第百六十九話【2004年】

「『日本悪玉史観』がどれほど国際社会に害悪を与えているか、今から私が実例をもって説明しましょう!」


 天狗騨記者が切ったこの啖呵にASH新聞役員用会議室内にいる面々は誰一人反応できないでいる。『そんなバカなことがあるものか』程度の悪態すらつけずにいた。そこに容赦なく天狗騨が斬り込んだ。


「アメリカ合衆国下院の『慰安婦対日非難決議』は何年でしたか?」


(また慰安婦か!)この場にいるほとんど誰しもがそう憎々しげに思った。だが誰もものを言わない。なので、

「2007年のことです」と天狗騨自ら回答を述べた。


 『日本軍慰安婦問題』だけは激しく追求し『米軍慰安婦問題』を一切追求しないその報道は散々天狗騨に正義を問われなじられている。

(徹底的に弱点を衝いてきやがって!)と皆実に忌々しく思っていたが、やはりただ押し黙るしかなかった。

 ここで天狗騨は奇妙な事を言い出した。


「2007年というのはより後なんですね。そして2000年はより前です」


「そんなものは当たり前ではないか!」「だいいち2004などという数字はいったいどこから出てきた⁉」など非難めいた声が〝ようやく〟といった感じで上がりだした。


「おやぁ」と天狗騨がそれにわざとらしく反応した。「皆さん2004年の重大性を忘れてしまったのですか?」と。


 これは明らかに〝天狗騨の罠〟だと皆が皆瞬時に悟ったため、たちまちのうちに皆が皆沈黙状態へと逆戻りしてしまった。

 ニカッと天狗騨は髭もじゃの口を開き、

「話しは多少長くなりますがご静聴の方をよろしくお願いします」などといけしゃあしゃあと口上を述べた。「——まず私は物事を考察するときに〝時系列〟を重視します。物事が起こった順番に注意を払うことによって〝人間の行動原理〟〝人間の動機〟というものが見えてくる」


「——さて皆さん、時に『慰安婦問題』はいつから国際問題となったのでしょうか?」


 天狗騨の敵対者達にとって実に不利なこの話題に、場はシンと静まり返ったまま。


「——当時は『従軍慰安婦問題』と言っていました。これが本格的に国際問題化したのは1992年1月11日、この我々ASH新聞の〝報道〟からなのです。当時の首相・宮沢喜一の韓国訪問5日前の〝スクープ記事〟でした。私は今敢えてその記事の中身についての是非は論じませんが、以降日本は『慰安婦問題』で外国から糾弾され続ける事になります」


「——さて、この〝タイムラグ〟、実に妙だと思いませんか? 1992年にはとされていた『慰安婦問題』だというのに、アメリカ下院が日本を名指しで非難してきたのがそこから15年も後の2007年というのはかなり不自然じゃあないですか?」


 沈黙状態は続く。天狗騨は場をぐるりと睨め回す。


「誰も何も言わないので敢えて私が私にツッコミますが、この1992年当時の『慰安婦問題』は国際問題とは言っても『日韓間のローカルな国際問題だろう』と、そうしたツッコミが成り立たぬ事もない。では日本人・韓国人以外の第三国の外国人がこの問題に絡み出したのはいつ頃からでしょうか?」


「——まず忘れてはならないのは1996年の国連人権委員会で任命されたクマラスワミ特別報告者が提出した報告書、いわゆる『クマラスワミ報告』です。しかし、これがキャンペーン報道と言えるほど大々的に報道され、日本政府をして動かざるを得ないところまで追い込む大問題となったか? というと〝知る人ぞ知る報告書〟としか言いようがない。今にして振り返ると不可思議な事ですが、この時点で大韓民国は国を挙げて『慰安婦問題』で日本を糾弾してはいないのです。1993年の官房長官談話及び『アジア女性基金』に一定程度の評価は与えており韓国内の糾弾者は一部でした。この時点では『慰安婦問題』は解決したことになっていた」


「——また、もしこの1996年の時点で『慰安婦問題』で日本を再糾弾するキャンペーン報道が行われたとすればおそらくこの2年後の日韓両首脳による『過去の歴史に関する共同文書化』などは無かったでしょうし、〝右傾化〟と呼ばれる現象が日本に5年早く訪れていただけだったでしょう。だが新たな日本の謝罪を引き出せなかった追求者達は収まらない」


「——そしてこの報告の2年後の1998年、やはり国連の特別報告者の『日本軍慰安婦問題』に関する報告書、『マクドゥーガル報告書』が作られるわけですが、これは前述の『クマラスワミ報告』がいかに何の影響も及ぼさなかったかという傍証とも言える。しかしこの報告書もまた日本政府を動かすほどの大々的なキャンペーン報道に発展する事はありませんでした。これに業を煮やしたのか追求者達の次のアクションが始まります」


