第百六十三話【皇嗣殿下の長女のご成婚】

 論説主幹を始めとするASH新聞役員用会議室内にいるお歴々はこの時既に絶望の中にいた。

 『日本人は温和しくなければならない』。

 日本人が温和しいからこそ外国とつるみこれまで好き放題に攻撃できた。だが一線を超えれば客であろうと公然と被害を公のものとする『全日本交通運輸産業労働組合協議会』による組合員アンケート結果の公表は、『既に日本人は温和しくない』という考察が、一人天狗騨記者の妄想で終わらせられない事を意味していた。


 しかし、これすら『決定的な根拠ではない』、と天狗騨は言うのである。その天狗騨の口が開く。

「皇嗣殿下の長女のご成婚。これに対し激しいバッシングが起こりました。これが『既に日本人は温和しくない』の決定的な根拠です!」


(これは天狗騨のミス。悪手ではないか?)論説主幹は直感的にそう思った。


「叩かれたのはKMさんだろう。そんなものが根拠かね?」論説主幹は訊いた。


「確かにKM氏はふたり並んでの結婚発表の席で『誤った情報があたかも事実であるかのように扱われ誹謗中傷が続いた』と発言して叩かれましたが、皇嗣殿下の長女の方も『誤った情報が謂われの無い物語となって広がっていく』と発言していました。以降、明らかに皇嗣殿下の長女も叩かれていましたよ」


 大手ポータルサイトのコメント欄やSNSは確かにそんな感じではあった。それについては論説主幹も思い当たる。

「だがな、結婚絡みの皇室バッシングなど今に始まった事ではない。昔からあることだ」


「しかしこれまでのバッシングの対象は皇太子の配偶者、天皇の配偶者です。皇嗣殿下の長女とはまったく性質が違いますよ」と、キッパリ否定する天狗騨。


「そうは思えんが」


「元々民間人だった人物と、生まれながらに皇族だった人物とを比べて〝同じ〟とは。私にはとても思えませんが」


「いや、まあ、同じではないな……」天狗騨に追従するように同調してしまう論説主幹。


「生まれながらの皇族のご成婚にケチをつけ、結婚相手のみならず皇族本人の方にも矛先を向けるなどことです」


 この天狗騨の言い様に違和感を感じる論説主幹。


「君は『の方が良い』、と思っているんだよな?」と訊く。


「そりゃそうです」


「しかし『戦前ならあり得ない』とは。まるで嘆いている様子じゃないか」


「〝嘆く〟云々を言ってしまうと『戦前ならこんな結婚相手はあり得ない!』まで行ってしまいますね」


「ちょっと待て! 混乱してきた。君は『温和しい日本人』を好意的には捉えてないよな?」


「そうです」


「ということは多少温和しくない方がいいと考えている?」


「その通りです」


「では皇嗣殿下の長女の結婚をバッシングする連中をどう思っているんだ?」


「私はその事例を『既に日本人は温和しくない』を証明するために持ち出したに過ぎませんが」


「しかし〝あるべき社会の姿〟というものはある筈だ。日本人は温和しい方が良いのか? 温和しくない方が良いのか? どっちなんだ? ケースバイケースではご都合主義だ」


「むろん温和しくない方が良いわけです」


「そりゃ君、バッシングする側に立つってことだぞ。そのバッシングのせいで皇嗣殿下の長女は複雑性PTSDになってしまったんだ。それが良いのか?」


「それでも臆さない。つまりそれは信念のなせる業ということです」


「我々(ASH新聞)は与してないからなっ!」


「心底そういう価値観ならいいんですがね、空気を読んでそうしたように見えてしまうのが、さてどんなものかといったところなんですが」


「まさか天狗騨君、本気でバッシング側に立つなどとは言わんよな?」


「バッシング側も玉石混淆ですからね」


「は? まさか自分を〝玉〟だと言うつもりか?」


 天狗騨はそれを聞き髭もじゃの口をにかっと開いた。

「『結婚とは両性の合意によって成立する』、これが基本原則です。母親とその元恋人の間の金銭的やり取りにどういう説明をつけるかなどどうでもいい事。これが〝石〟の方です」


「おっ、おうっ」


「ただし、結婚する当人に問題がある場合はその限りではない。KM氏も皇嗣殿下の長女も『誤った情報』と、そろって発言していましたが、この結婚を否定的に、しかも合理的に語れます」


