第百九十三話【富裕層は経済に貢献しない】

「残念ながら、と言っておきますが論理的なんですよ、仏暁信晴は。あの男の中学校教師時代の担当教科は数学なんです。場末の演説会場で富裕層にくだを巻くような事ばかり言っているようなヤツなら脅威だのなんだの言いませんよ、私は」と天狗騨記者は返した。それに対し論説主幹、


「『富裕層はケイマン諸島へ島流し!』のどこが論理的なんだ?」と問い質す。


「それは煽り文句で、仏暁信晴の結論は『富裕層は経済に貢献しない』になります」


「貢献しないって……普通そこまで言い切るか?」

 『そう言っておくのが常識的』、論説主幹はそうした〝世間体〟に縛られ当たり障りのないことばを口にした。


「しかし〝トリクルダウン〟が無かったのは事実です」天狗騨は端的に指摘した。


 『トリクルダウン』、それは異次元の金融緩和実行に当たっての大義名分であった。富裕している者達の消費行動により中流以下にもカネが回るようになり経済は回復する筈だ——とするものである。


「そりゃあ、そんなものは無かったが……」


「問題は『富裕層は経済に貢献しない』と言い切るその過程でしょう。先ほどの旭日旗問題の証明式、『a=bのとき、b=cならば、a=cである』を否定できない事を忘れましたか?」


「またなにかの証明式もどきか?」


「純粋な計算式です」と、そう天狗騨は言いながら件の手帳を繰る。「——仏暁信晴が計算のために使った記事があります。『超高級輸入車、2021年販売台数が過去最高』というものです」


「——日本自動車輸入組合の発表に拠ると、1千万円以上する外国メーカーの超高級乗用車の2021年の発売台数は2万7928台だったという事です。このデータを元に富裕層がどの程度経済に貢献したかをあの男は考察してみせました」


 論説主幹は息を呑む。


「仏暁信晴は平均的値段を一台3千万円として、2万7928台でかけ算しました」


「定義は一台1千万円となっていなかったか?」と論説主幹。


「超高級と言ってみても1千万円と7千万円は同じにはなりませんからね、だいたいの中間値として一台3千万円で計算したのでしょう。それで3千万円×2万7928台を計算すると、8378億4千万円。富裕層はトータルでこれだけを自動車のために使いました」


「凄い額だな」


「仏暁信晴は『この程度でしかない』と言いましたが」


「ど、どういう事だ?」


「今、普通の車の値段は300万円といったところですかね?」唐突に天狗騨が訊いた。


「ま、そんなものかな」


「そこで次の計算式です。8378億4千万円÷300万円です。答えは27万9280です」


「そりゃ値段が十倍違うんだから台数が十倍になるのは当たり前だろう」


「そういう考え方じゃありません。300万の車が買えるのは中間層です。『年収が400万円もあれば300万の車は買えるだろう』と考えるんです」


「そうか……、そういう事か、」と意表を突かれたような顔をする論説主幹。


「ええ、富裕層の消費行動など中間層27万9280人の消費行動と同程度というわけです。日本の人口は1億人以上、それと対比させたら微々たる数字です。経済を発展させようと思ったなら富裕層にカネを集めるよりも、新たに27万9280人の中間層を造った方がよほど経済成長するという理屈です」


「なるほどな……確かにそう考えると富裕層は景気回復に貢献できる能力は無いな……」


「ええ、富裕層はたいていの発展途上国にはいますからね、経済大国であるかどうかは中間層の厚さに拠ります」


「そう言えば『中流崩壊』という流行語があったよな」論説主幹は今さらながらにそのことばを思い出した。


「これは富裕層に対する憎悪であると同時に、一部の人間に富が集まるよう改革してしまった政府に対する攻撃にもなっています。政府主導で種々の改革が実行されたのが1990年代半ば以降の日本ですが、その結果として富裕層が生まれる一方、今主幹が言われたとおり中間層がごそっと消えてしまった」


「——そして仏暁信晴はこう煽る。『種々の改革の結果27万9280人の中間層が下流に落ちたとすれば富裕層がどれだけ車に浪費しようと経済的にはプラスマイナスゼロ。中間層が27万9280人以上没落していれば一部の人間達を富裕させるために日本の経済力は却って悪くなったと断定できる』と」


(……確かに、その〝煽り〟には力がある……)と論説主幹は舌を巻きつつ容易には認めたくはない。


「——つまり〝失われた20年〟だとか〝失われた30年〟だとかの説明がついてしまう」と天狗騨が言い終わるや論説主幹は不満めいたものををぶちまけた。


「しかしおかしいじゃないか。のに!」


「『なぜは人気が無い?』と言いたいので?」


「左と言ってしまうとアレだが、基本的にはそうだ」


「別に富裕層に対して憎悪を煽っていないじゃないですか。外国にも甘いですし」


「外国って、また中国とか韓国とか言い出す気か?」


「『常任理事国は国際連合のオリガルヒ』。仏暁信晴はこれくらいの事は言いますからね。日本の野党とか左翼界隈はこういうのは絶対言わないでしょう?」


 『オリガルヒ』とはロシアのウクライナ侵略で俄に注目されるようになった言わばロシア政府の御用商人であり特権階級であり富裕層の事である。〝寡頭制〟を意味するギリシャ語由来のことばである。


「常任理事国がオリガルヒか……」(確かに寡頭支配だが)と思わざるを得ない論説主幹。


「そうです。フレーズが強烈で訴求力が違う」


「仏暁信晴という男の目的はなんだ? 政治家にでもなるつもりか?」


「違います。仏暁信晴自身のコピーです」


「こっ、コピー? どういう事だ?」


「従来の富裕層批判を『負け犬の遠吠え』だとすれば、仏暁信晴のそれは『負け犬の狂犬化』です。従順で温和しい日本人の性質を変えようとしている」


「!っ」


「しかしこれについては共感する部分もあるんですよ」


「お前、極右に共感するのか?」


「いえ。イジメ問題に取り組んでいた者同士としてです。『従順で温和しい』という人間ほど虐待されイジメを受ける。受け続ける。悲しいかなこれが人間社会の現実です。そしてイジメを受けた人間は少なからず『自分が態度を変えればイジメは止む』と考えてしまう傾向がある。これなど『今のお前の生活レベルはお前が努力を怠ったせい』とする〝自己責任論〟と何らの違いもありません」


「——だったら問題解決のためには『やられたら報復だ』、という価値観を日本社会に定着させた方が力を持つ者が弱い者に対し襟を正すと思うんですよね」


「報復肯定論かっ」


「いえ。基本イジメ問題解決論です」


「……」


「これでなぜ私が仏暁信晴という男をマークしているかお解り頂けたかと思います」


「その男の意図は成功していると思うか?」


「成功しつつあるのだと考えます。むしろ成功しない道理が現代社会に存在しない」


「聴衆がサクラである可能性は?」


「程度については解りません。ただ、本物の支持者からすればいつも自分達だけで席を埋める行為には意味がありません。価値観を広めるためには支持者以外の者も集めなければ目的は達成できませんから」


「社会に対する不平不満を効果的に突いているのだとしたら極右の勢力伸長は止められないのか——」論説主幹は喫茶店の天井を見上げる。(ここは日本なのに……)


「もはや或る程度はしかたないと諦めるべきです」天狗騨は論説主幹の内心を知ってか知らずかそう言い切った。

 しかしその直後、こうも続けた。

「肝心の問題は〝限度〟です。少なくとも極右に天下を獲らせない方法がひとつだけあります」と。

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