第百六十六話【悪玉国と善玉国】

「『日本に対する歴史攻撃』とはずいぶん過激な言い様じゃないか」論説主幹の声に極度の緊張感が籠もる。それに対し天狗騨記者はごく平坦にこう返した。


「これでもオブラートにくるんだ表現ですよ。もっと直裁的に言うなら『日本悪玉史観』です。この歴史観はもはや耐用年数を過ぎました。今や国際社会にも国内社会にも悪影響を与える有害な史観です。こんなものを今後も後生大事に護ろうなどと、そんなものは時代錯誤でしかありません」


 ウオオオオオオオオオオーン!


 しばらくの間天狗騨記者VS論説主幹で続いていた一騎打ちの構図が一挙に崩れた。ASH新聞役員用会議室内に飛び交う怒号と罵声。新聞社の幹部連中の集まりと言うよりは殺気だった欧州のサッカー場のような状態に一瞬にして陥った。そんな中一人の男が猛然と立ち上がり吠えるような演説を始めた。先ほども天狗騨に食って掛かっていた論説委員の男である。


「1993年の細川首相以来、歴代首相はアジアの近隣諸国に対し〝深い反省〟や〝哀悼の意〟を表明してきた。だが近年の首相は加害責任に言及するのを止めている。これに堂々異議を唱えるのが我がASH新聞社だ! それをお前は頭から否定しようというのか⁉」


「いま〝加害責任〟と言いましたか?」


「聞いていたなら訊き返すな!」


「でしたら〝深い反省〟とは言わずに〝深い謝罪〟とすべきでしょうね。外国向けなんでしょうから」


 この男にとって天狗騨が最後にくっつけた〝外国向け〟ということばは非常に許し難いものだった。かなりカチンと来ていた。しかしこれはこのASH新聞役員用会議室内にいる面々のほとんどにとっても同じ事。


「ではもう〝深い反省〟など必要無いと言うのかっ⁉」

 次々と異なる者が立ち上がり天狗騨に突撃を仕掛けていく。だがその天狗騨は僅かに眉間に皺を寄せた。

「さて、私にはなぜ皆さんがそれほどいきり立っているのか理解できませんが。私は『〝深い謝罪〟とすべきでしょうね』と言ったじゃないですか。その反応、私に対するヘイトとしか感じませんが」


「〝ヘイト〟などということばを使って被害者ぶるな! 謝罪などと言ってもそれは口先だけの〝遺憾の意〟だ!」またも先ほどの論説委員の男が前線に名乗りを上げた。


 今やネット界隈では外交上なんの効果も生まない政治アクションの事を『遺憾砲』と言って揶揄するスラングが飛び交っている。非難対象をことさら刺激しないよう敢えてなんの効果も生まないようにことばを選び、非難をやっているように見せかけているだけ、という意味が籠もっている。この男の場合はどういうわけか〝謝罪〟という語彙に〝遺憾〟という意味を感じ取っているようだった。

 だが天狗騨はペースを崩さない。

「そうした悪意ある解釈を排除するため敢えて〝深い〟と頭にくっつけているのですが」


「口先で謝っても反省を伴わなければそれは真の謝罪ではない!」


「今ので解りました。やっぱりあなた方は『日本悪玉史観』の信奉者じゃないですか」

 再び怒号と罵声が大交錯するASH新聞役員用会議室内。

「黙れ! 今俺が話している!」と味方に切れる論説委員の男。こうしてできた間隙を縫いすかさず天狗騨が訊いた。

「あなたは〝反省〟を『〝謝罪〟をグレードアップさせたもの』としか思っていないってことですか?」


「グレードアップだぁ? ふざけた言い方しやがって! 解らないお前みたいな奴には何度でも言ってやる! 反省することが真の謝罪だ!」


「〝反省〟と〝謝罪〟は本来別物ですが」


「〝反省〟という尊い行為を冒涜する気か⁉」


「冒涜云々はあなた達では? 反省とは失敗を分析する行為です。なぜそんなことをするのかと言えば二度と同じ轍を踏まないよう次の事態に備えるためです。次の事態に備える行為がどうして〝謝罪〟と同じ意味になるのか、私には理解しかねますが」


「それを言うならこっちこそお前を理解しかねているぞ天狗騨ぁっ!」


「ならばこう言いましょう。『日本人が過去の戦争の反省をする』というその意味は、『戦争における失敗を次の戦争に生かす』という意味にしかなっていません。外国や外国人相手に『日本は次の戦争は上手くやる』などと言って、いったいどこの外国や外国人が喜ぶんですか? そうした反省は日本人同士の間ですることだ」


