文言で社説は締められていました」


「——中国が日本から〝人権攻撃〟を受けた口惜しさだけは伝わりました。書いた人間が『人権には人権を』と意図した事も伝わりました。しかし『目には目を歯には歯を』になっていません。こうした表現を入れるよう求めた本人はそのつもりなのでしょうが正直書き方がヘボです」


「——例えば、その『米国務省の人権報告書』で、日本がアメリカに名指しされる度に『ヒロシマ・ナガサキにおける人権侵害』を持ち出して反論して効果はどれほどあるでしょうか? 原爆投下は確かに深刻な人権侵害ですが、何でもかんでも反論に『原爆投下』を使った場合、却って相手に開き直る名分を与えかねない」


「——ですから私は常に『目には目を歯には歯を』を心がけ、『海洋性ほ乳類には海洋性ほ乳類を』、『日本軍慰安婦問題には米軍慰安婦問題を』といった具合に相手の主張に対しキッチリ対称になるようにしています。こうすればたとえ相手が開き直ったとて相手を悪党にできる。そうした視点でASH新聞社説を見るとどうか?」


「——中華人民共和国のウイグル人強制収容所とは、『特定の民族だけを無理矢理収容する施設』に他なりません。これと似た事例を上げるなら、ナチスドイツがユダヤ人を、アメリカ合衆国が日系人を放り込むために造った施設でしょう。それでも〝日本について何かを言わなければ気が済まない〟と考えた場合、強いて言うなら『入管施設』が一種の強制収容所ですが、この施設は特定の民族だけを放り込む施設ではありません。むろん強制送還を前提とした施設なので帰国するならばこの施設から出られないという事はありません」


「——私にはASH新聞の社説が中華人民共和国という悪を相対化しているようにしか見えませんでした」


「そうじゃなくてだな、悪を相対化するとは『ナチスを批判するなら中国のウイグル問題も批判しろ』と主張するやり方だ」久々論説主幹が口を開いた。


 しかし天狗騨、改めて同じ事を感じた。

(論説主幹という地位にいる人間に対し、面前でこれだけ社説に悪罵を浴びせてもなお熱量を感じない——)そう、天狗騨は論説主幹を試すため故意に煽っていた。

「私はナチスがユダヤ人を強制収容所送りにした事案も非難しますし、中国がウイグル人を強制収容所送りにしている事案も非難します。なぜなら特定民族を収容所送りにするという点において双方の行為は同じだからです。どうしてこうした非難が悪を相対化した事になるんでしょうか? これは国語の再履修が必要なレベルですよ」


「さ、再履修?」


「〝悪を相対化する〟とは『中国のウイグル問題を批判しないのなら』と言った場合に成り立つんです。『しろ』と要求しているのにどうして『するな』という意味に受け取れるものか。そんな事を言う者が内心で何を考えているか、こちらに伝わってきたのは『私は意地でも中国のウイグル問題を批判しないぞ!』という固く歪んだ信念のみです」と、そこまで言った天狗騨は『ナチスな話し』を強引に終わらせにかかった。

「これはもしかして〝アリバイ造り〟ですか?」



 その回答が戻って来るまで少しの時間を要した。

「……カンが鋭いな」論説主幹は言った。


「それくらい解ります。他の方々にみられたような敵意がろくにありませんし、今言った『ナチスな話し』も借り物の主張に過ぎません」


「ならば天狗騨君、話しが早い。私は確かに君の行状について苦言を呈したな?」


「ええ、呈されました」


「事実は事実として、訊かれたらそのように答えるよう期待する」


「まあ事実ですからね」


「しかし、話しは聞けばいいというものではない。そこは〝実践〟が求められる。君はリニア中央新幹線のトンネル工事の件で特集記事を書くという大役を任された。そうだな?」


「その通りです」


「ならばそれ以外の行動は慎む事だ。そうした行動を伴って初めて私の苦言が実効性があったと見なされる」


(そういう事にしておきたいって事か)そうは思ったが天狗騨はこの場は模範的に振る舞った。

「解りました。与えられた仕事に集中します」


「そう。その返事が聞きたかった。じゃあこの場はお開きだ」論説主幹は言った。言った直後にカップの中にまだ残ったコーヒーをぐいと全て飲み干した。天狗騨も続けて飲み干した。カップをテーブルに置いたところで腕時計に目を落とすとギリギリ営業時間内。

「マスター、お勘定をお願いしたい」そう言いながら論説主幹が立ち上がった。天狗騨も立ち上がる。


「ずいぶんと面白い話しを聞かせてもらいましたよ、しかもお金をもらって」喫茶店のマスターは微笑を浮かべつつ言った。

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