第百六十七話【なぜあなた方は第二次大戦の『善玉国』の名を言えないのか?】

 肯定意見と否定意見、どちらが主張するのが簡単かを比べた場合、否定意見の方が圧倒的に簡単である。その上、傍目からは他人の意見を否定してみせる方が頭が良く見えるのだから人は安易に否定意見に奔る。その際たる者がマスコミ・メディアであり、『論破』なる価値観もまた同じ。誰かがまず〝論〟を出してくれないと破りようがないのである。


 『日本は悪だ!』。こうした構造の主張は日本の過去についての否定意見である。〝悪〟なのだから当然否定するほかない。


 しかし天狗騨記者の天狗騨たる所以は肯定意見を吐くよう要求する点にある。


 『○○は善だ!』。こうした構造の主張は肯定意見に他ならない。〝善〟なのだから当然肯定するほかない。


『善玉になっている国の名前を言ってみて下さい』という天狗騨の肯定意見の表明要求は否定意見しか吐かないまま過ごせて来れた者にとっては恐るべき破壊力を伴う爆弾であるとしか言い様がない。

 天狗騨はさっきよりも少し厳しく同じことばを繰り返した。

「皆さぁん。皆さんの大好きな第二次世界大戦の歴史観です。善玉になっている国の名前を言ってみて下さい」と。



 重い沈黙がASH新聞役員用会議室内に充満する。


「何も言えないのであれば、結局日本という弱い者にだけ攻撃を加えていた弱い者イジメの集団がASH新聞であると、そういう結論が自動的に出てしまいますよ」さらに天狗騨が回答を迫る。

 しかしまだ誰も何も言わない。

「事は歴史に限りません。散々日本人だけに苛烈な攻撃を加えてきておいて、持論の展開すらできないのですか?」


 天狗騨の挑発を受けてもまだ誰も黙ったまま。

 



 誰も何も答えぬため天狗騨は『善玉国』についての質問をやめた。

「私は先ほど皇嗣殿下の長女の結婚について、まず否定してみせました。その時、密かに『来るだろうな』と思っていた反論が遂にあなた方から来なかったんですよ」


 話しを巻き戻したかのような切り替えに、その意図がまるで読めず未だ誰もが黙ったまま。そんな中天狗騨は一転、答えを迫るでもなく淡々と話しを進めていく。


「ご存じの通り、皇嗣殿下の長女が複雑性PTSDを患っているという宮内庁発表直後から言論界の潮目が変わりました。新聞・テレビなど大手メディアはKM氏との結婚を祝福する声のみを報道し、異論を唱える者は『バッシングをしている』という事になった。その『来るだろうな』と思っていた反論というのはこういうものです——」と言いながら天狗騨は件の手帳を開いた。


「——『〝上にいる人〟を引きずり下ろしたい思い』、『上流へのねたみ』、『現在の日本社会ははい上がるのが難しく、そういう膠着状態がバッシングを助長している』——。さらにはジェンダーに絡めたものも見受けられました。『自分の国で生きることができないプリンセスの亡命宣言』、『日本社会は若い女性が安心して生きていけない世界のジェンダー平等からかけ離れた社会だ』とかいったものです」


「私はこうした反論が来るかと思っていたのですが遂に皆さんからは来なかった。なぜでしょう? 特に上流へのねたみ云々はこのASH新聞紙上に載った言説なのにあなた方は黙り込み、この場における反論としては使わなかった」


 天狗騨は少しおどけたようなポーズをとってみせた。

「——使わなかった理由は簡単です。私の主張に太刀打ちできず、持ち出せば必敗だと解っているからです。改めて申し上げますが、皇嗣殿下の長女の結婚相手KM氏は結婚には執着するが収入には無頓着という人間です。年収1500万円の仕事から年収280万円の仕事に転職しても結婚への決意は微塵も揺るがない。弁護士の資格の有る無しは収入に直結するのは誰の目にも明らかですが弁護士試験の合否に関係無く結婚を先にしてしまう。娘を持つ親からしたらこういう男をどう思うか? とまず私は言ったのです」


「——これに対する反論が『上流に対するねたみ』だったら笑止千万な反論です。便所の落書きレベルでお話にならない。また『若い女性が安心して生きていけない日本社会』というのも間が抜けている。収入に不安があるのに安心して生きていける社会とはいったいどういう社会か? 外国の社会は収入が無くても若い女性が安心して生きていけるのでしょうか? 『プリンセスの亡命宣言』については悪夢のようなジョークです。異国で暮らせるだけの収入が無かったら元プリンセスと名乗ろうと経済難民でしかありません」