「屁理屈を抜かすなっ! そういうのを反省していないと言うんだっ! 日本がすべき過去の戦争の反省は『戦争をしない』だ! お前みたいな考えが平和を脅かすのだっ!」


「それはずいぶんと杜撰な反省ですね」


「杜撰だとっ⁉」


「どこまで自己中心的なのか、と言っているんです。世界の中心は日本じゃないんですよ」


「当たり前だそんなのはっ!」


「では解りますね? 戦争は自国だけではできません。外国がいないと。外国の方から戦争を仕掛けてきた場合の解も『戦争をしない』なら、それは無抵抗路線で行くという意味です。必然自国が地球上から消え外国の領土が広がるオチになるしかない。こうした結果のことを〝平和〟とあなた方は言うのですか?」


 ウオオオオオオオオオ〜ン! とまたもサイレンのような人声の大鳴動。


 しかし天狗騨、騒ぎが収まるまでひたすら立ちん坊。トーンが落ち着いてきたところでようやくひと言。

「抽象的な話しとなると皆さん元気ですね」


「ナメた口をきいてると後でほぞを噛む事になるぞ!」まったく別の男が凄む。だんだんと発言者もガラが悪くなってくる。


「あなた方は先ほどから〝謝罪〟ということばを違和感なく用いています」天狗騨は言った。


「当たり前だ! 日本が謝罪しなくていいなどと言うのは右翼だっ!」また別の者が叫んだ。


「謝罪とは悪いことをした者がする行為です。日本に謝罪を求めるという事は日本は悪い事をしたと、そう言ってるって事です。つまり『日本悪玉史観』じゃないですか」


「‼ ‼ ‼ ‼ ‼っ」


 誰も彼もが〝嵌められたっ!〟と察するしかなかった。

 最初に天狗騨記者に対し口火を切った者は突撃隊長のように見えてそれでも意外と慎重でことばを選んでいた。


『1993年の細川首相以来、歴代首相はアジアの近隣諸国に対し〝深い反省〟や〝哀悼の意〟を表明してきた。だが近年の首相は加害責任に言及するのを止めている』と。


 〝謝罪〟という文言は口にしていないため『日本悪玉史観』という断定をかわせていたのである。それをいつの間にか天狗騨の挑発に乗り丁々発止でやり合っているうちに〝謝罪〟という文言を自然と使ってしまっていた。この文言が出てくれば『日本悪玉史観だ!』との断定は容易にされてしまう。

 かくしていよいよ天狗騨ペースが始まってしまった。

「たとえ『日本悪玉史観』でも日本人の内々でやっている分には〝反省〟と大差無いのですがね、外国人が介入してくるとこの史観がだんだんと有害化してくる。慰安婦問題たけなわの頃でしたか、『朝鮮人女性を強制連行して無理矢理慰安婦にさせた』というこのASH新聞初期の報道がどうも虚偽報道であるようだとの主張が大っぴらに広まってきた頃、この不利な状況を一発逆転するためにアメリカメディアや国連など外国人に吹聴し慰安婦問題で反論してくる日本人を黙らせようとしたでしょう? これが『日本悪玉史観』の有害性を示す決定打となりました」


「なんらの有害な事も起こっていない!」論説委員の男が押し出してきて勢いよく断定した。


「アメリカメディアやアメリカ人が正義を自称する事を有害だとは思いませんか?」


「……」


 あれほど威勢の良かった論説委員の男が急に黙り込んだ。これまでの天狗騨記者の言動からして『米軍慰安婦問題』が来るのは確実と思われたからである。

 『日本人だけを的にした慰安婦問題。アメリカ人を一切叩かない悪の人種差別メディアASH新聞』とやられた場合必敗は確実だったからである。

 だが天狗騨記者はこの場ではそれを持ち出さなかった。もっと大きな事柄を持ち出してきた。


「日本という国家を悪玉と定義した場合、必然的に善玉の国ができてしまう。こうした国が真に善玉なら問題は無いが、善玉と言えない国を善玉にしてしまっている場合、こうした歴史観は有害以外の何者でもない」



 『日本は戦前悪いことをした!』という歴史観を信奉する勢力は日本国内に未だ健在である。だがこうした連中は肝心な事を忘れていた。悪玉がいた場合、必然的に善玉も存在するという二項対立構造となってしまう事を。

 日本が悪玉だというのは嫌というほど語るが、どの国が善玉なのかについては一切語ってこなかったのである。、と言うほかない。



 そして誰も何も言わなくなった。

 天狗騨記者はASH新聞役員用会議室内に集う面々に極めて真顔で訊いた。


「善玉になっている国の名前を言ってみて下さい」と。

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