第百七十二話【日本外交の封じ手】
「『外交で中国やロシアに対抗できる』、それが君の〝現実主義〟かね?」論説主幹は訊いた。
「ええ、現実主義です」ずけりと天狗騨記者が断言した。
「驚いた。それが本当ならASH新聞社論として万々歳ではないか」そうついつい皮肉もかましたくなる。これはなにも一人論説主幹だけの感情ではない。このASH新聞役員用会議室内にいるほとんど全ての感情もまた同じであった。
「ただし、
「大きく出たじゃないか」またまた皮肉が論説主幹の口をついて出た。
「大きくも何も、私は現実的方策を口に出し喋ろうとしているだけです。ぶっちゃけた話し、社説で『外交で解決しろ』と注文をつけても外交で打開できない問題ばかり。〝これはなぜか?〟をあなた方は一度でも考えた事がありますか?」
「……」
論説主幹は沈黙した。有り体に言ってそこまで考えた事が無かったからである。『外交で解決しろ』は、戦争を避けるためのこれ以上無い〝良心的な意見〟であり、とにかくこれを言っておけば間違いないというそういう〝主張〟だからであった。この主張に疑義を差し挟むなどという行為は良心を踏みにじるとんでもない悪行なのである。
「それはできる能力の無い者に『やれ』と言っているだけだからです」天狗騨は言い切った。
あっけにとられる論説主幹を始めとするお歴々。彼らは日本という自国に対し自虐的な振る舞いをしがちな人間達ではあったが、自国の政府や外務省をここまで無能呼ばわりはしたことはない。なぜならそれを安易に行えば『外交などでは解決しない』という主張に力を与えてしまうからである。しかし天狗騨、思いっきりそれをやってのけていた。
〝危険な事〟を天狗騨が語り出そうとしている予感だけが誰にもあったが誰も天狗騨をねじり伏せるだけ論理、即ち対処法がひねり出せないでいる。そんな中、一人天狗騨の口だけが滑らかに動いている。
「——それはあたかも達成不能の営業目標を部下に要求するブラック企業の上司か、はたまた東京大学理科三類以外には大学は存在しないと子どもに擦り込む毒親のようなものです」
「我がASH新聞社がブラック企業だと言うのか⁉」
論説主幹を差し置きそういう声が脇から飛んだ。そして次々あがる同意の声。誰も彼もが〝ブラック企業〟の方だけに反応した。
「盛り上がってきましたねぇ」天狗騨が髭もじゃの口をにかっと開いて言った。
「くだらん挑発は
論説主幹には天狗騨が挑発から〝こちら側の失言〟を引き出す戦術を採っているようにしか思えなかったのである。
「挑発ではありませんね。〝言われた者の悲しみ〟を理解すべきという、そうした思いから持ち出した事例ですよ。達成不能の営業目標を強要される会社員の悲しみ、東京大学理科三類合格を〝できて当然の事〟として擦り込まれる子どもの悲しみ、外務省や日本政府もこれと同じ悲しみを背負わされているのだと、そう言っているのです」
「それはいったいどういう意味かね?」
「『外交で解決しろ』の、『外交』の中身を分解して考えた事があるのか? って事です。いきなり答えを言ってしまいますが有り体に言って日本外交の中身は『みんな争いはやめて仲良くしようよ!』と『お金をあげるからそんな事はやめてよ!』の二つだけです」
「そりゃあまりにも悪意のある言い方じゃないか!」論説主幹がたまらず声をあげた。
「そうですか? 別に日本だけのオリジナル外交というわけでもないでしょう。しかし〝外交〟というものにはこれ以外にもう一つだけ手段がある。日本という国家はその手段を封じ手にされているので、外国に比べると一段外交力がどうしても下がってしまう」
「なんだその〝もう一つの手段〟というのは?」
「脅迫外交ですよ」
あまりの発言に論説主幹、声も出ない。
「外国政府を脅し外国政府を譲歩させる。そういう外交を日本はしない、というかできない。だから外交力は劣る」呵責なく天狗騨は続けた。
「いっ、いい加減にし給え天狗騨君! 自国の政府や官庁相手ならいざ知らず、外国をそこまで悪し様に罵るとはまったく排外主義者の言動だ!」
「ほう、論説主幹ともあろう者がロシアや北朝鮮のやり口を支持すると、そういう事ですか?」
「なっ、なんだと⁉」
「かつてロシア連邦がウクライナ国境に大兵力を貼り付けた途端に欧米がロシアと積極的に外交を始めましたね。北朝鮮の十八番であるいわゆる〝瀬戸際外交〟もまた同じ。これらの国々は緊張を高めた上で外交するのです。このように軍事力を外国に向けチラつかせ、その上で〝自国に有利な外交的妥結を外国に呑ませようとする外交政策〟を採る国は実在する」
「……」
「日本は平和憲法を護持する立場から絶対に採れない手法です」
なんと言っていいのか解らなくなる論説主幹。