「——皆さんは『女性国際戦犯法廷』をご存じでしょう? あれだけ報道していたんです。知ってて当然ですね。『昭和天皇はレイプ罪で有罪!』、『昭和天皇は人道に対する罪を犯した戦争犯罪者!』と判決したあの模擬裁判です。裁判が行われたのは2000年の東京、結審は翌年2001年にオランダ・ハーグで行われました」


 天狗騨が件の手帳を繰り始めた。


「というわけで、この模擬裁判のために集まった日本人・韓国人以外の人間達の国籍を紹介しましょう。北朝鮮・中国・台湾・フィリピン・インドネシア・アメリカ・イギリス・オーストラリア。これだけの多国籍の外国人が関わっていたのです」


「——また、この模擬裁判は当該模擬裁判を扱った公共放送の特集番組の改変問題という当時のホットイシューを生み出しました。当然本紙(ASH新聞)の記事です。曰く、『与党保守系有力政治家の圧力で公共放送の放送前の番組内容が改変された』と。かなり大々的に騒いでいましたね。私はたった今〝保守系〟などと言いましたが、攻撃側の陣営から見れば〝危険な右翼政治家〟という事になる。『右翼の政治家が公共放送を脅迫し放送前の番組内容を改変させた』と大々的に報道したのですから、かなりの国際的宣伝効果があった筈です。明らかにこの時点で日韓間を超えた国際問題になったと言える。しかしこれでもアメリカ下院の対日非難決議は『女性国際戦犯法廷』が行われた2000年から7年も後の2007年なんですね。実に不自然だ。もはや2007年でなければならない理由があったと考えるほかない」


 天狗騨はぱたりと手帳を閉じた。


「さて、これで皆さんは先ほど私の言った『2000年は2004年より前』の〝2000年〟がどこから出てきたか、その意味が解ったかと思います——」


「——となると残るは『2004年』の意味のみ」



 ここで天狗騨は外連味たっぷりの間をとった。


「皆さんは当然かのイラク戦争を覚えている事でしょう。アメリカ合衆国がイラク・フセイン政権を軍事力の行使によって滅亡させた戦争です」


「——開戦年は2003年3月。〝開戦の大義〟は『イラクが密かに大量破壊兵器、即ち化学兵器・核兵器を開発している!』と、そして『このままではその大量破壊兵器がアルカイダなどの国際テロ組織の手に渡ってしまう!』、つまり『911同時多発テロ以上の大規模国際テロの脅威が差し迫っている!』という三段論法でした」


「——アメリカ合衆国の軍事力の前にイラク・フセイン政権はあっさりと崩壊。同年(2003年)12月、サダム・フセインがアメリカ軍によって捕らえられます。そしてCIAによるフセイン尋問が始まるわけですが、大量破壊兵器そのものも、開発の証拠も見つからず、アルカイダとの繋がりも証明できない——」


「——そして遂にその時が訪れます。2004年9月13日、アメリカ上院政府活動委員会の席において、国務長官パウエルは大量破壊兵器がこの先も見つからないであろうことを認めました。つまり戦争の正当性など無かった事が決定してしまった。かくして2004年はターニングポイントとなった。これが2004年の意味です」


「ここからが本当の大問題! 理屈の上ではアメリカ合衆国は名実共に侵略国となったわけですが、この侵略国を救い侵略者の魂を救ってしまったのが『日本悪玉史観』。つまりアメリカ下院による121号決議『慰安婦対日非難決議』です! むろんこの決議を後押ししたのはアメリカメディアによる日本攻撃のキャンペーン報道です! 『日本が女性の人権問題を軽んずるため対北朝鮮のための日米韓の連携までもが危うくなっている』とまで言われ攻撃されたものです」


「——決議そのものも問題だが決議以上に問題なのはこうしたアメリカメディアの報道姿勢だ! なにせメディアの報道は多くの人々の精神に影響を与える。確かにアメリカメディアはイラク戦争に失敗したブッシュ政権は非難してみせたが、イラク戦争を侵略戦争とまでは断定しない。アメリカ合衆国を侵略国と断定し非難しない。そして一方で『慰安婦問題』で日本を容赦なく攻撃する。自国に緩く日本という外国に厳しく、実に誉められない〝バランス感覚〟だ!」