「『結婚とは両性の合意によって成立する』なら、それを第三者が否定するのはおかしくないか?」論説主幹が突っ込んだ。


「そこは『皇族は公人でもある』、という事でしょう。もっとも、当人達からすれば要らぬお節介という事になるのは想像に難くないですが、二人の合意だけに任せておくとろくな事にならないというのも真っ当な世間智というものです。現に『恋愛脳』なることばもある。恋愛状態とは酩酊状態に近く、一種の前後不覚状態と言えますから」


「バッシング側に世間智があると言うつもりか? それをして『日本人が劣化した』という指摘があるが」


「先ほど言った通り母親の金銭的やり取りがどうとか言っている連中については〝劣化〟と言ってもいいでしょう。ただし、それが批判者の全てではない。『複雑性PTSD』を持ち出されても尚言うべき事というのはあるもんですよ。言うべき事をそれでも言い続けるのは逆に進化と言える」


「我々は週刊誌の記者じゃないんだ! いったい何を言うべきと言う⁉」


「それは私に訊いていますか?」


「訊いている!」


「正直なところ皇嗣殿下の長女の結婚相手KM氏には人間としての誠実性に疑問符が付く。娘を持った親ならまず『』と言うでしょう。十人中十人が言うと断言さえできる」


 むろん天狗騨記者は30代半ば過ぎなのに独身で娘はもちろん子どももいないが、まるで解ったかのように言い切った。


「どういう理屈でそこまで言う? そこまで言い切る人間もなかなかいないわけだが」


 なぜだか天狗騨は肯く。そして語り出した。


「皇嗣殿下の長女とKM氏は大学時代に知り合い、大学時代に結婚を約束し、周囲にその意志を明らかにしました。結婚を前提とする以上就職は必須です。その際KM氏は『MU銀行』の内定通知を手にしていました。これならば親御さんも納得するというものです。なにせ『MU銀行』はメガバンクですからね、そのまま勤めていれば年収1,500万円は堅い。これなら大学卒業後すぐにでも結婚式コースです」


 と、ここで天狗騨は一拍の間をとる。


「——ところがです。KM氏は入行ほどなくして『MU銀行』を辞めてしまいます。入ったものの銀行の仕事にやりがいを感じず辞めてしまうというのはさほど珍しい事象では無いようですが、問題は転職先です。有り体に言って転職後の収入です。それはどれほど高くても年収280万程度、これが法律事務所の補助事務員の得られる収入です。しかし収入の当てがこれほどになってもKM氏の『結婚する!』という決意だけは変わらず、結婚ができると考えているらしい。さて、親御さん視点で考えてみて下さい。こうした人物に娘を託す気が起きるでしょうか?」


(こ、こういう手で来るか)身体が硬直してくる論説主幹。彼には娘がいたのである。


「誰であろうと自分の娘なら間違いなく『』という方向に持って行くに決まってます!」


「——しかもKM氏の不誠実さはこれだけに止まりません。弁護士の資格が取れるか否か。合否の結果を待たずに入籍し結婚してしまった。これで合格していたのなら『試験結果など見るまでもない』という、良い意味での傲岸不遜さがあったことになりますが、不合格ではお話しにならない。親御さん視点で考えてみて下さい。『将来への展望など無いが結婚だけはさせてくれ』と曰う男に娘を託す気が起きるでしょうか? 普通なら『この度晴れて弁護士資格を獲得しました。どうか娘さんを僕に下さい』という順番になるものでしょう? 少なくとも娘の父親ならそう男に説教したくなる筈です!」


「——こうした結婚を祝福できる人間というのは〝しょせん赤の他人の結婚〟と考えているか、〝皇族など落ちぶれてしまえ〟といったどす黒い闇を抱えているかのどちらかです。『日本人ならこの結婚に祝意を示さねばならない!』などと曰う自称保守派も常識を持ち合わせているかどうか、実に怪しい」


「——昔の日本人ならば、こうした皇室原理主義者とも言うべき者達の圧力を前にしては沈黙するほかなかった。だがそれをものともしない日本人も今は居る! 皇族やその熱狂的な支持者相手にも臆しない日本人はもう〝温和しい〟などとはとても言えない! さて、皆さんの意見はいかがです⁉」そう天狗騨は挑戦状を叩きつけた。


 こんな事を問われどう返事をするのがベスト、いやベターな回答なのか、論説主幹も他の誰も彼も、返事に窮していた。

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