 天狗騨はまるで見得を切るかのようにASH新聞役員用会議室内をぐるりと見廻しこう言った。

「もうお解り頂けたでしょう。これと同じ構造が『善玉国はどこだ?』です。『第二次大戦の善玉国はここだ!』などと具体的国名を口にしたら最期、それは必敗の議論になるしかない。それは現在流布されている第二次大戦観がいかにいかがわしいものかを自らの口で吐露する自爆行為でしかない」


「待ち給え天狗騨君!」ここで再び論説主幹が立ち上がった。


「もしかして『善玉国』を示してくれるんですか?」


「バカ言っちゃいかん。君の言うことはあまりに極端すぎる。確かに私を含めASH新聞は日本の過去を、特に戦争を糾弾してきた。しかしどうしてそれが『善玉国』なる珍妙な価値観を肯定した事になるのか?」


「『日本という国家を悪玉と定義した場合、必然的に善玉の国ができてしまう』と言ったじゃないですか。悪と善はふたつで一対です」


「『悪がいるから善もいる筈だ』などというのは歪んだ形而上学でしかない」


「私が抽象的な事ばかりを口にしていると言いたいわけですか。では具体的に行きましょう」


「具体的だぁ?」


「東京裁判では日本人しか処刑されていません」


「……」


「アメリカ人やロシア人はただの一人も処刑されていません」


「……」


「『善玉』を処刑するというのも理屈に合わないですからね。どうですか? 東京裁判が『善玉国』の存在の根拠というわけです」


「……」


「しっかし私に答えを言わせるために誘導したとしたらあなたもたいしたものです。実は『善玉国』の名は、アメリカ合衆国、ロシア連邦、それともうひとつ、中華人民共和国なんですね」


 ここで天狗騨が髭もじゃの口をニカッと開いた。


「いやあ、アメリカ人やロシア人、中国人が聞いたら涙を流して喜ぶかもしれませんね。だが断っておきますが私は正気です。善玉と言えない国を善玉とする事で成り立つ歴史観など否定するのは実に簡単。だからそれを解っているあなた方は『善玉国』の名前を口にできずダンマリを決め込んでいた。図星でしょう?」


 それはまさしく図星だった。重箱の隅をつつくだけでも成り立ってしまう否定意見に比べ、肯定意見を吐くということは、よほど幹の太い真っ当な意見でない限りなかなかできることではない。


「しかしあなた方がダンマリを決め込んでいても当人達であるアメリカ人、ロシア人、中国人が自ら『善玉だ』と名乗りを上げているのでまったく無駄な事ではありましたが」とやれやれポーズの天狗騨。


「——さて、ここで私が再三にわたり皆さんに訴えてきた『温和しい日本人』だの『温和しくない日本人』だのに繋がっていくわけです。『温和しい日本人』は基本イジメられっ子ですから、アメリカ人、ロシア人、中国人を前にしては理不尽な仕打ちにただじっと耐えるだけです。が、温和しくなければ従前の歴史観、『日本悪玉史観』の粉砕は実に簡単な事なのです」

 ここでぐっと握り拳をつくる天狗騨。


「——すると残る問題はただ一つ。『日本悪玉史観』の粉砕に大義があるか否か。大義という語彙を敬遠したい向きには『日本悪玉史観』の粉砕が世のため人のためになるか否か。その一点に集約される」


「天狗騨君……、この話しの流れ的に君は『ある』と言うほかないような気がしているが」論説主幹がようやくといった感じで口を開いた。


「ええ、その通りです」


「君の言う『日本悪玉史観』とは『東京裁判史観』だぞ。それを粉砕するのが世のため人ためと言うのか⁉」


 論説主幹としては大胆な物言いだった。これはASH新聞社を仕切る者としても大胆な物言いである。『東京裁判史観』を『日本悪玉史観』と断定する考え方は右翼・右派の思考そのものだからである。だが天狗騨を追い詰めるためならこの際手段は選んでいられないと切り札を切った。いや、切ったつもりになっていた。


「だからあらかじめ言ってあったでしょう? 『今や国際社会にも国内社会にも悪影響を与える有害な史観です』と」天狗騨は覚えていてくれなかったのかと残念そうな顔をしながら言った。

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