第百八十二話【沸点計測テスト】
銀座、再びかの喫茶店である。それはもちろん社会部長行きつけのあの店。いつからそこに店があるか分からないくらいの古い小さな喫茶店。
「君はなかなか良い趣味をしているな」席に着くや論説主幹が天狗騨記者を誉めた。
「私の上司の行きつけですが」と応じた天狗騨。既に店に入るなり注文は済ませてある。コーヒーの事などろくに解らないので「前のを」と言っただけ。驚くべき事にマスターは〝一見さん〟でしかない天狗騨のことを覚えていて、それでオーダーが済んでしまった。ために論説主幹の目には天狗騨があたかもこの店の常連客のように映ったのであった。
しかし天狗騨は内心困惑の極みだった。(もうなのか、)と。どういう事かと言えば天狗騨記者の査問会が行われた正に同日、その夕方にもうこの場にいるのである。論説主幹から打診を受けた際、
「私は大丈夫ですが主幹には社説の仕事があるのでは?」と天狗騨が問うても、
「他の連中の理解は得てある」と戻ってくるだけ。
それもこれも『主幹は天狗騨にガツンと説教をかましてくれるに違いない』という周囲の勘違い故である。それくらい皆ストレスが溜まっていた。
「
「一通り触れたと思いますが」と応じる天狗騨。
「元中学校教師である事と、あと君が話したのは〝極右についての一般論〟だけだがね」
「珍しいですね。どこの馬の骨とも知れない男ですよ」
「むろん承知で言っている」
「どういう話しが聞きたいので?」
「仏暁信晴という極右の思考だ」
「どうしてそんなものを知りたいのです?」
「それが世の中の見えない動きなら職業上知っておかねばならんよ。君もそうした職業意識を持っているからこそ取材を敢行したんだろう?」
ここでコーヒーが二人分運ばれてくる。やりとりはいったん中断。
ひと口コーヒーをすすり論説主幹は促す。「どうかな?」
「しかしその話しをすると私が極右みたくなるんですが」
「私は思わんよ」
「ですが極右の主張を聞くと熱狂するんですよね」
「おいおい、天狗騨君、私も極右じゃないぞ。支持などしてないんだから熱狂のしようが無い」
「しかしむしろ極右に反対する者ほど熱狂してしまうものです」
「えらくもったいぶるな」
「こう言ってはなんですが、こういう話しは沸点の低い人とするのは気が進まないんですよ」
「おいおい、」
「しかしウチの会社(ASH新聞)には割と多いでしょう?」
「……まあ否定はできないな」と言いながら論説主幹はコーヒーをすすった。天狗騨もコーヒーに手をつける。
「そこでひとつ。沸点の高い低いを量るにちょうどいい設問めいた話しがあるのですが、」そう天狗騨が言うと論説主幹が身を乗り出した。
「その話しをしていいかどうか、訊いているという訳かね?」
「ご明察です」
「君は面白い男だな。もちろん構わんよ」
天狗騨は論説主幹に敬意を示し居住まいを正すと、語り始めた。
「ロシアがウクライナを侵略した際、日本国内に信じがたいバカが出現しました。曰く、『ウクライナがロシアと戦うのをやめれば多くのウクライナ人の命は守られる』。この手の主張を裏書きする根拠が『第二次大戦で日本がもっと早く降伏していれば多くの日本人が死なずに済んだ』というものでした」
天狗騨が一拍の間をとる。
「——私はたった今、思いっきり『信じがたいバカ』とまで断言しましたが、なぜこうした結論に至ったか、その理由を当ててみてください」
「ふむ、それなりの根拠は無いわけではないが……」と論説主幹は言いながらコーヒーをすすると、こう答えた。「——ロシアの支配下に置かれたウクライナ人の人命が守られるかどうか、我々のような外国人が保証などできるわけがない、そんなところか」
「マジメですねえ」
「上役に向かって言う言葉か」
「これは失礼しました。ともかく今ので主幹が沸点が低くはないのは解りました。沸点が低いと『第二次大戦で日本がもっと早く降伏していれば多くの日本人が死なずに済んだ』が否定された時点でもうキレ始めますから」
「今の設問に別の答え方があるのか?」
「〝私の答え方〟ではなく〝仏暁信晴の答え方〟ですね。あの男の演説会を二度ほど聞いた事があるんです」
「どういう答え方なんだ?」
「それが真ならば『中華民国が大日本帝国と戦うのをやめれば多くの中国人の命は守られる』、もまた真であると言うんです」
「……」
論説主幹はしばらく絶句した。「なるほど、そういう方向性か……」
「しかし仏暁信晴の目的は侵略の正当化ではありません。目的はあくまで論敵の悪魔化です」
「悪魔化?」
「『ウクライナがロシアと戦うのをやめれば』、などと曰う輩は確実に『中華民国が大日本帝国と戦うのをやめれば』とは言わない。なにせ言っているのを聞いた事が無い。こうした輩はロシアの侵略は容認し日本だけに理不尽な攻撃を加えている。こうした理不尽を受けた我々日本人は被差別者であり被害者だ。ヤツら加害者一味を許すな!」と天狗騨は身振り手振りを組み合わせ喋り切った。「——とまあこんな具合で論敵を悪党の側に追いやる」
「……では天狗騨君、この極右に君ならどう打ち勝つ?」
天狗騨はやや首を傾け考える風になっている。そしてやおら、
「その『うちかつ』とはどういう字を書きます?」と奇妙な事を訊いた。
論説主幹はその求めに疑義も唱えず、内ポケットから手帳を、胸ポケットから万年筆を取り出しさらさら手帳に書いてみせ天狗騨に示した。
そこには『打ち勝つ』とあった。
それを確認した天狗騨は今度は自分の手帳を取り出しボールペンで何事か書き綴る。そしてその手帳を論説主幹に示した。
「こうなりませんかね?」
そこには『打ち克つ』とあった。
「『克服』という意味での『克つ』なんです」天狗騨は言った。
しかし論説主幹は小首をかしげる。
「ニュアンスとしては解らなくもないが、極右との戦いには勝敗はつかないというのは、『極右に勝てない』という意味になってないか?」
「むしろそこは発想の転換で『極右に敗けない』と考えて頂きたいところです」
「勝ちもしないが敗けもしないとなると、必然『引き分け』という事になるが」
「その通りです」
「極右の主張が一定程度まかり通るのもやむなしという訳か?」
「それもまたその通りです」
「仏暁信晴という極右はそれほど手強いのか?」
「誉めているように受け取られるのは不本意ですが、その通りです」
「君ほどの者がそこまで言うとは。ならばどんな思考をするのか、益々知っておかねばならないだろう」
天狗騨は僅かに口を歪め、しかし論説主幹の期待に応えた。
「ではまず、主幹の持っているであろう〝先入観〟から、敢えて否定しましょう。『極右など全部否定してしまえ!』という主張では、却って己の方を否定する自爆的主張となる。なにせ仏暁信晴は部落差別にこれ以上ないくらいに明確に反対していますから」
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