第百六十話【『人質司法』再び。カネのある者を優遇する〝改革〟再び】

「富裕層の側に立った覚えが無い? では思い出して頂きましょう」そう挑発的な物言いをし、にかりと髭もじゃの口を開く天狗騨記者。さっそく件の手帳を繰り始めた。


 この手帳が開かれる時に何が起こるか、皆が皆解っている。論説主幹はとてつもなく嫌な予感が既にこの時点でしていた。


「2021年の社説です。

——『改めて言うまでもなく、事件の容疑者や被告になっても、身体は自由であるのが原則だ。逃亡や証拠隠滅のおそれがある場合に限り、裁判所の判断で勾留することができる。

 ところが実際は、黙秘したり否認を続けたりすると拘束が長期に及ぶ傾向があり、人質司法と呼ばれて国内外の批判を受けてきた。近年、裁判所の意識改革が進み、勾留状が出た被告のうち、その後保釈が許された割合は、19年で32%と10年前に比べて倍増した。とはいえ問題が解消されたわけではない』——などと書いています」、と言って天狗騨は手帳を閉じた。


「さて、あなただけではなくこの場にいる全員の方々に問いましょう」天狗騨は現在の論争相手の論説主幹にとどまらずこのASH新聞役員用会議室内にいる全員に挑戦状を叩きつけるように部屋全体を見渡した。そして訊いた。


「保釈に必要なモノってなんでしたっけ?」と。


 この部屋全体に音を殺した歯ぎしりの音がしたかのようになった。論説主幹を含め誰も彼もがただ重々しく押し黙ったまま。


「もちろん」天狗騨が自分で出した問いに自分で答えてしまった。さらに続ける。


「——カネを持っている者はカネの力で自由になれる。この社説に拠ると2009年と2019年を比べた場合、保釈される者が倍増したとの事。2008年のリーマンショックを経ても尚、富裕している者ほど有利な社会の構築が続けられていたという動かぬ証拠がこの数字です」


「——ところが我がASH新聞社説はこれを非難するどころか、保釈される者が倍増しても尚『とはいえ問題が解消されたわけではない』などと指摘し、さらに保釈者数が増えるようこの路線を押し進めようとしている! カネの支払い能力のある富裕層の味方をしている!」


「待ち給え天狗騨君! それは『GPS付き保釈』に関しての社説で、元々『法制審議会』が答申したものだ」論説主幹が劣勢の中それでも立ち上がった。


「それは『保釈には保釈金が必要になる』という絶対真理とはまるで関係無い主張ですね」


「それはだな——」


「『GPSを保釈者につければどんどん保釈して良い』などという方針は、アメリカメディアやフランスメディアといった欧米メディアが牙を剥けば一瞬にして朝令暮改になるのは目に見えています」天狗騨は言い切った。


「そこは人権に配慮しつつだな——」


「いいえ。容疑の段階でGPSを身体に取り付けさせる行為が人権に配慮していないと見なされます。身体から取り外されちゃったら意味が無いので外せないように首枷にでもするしかないからです。そんな外せない物を容疑者の身体に取り付けて、欧米人達がそれを温和しく黙って見ているとでも? それともその段になったらこのASH新聞や法制審議会が欧米メディアと戦うとでも?」


「待て待て、どうして欧米メディアが攻撃してくる前提になっている?」


「〝攻撃は無い〟と思いたいですか?」と言って件の手帳を繰り始める天狗騨。その指が止まった。「——アメリカには『メーガン法』という法律があります。これは1994年にアメリカ・ニュージャージー州で起きた7歳少女の暴行・殺害事件をきっかけとして制定された法律です。この事件の犯人はこの犯行を行ったとき初犯ではなかった。『近所に危険人物が住んでいるという情報を予め報せてくれていたらこんな事件は起こらなかった』という遺族の訴えが制定のきっかけです。中身は『常習的な性犯罪者から子どもを守るために再犯の可能性が高い性犯罪者のや犯罪歴などの情報を地域住民に、地域ぐるみの監視により性犯罪の抑止を目指す』、というものです。一方保釈中の人間はあくまで〝容疑者〟で、確定した犯罪者ではありません。そうした保釈金の支払い能力がある人間と性犯罪者とを同じ扱いにしてアメリカメディアやフランスメディアが黙っているとでも?」


 『どうせその時はお前達は屈服するのだろう』とかなり小馬鹿にした事を天狗騨記者は口にしたのである。しかしASH新聞の幹部のお歴々はすっかり意気消沈。しかしこのままでは天狗騨に敗北する——