「思い出してみてください。『慰安婦問題』が国際問題化した1992年も『女性国際戦犯法廷』の始まった2000年も、2001年のアメリカ同時多発テロの前です。つまり2000年の時点では『正義の国アメリカ』なる価値観には揺るぎは無かった。それが2003年のイラク戦争を経ての2004年には『正義の国アメリカ』なんて価値観は瓦解してしまった。そこでアメリカ社会は他者、即ち日本人という外国人を攻撃することで自らの正義性を確認するという自己防衛本能働かせまくりの行動を取るようになってしまった。それが2007年のアメリカ下院の『慰安婦対日非難決議』の意味です」


「『日本悪玉史観』がアメリカ社会にいかなる影響を与えるのかもうお解りでしょう? その影響とは『アメリカの正義の再確認』に他ならない! 『俺達は女性を性奴隷にした悪の国家を戦争でやっつけた正義の国だ!』というわけです! 侵略国アメリカを糾弾するどころかその侵略国を救ってしまう史観なのです!」


「仮にもし本当にアメリカ人の口が言うようにアメリカ人が慰安婦問題を『重大な女性の人権問題』と考えていたのなら遅くとも『女性国際戦犯法廷』の始まった2000年に『慰安婦対日非難決議』が下院で採択されていた筈だ。むろん同時に『米軍慰安婦問題』についても厳しい糾弾をも行っていた筈だ」


「私はもはや断言しますが『日本悪玉史観』というのはアメリカ人の免罪符にしかなっていない! イラク戦争ではバグダッド陥落後さらに続いていく混乱によって10万人ものイラク人が命を落としています。明らかにフセイン政権がそのまま続いていた方がイラク人の人的犠牲は少なかったと言える! 死ぬ必要のない人がどれだけ死んだことか! イラク人からみたら『日本悪玉史観』というのはアメリカ人という名の侵略者に魂の救済を与える邪悪な史観でしかない! 侵略者の自信を復活させるのが『日本悪玉史観』なのです! これは国際社会に害悪を与えている史観としか言いようがない!」


「このアメリカ下院における『慰安婦対日非難決議』が採択された2007年には、あたかもこうしたアメリカ社会の動きに呼応するかのようにロシア連邦にも興味深い動きがありました。当時のロシアの外務大臣『ラブロフ』が、北方領土の色丹島や歯舞群島に上陸し、こんなことを言いました。『戦勝国の行為は神聖で侵すことができない』と」


「『戦勝国の行為は神聖』、だそうですよ皆さん。何をやろうと神聖。逆に言うと『戦敗国の行為はどんな行為でも邪悪』という事になります。『日本悪玉史観』は戦勝国に利益を与え続ける史観だということが実によく解る名言だ」


「私は言いました。『日本という国家を悪玉と定義した場合、必然的に善玉の国ができてしまう。こうした国が真に善玉なら問題は無い』と。しかし〝真に善玉〟だと言えますか?」


 天狗騨はここで一拍の間をとってみせる。


「私は単純な反米主義者ではないので、アメリカ合衆国だけを叩くという行為はしません。同じ事は中華人民共和国やロシア連邦にも言える。中国はチベット人・ウイグル人を大量虐殺し、ロシアもチェチェンで同じ事をした。周辺国の侵略もこの2ヶ国は現在進行形で実行中だ。中国は東シナ海・南シナ海だけでは飽き足らず最近はブータン国境を越え建造物を建て始めている。ロシアもクリミア半島をウクライナから奪い、さらなる軍事的脅迫を同国に加え続けている。当然この2ヶ国に対する非難は起こるが非難されても彼らの精神は常に安定している。なぜなら『我々は悪の日本を戦争で破った正義の国だからだ!』と信じ込めるからです。『日本悪玉史観』はこうした現代の侵略国に明日の侵略のための養分を供給するだけの史観ですっ! 善玉と言えない国を善玉にしてしまっているこうした歴史観は有害以外の何者でもない!」


「戦後80年以上も経てばそれが本物の善玉か、善玉と言えない国を善玉にしてしまっているのか、もう答えは出ている。もう解っている筈だ! あなた方は『アメリカ合衆国・ロシア連邦・中華人民共和国連邦』というろくでもない国々をこの先も永遠に正義の国にし続けるだけの『日本悪玉史観』などを未だ奉戴し続けている! イラク人やチベット人やウイグル人やチェチェン人やウクライナ人といった被害者達に申し訳ないとは思わないのかっ‼」


 天狗騨の言い様は免罪符販売に激しく反発したかの『マルティン・ルター』にさも似たり。

 〝妥協〟を知らないこうした原理主義者に対抗する術はひとつしかない。


 それは〝現実主義〟である。


「天狗騨君、ちょっといいかね、」論説主幹が口を開いた。

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