「もうお解りとは思いますが『外交で解決しろ』と注文をつけても外交で解決しない理屈はここにある。このフレーズが外国が軍事力を振り回してきたケースで用いられるからです。軍事力を脅迫の道具として使い外交的成果を上げようとする国々に対し、こちらの行う外交が『お金をあげるからそんな事はやめてよ!』であったなら、軍事力を外交に使った国の正に思う壺。〝この外交は得をするからやめられない〟という外交的成果を得た国は味を占め同じ手段を次も必ず使う。だったら外交的成果を一切与えない方がナンボかマシという事になり、かくして外交で事態は解決しないわけです」
「……」
もはやなにかを言い様が無くなっていた。
「もっとも、何でもかんでも敵と味方に峻別するのもよろしくない。よって、『脅迫外交は味方相手にも可能』という指摘もしておきましょう」
「味方を脅迫するヤツがあるか⁉」
「ありますよ。例えばアメリカ合衆国は『人権&軍事力』のハイブリッド型外交脅迫を仕掛けてきた事があります。そして大韓民国がこれに便乗する形で外交的成果をあげた。『慰安婦問題で日本が謝らないから対北朝鮮の日米韓連携ができなくなっている』というのがそれです。日米韓は〝人権〟という共通の価値観を有している筈だろう、というわけです」
(またも慰安婦か!)
「ロシアや北朝鮮は『お前を攻撃するかもしれないぞ、攻撃されたくなかったら——』という形の脅迫ですが、アメリカや韓国は『お前を守らないかもしれないぞ、守って欲しかったら——』という形の脅迫です。ただし、前者はどこの国相手にも効きますが後者の手法は日本相手にしか効きません。これも平和憲法の効果です」
(クソッ! どこまでも憲法9条をコケにしおって!)
しかしその思いは声にはならない。
「さらに指摘をしておきますと『脅迫外交は敵でも味方でもない相手にも可能』です。例えば中華人民共和国は『経済&軍事力』のハイブリッド型外交脅迫を常套手段としています。南シナ海を埋め立て軍事施設を造り軍事力をチラつかせるだけではなく経済的利益をも組み合わせる。『我々中国のやる事に何かを言ってきたら経済的恩恵は無いと思え』という訳です。脅された側は脅されても100%の敵にならないし、なれない」
「——さて、ここで皆さんに訊きましょう。日本国は脅迫外交という外交手法を採るべきか否か? どちらが良いでしょうかね?」
「……」
「主幹、あなたは?」
「……日本は脅迫外交などという手段は採ってはならないのだ……」
「素晴らしい! 私と同意見です!」天狗騨がわざとらしいオーバーアクションをした。
「同じなのか? お前は『憲法9条を改正し日本も脅迫外交すべきだ』と言うと思っていたが」
「それはとんだ勘違いというものですよ。私が言いたいのは封じ手で外交手法を縛られた者に『外交で解決しろ』と居丈高に言うだけの人間に猛烈に腹が立つという、それだけの事です」
「ちょっと待て! じゃあ外交でどうやって軍事絡みの問題を解決すると言うんだ! お前は外交が現実主義だと言ったんだぞ!」
「あなた方には『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじ』の精神が決定的に欠けている。絶対に人を動かせない典型的パターンを延々繰り返しているだけです」
「それは山本五十六ではないか!」
「ご明察です」
それはもちろん『大日本帝国海軍・連合艦隊司令長官』の山本五十六の事である。
論説主幹は(なんでそんな旧軍の軍人など)とは思うが、『外交で解決しろ』と何度主張を繰り返しても人は動いてはこなかった。日本人も外国人も——。
なのでダンマリしか選べない。それくらい『人は動かじ』はASH新聞のお歴々にとって耳の痛いことばだった。
「最大の問題は『やってみせ、』の部分。全くやらないで人を動かせると信じ込めるのは驕りと言うほかない」と厳しく天狗騨は指摘した。
「我々民間人に外交しろと言うのか?」
「サポートです」
「〝サポート〟だぁ?」
「我々は日本の外交に『こうあるべき』と注文をつけている者達だ。脅迫外交は否定し、穏便な外交のみを求める。ならば政府ができない事を我々が、それこそやってみせ、戦後日本の外交方針を守るのが我々の責務というものでしょう!」
「我々にはそんな大層な力など無いのだ」
「ありますよ。日韓関係を破綻させたのが我々ASH新聞じゃないですか」
「なんだとォ? いったい我々に何をやれと言うつもりだ⁉」
とてつもなく恐ろしい答えが戻ってくる予感がしながら訊かずにはいられない論説主幹だった。
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