「別に広く公開するわけじゃない」とぼやき気味に論説主幹が小さく反論した。


「しかし当局の常時監視下に置くという意味では寸分の違いもありません。あなた方は欧米メディアと戦う覚悟があってこうした社説を書いているのですか?」


「……」


「その上姑息な真似までしている」さらに天狗騨が追撃をかけ始めた。


「こっ、姑息とは何だね? ここをどこだと思っている? 言って良いことと悪いことがあるんだぞっ!」と安い道徳論でしか反駁できなくなってくる論説主幹。


 しかし天狗騨、『上司には気を遣わなくてはならない』などという価値観がそもそも中に無い。ジャーナリストは己の良心に従い誰に対しても言論の自由をもって抗しなければならないと、逆に妙な使命感すら持っている。


「姑息でないと言うなら答えて頂きましょう! 『黙秘したり否認を続けたりすると拘束が長期に及ぶ傾向があり、国内外の批判を受けてきた』ってのは何ですか? 『人質司法』とは容疑者の取り調べ段階で弁護士の同伴が認められない事を指して言っていた筈。人権が保証されてないから『まるで人質のようだ』という意味で使われていた語彙です。だが私が『ミランダ警告』の欺瞞をアメリカ人支局長に公然と言った途端(第四十三話参照)に、弁護士同伴の問題がどこかへと消えてしまい、『人質司法とは長期拘留の問題なのだ』とことばの中身を換骨奪胎とは。これを姑息と言わずして何と言うんです?」


 『換骨奪胎』という漢字四字熟語の意味は古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら独自の作品を作り上げること、あるいはまた他人の作品の焼き直しの意にも用いる。

 むろん天狗騨はこれほど甘い解釈をしてはいない。つまり『骨を取り換える』とは『中身を取り換える』という事であり、しかも『人質司法』ということばを使った日本非難という形式だけは踏襲し残そうとしている、と指弾しているのである。


 『〝人質司法〟を語りながら弁護士同伴の問題は何処へ消えたのだ?』と斬り込まれた論説主幹は黙り込むしかない。天狗騨のターンがひたすら続いていく。


「——前にも似たような事があった。このASH新聞は進歩派を名乗る割には昔から何の進歩も見られない! 慰安婦問題では最初『日本軍の官憲による朝鮮人女性の強制連行』と言って報道をスタートさせながら、どうもそれが怪しいとなってくると話しを換骨奪胎し『女衒業者が騙して朝鮮人女性を連れて来たのも強制連行と言える』と、いわゆる〝広義の強制連行説〟を唱え始めた。ところが廃業の自由や慰安婦が意外に高収入を得ていた事が解り始めると、ここでまたも再び話しを換骨奪胎し『女性が売春業などという賤業をやりたがる筈が無い』と女性の人権問題に絡めていわゆる〝広義の強制性説〟を唱え出す。『慰安婦問題』というワードだけは残っているが次から次へと中身がすり替えられていったのです。そしてこれは日本国内向けの誤魔化しに過ぎず、海外ではASH新聞の第一報である『日本の官憲による朝鮮人女性の強制連行』が未だに信じ込まれている! 他人に過去を反省しろと言いながらこの新聞は過去の反省はしないんですかっっ⁉」


 正に怒濤の天狗騨トーク!


(くそおっ、天狗騨め、しつこい! 事あるごとに『慰安婦問題』を持ち出してきおって!)

 論説主幹は一般の日本人が韓国人に感じているのと同じ感情を天狗騨記者に対し抱いていた。しかし何も言い返せない。よって尚も続く天狗騨ターン。


「——さらに指摘しておかなければならないのは『事件の容疑者や被告になっても、身体は自由であるのが原則だ』などと社説で書いたのは大問題だ。そんな原則は存在しない! 例えば強盗殺人事件の容疑者を保釈などして外に出せば新たな殺人事件を起こす可能性がある。保釈などすれば新たな被害者を生む可能性が出てくる。つまり原則が間違っている! 故に保釈を許さないのは『逃亡や証拠隠滅のおそれがある場合に限る』というのも間違いで、再度同類の事件を起こす場合について言及していないのはおかしい!」


 この場は天狗騨記者の暴挙(論説委員室への殴り込み、及び同委員達への脅迫)を咎め処罰するために設けられた場である。だがこの状態ではもはやその目的が達せられないのは目に見えている。

 天狗騨が話の途中でさりげなくスイッチをお歴々達の目の前で入れてしまったICレコーダー、それがどうしようもなくネックになっていた。


 だがここにひとつの有名な格言がある。

 『俺は負けてねー、負けてねーぞ』という、〝負けたと思わなければ負けてない〟理論である。

 そのためには白旗を揚げること無く戦いをひたすら続けなくてはならない。そうして好機が来るのを待つのである。


 論説主幹は、いや全ASH新聞としてはここで天狗騨記者との戦いをやめるわけにはいかなくなっていた。


「天狗騨君、君は『日本人は温和しくなくなった』などと言うが、犯罪やテロを持ち出さないと語れないのかね? 社会全体が変わったと言うつもりなら犯罪者以外の大多数の一般の日本人について何らかの指摘ができなければ説得力としては今ひとつだな」論説主幹はそう言ってこの戦いを続行させる意志を明らかにした。

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