第百七十六話【ウラジオストク】
「さっそく結論から行きましょう! ウラジオストクは中華人民共和国の領土ですっ!」
天狗騨記者のあまりにあまりな物言いにASH新聞役員用会議室内にいる面々はただぽか〜んとするばかり。その天狗騨がさらに続ける。
「——これを我々ASH新聞がキャンペーン報道にして煽れば日本人が仕掛けようと必ずや中ロ対立は起こる!」
ぽか〜ん状態がまだまだ続いている。天狗騨がなお喋り続けている。
「——即ちそうした記事記事がSNSで拡散される事により必然中国人のナショナリズムはロシアに向かい燃え広がるしかない!」
「待て待て天狗騨君、一人で納得しても他が置いてけぼりだ」論説主幹がようやくブレーキをかけた。
「どこら辺りから置いてけぼりなんです?」
「最初からだよ! ウラジオストクからだ。これはロシアのウラジオストクなんだよな?」
「他に無いでしょう?」
「そこはロシアの都市で軍港だ。中国の領土ではない」
「『沿海地方帰属問題』、略して『沿海問題』をご存じありませんか?」
(中国の領土みたいな名だが……)
しかし『知っている!』とは言い切れない論説主幹。彼が察知したのは〝沿海〟を『海に沿っている陸地』というだけの〝一般名詞の意味で言っていない〟という事だけ。一方天狗騨はつまらない挑発は一切行わず直線的に話しを進めていく。
「中華人民共和国で使われている歴史教科書には『極東の中国領150万平方キロが不平等条約によって帝政ロシアに奪われた』とある。この奪われた土地を中国では『沿海地方』と言い、この中にウラジオストクが含まれる。このウラジオストクという名前が『極東を制圧せよ』という意味を持っているというのは少しばかり有名な話しです」
天狗騨は話しを続ける。
「——確か、先ほど私は『日本人が煽っても中国人にもロシア人にも見破られる』と言われてしまいましたが、我々は中国の歴史教科書に書かれた中身を拡声器に乗せてばらまくだけのこと。中国の歴史教科書は国定ですからね。中国の方は反発しようたって反発できるもんじゃありませんよ」
やおら一人の男が立ち上がった!
「いっ、いつからお前は〝中国の歴史認識〟を真実だと思い込むようになった? 『南京大虐殺』をあれほど露骨に否定していたくせに!」それを言ったのはなんとあの左沢政治部長だった。
「左沢さん、まるで『中国人が嘘つきだ』と言わんばかりじゃないですか」
「俺の言ってるのは中国人と言うよりは中国政府だ!」
「そうは言われましてもこれは必ずしも『中華人民共和国の歴史』というわけでもない。我々は昔から中国社会に根付いている『中国人の歴史』を使おうというだけの事なんですよ」
「『中華人民共和国の歴史』と『中国人の歴史』はなにが違うってんだ⁉」
「宿敵とは認めたくないがASH新聞的にはどうにも気になって仕方ないSNK新聞に、中国の『
「『国恥地図』だと?」
「ああ、失礼、説明を端折ってしまいました。それがどんな地図かと言えば『本来の中国の領土はここからここまで』という地図で、今は中国の領土ではないけれど、これらは『諸外国に奪われた自国領』でありその歴史を『国の恥』と断じたが故のこの奇妙な名前です。とは言え『いつから〝中国の歴史認識〟を真実だと思い込むようになった?』といった反論は一定程度成り立ってしまうことだけは認めなければなりません」
ここで天狗騨は件の手帳を繰り始める。
「——なにせもし、この地図通りの国土を中華人民共和国が得たとするならば、地図上からずいぶん多くの国が消える事になる。例えば西方はカザフスタン・アフガニスタン。例えば南方はマレーシア・シンガポール。例えば北方はモンゴル。例えば東方は北朝鮮・韓国です。中国人からしたらこれらの国々は地球上に存在すべきではないという訳です」
「——ちなみに今、日本の名が出ませんでしたが幸い日本列島は中国人に自国領とは思われてはいません。しかし『沖縄』は別です。私達日本人は『昔、琉球王国という独立国があった』という認識ですが、中国人から見るとそれは独立国ではなく中国の領土という事になる」
「——なぜこんな事になるかと言えばどうもこれは〝
「——ただ、この『国恥地図』は百パーセントのデタラメとも言えないところがくせ者です。条約によって外国へ領土を割譲した場合、『諸外国に奪われた自国領』という表現が正しい事になる。『香港』や『マカオ』は既に中華人民共和国が取り戻しています。残るは下関条約の『台湾』。北京条約の『沿海地方』です」
「——幸いな事に台湾はもう日本の領土ではありません。現地住民が民主的に統治する自治の島です。なので中華人民共和国がその住民に対し返還要求する事はできません。一方『沿海地方』はというと、未だにロシアの領土となっています。つまり返還要求が成り立つ。しかしどういう訳か中国指導層は台湾を自らの勢力下に置くことには執着しているがロシア連邦に対し沿海地方返還要求は行いません。それどころか両国は蜜月です」
「待て、そこまでだ」そう論説主幹が言い天狗騨と左沢の二人の間に割って入った。とは言っても左沢政治部長は押し込まれる一方だったのだが。
「私は『北京条約』のなんたるかを説明せざるを得ないと考えていたのですが」天狗騨は言った。
「それくらい私は解っている」そう論説主幹は応じた。
「しかし主幹はウラジオストクはロシアの都市だの軍港だの言っていたじゃないですか」
「『北京条約』と聞いて思い出したんだよ」
天狗騨がASH新聞役員用会議室内にいる面々をゆっくりと見廻していく。するとススと誰もが視線を逸らしていく。
「よく解らない方がかなりいるように見受けられましたが」天狗騨は断定した。
この中の誰かが天狗騨に何事か突っ込まれ何も答えられなかったでは社の上層部としての沽券に関わる。普段から『歴史!』『歴史!』言っているのに『その程度か』、とあざけりを受ける可能性もある。だから返答はこうなるしかなかった。
「手短に済ませろよ」論説主幹がもう投げやりに言った。この時彼にはだいたいの天狗騨の回答が理解できていたのだった。むろん天狗騨には手短に済ませるつもりなど、毛頭無い。
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