第百五十七話【この日本で既に富裕層を狙ったテロが起きていた?】

「『私立小学校スクールバス襲撃事件』です」冷然と天狗騨記者は言った。


「それ……それが〝〟だと言うのか?……」論説主幹がおうむ返しに訊いた。


「そうですよ」


 天狗騨がそれを言った直後またも蜂の巣をつついたような騒ぎが起こった。

「被害者を傷つけるな!」「被害者に対する冒涜だ!」「今すぐ辞表を出せ!」等々。


「静粛に! 静粛に!」論説主幹がこの男にしては珍しく荒げ気味にことばを発した。

 そのことばにようやく場が収まり始める。


 鎮まった頃を見計らい、ごほんっと論説主幹はまずは咳払いをして、

「き、君は本当にそれが〝〟だと言いたいのだな?」と念を入れるように訊いた。


「その通りです」天狗騨の返事にはよどみが無い。


「撤回するなら今のうちだが」


「どうしてその必要が?」


「まるで犯罪者の肩を持っているように聞こえるからだ」


「違うでしょう。薄々感づいてはいるが恐ろしくて恐ろしくて正視できない。そんなところじゃないですか。ここは自分の内心に正直になるべきです」


「その言い方は私が嘘をついているという意味になるが」


「では過去を思い出してみて下さい。あなたが先ほど口にした『オウム事件』。この事件が起こった90年代は『犯罪が起こるのは社会に原因があるからだ』という思想的立ち位置だったのがこのASH新聞です」


「そんなものは90年代の価値観だ! 今そんなこと紙面に書いてないだろう!」論説主幹の声が甲高くなる。


「社会が本当に悪くなってしまった今、だんだん怖くなってきてそうした〝煽り〟ができなくなってしまったというのがやめてしまった理由でしょうね。ある意味あなた方も時代の空気に敏感だ」


「そういう〝煽り〟に私は乗らん。、だった、とも考えられる……」


「〝たまたま私立小だった〟。そういうことにしておきたい、ということですか」


「それを言うなら君も富裕層が狙われたと、〝そういうことにしておきたい〟んじゃないのか?」


「しかし、もしも犯人がよりたくさんの児童の殺害を目的としていたなら普通の公立小の集団登校の列を狙うのが合理的です。一方スクールバスは子どもの数だけ大人が付き添っていますからね。むしろ狙いにくい標的を敢えて狙っている」


 なんと天狗騨は犯罪者目線で事件を分析してみせた。


「——以上の事から『たまたまだった』という説は成り立たないと考えます」


 旗色が悪いと感じた論説主幹は切り替えてきた。

「君は事件の犠牲者が本当に〝富裕層〟だと思っているのか?」


「富裕しているかどうかというのは相対的なものですよ。あの犯人視点では富裕層になります」


「君は『富裕』のレベルが常識からかけ離れている。その程度で富裕層になってしまうのなら君も含め我々も富裕層という事になるではないか」


 ASH新聞社員の平均年収は一千万円を超えるといわれる。(ただし昨今それも怪しくなりつつある。だが幹部社員なら余裕でクリアのラインである)


 しかし、そう自身の事を含めて言われても天狗騨記者にはまるで動じる様子が見えない。

「あなた方は客観的にはまったく富裕層ではないが一方で年収一千万円を優に超えているのは事実です。今や低所得社会と化してしまったこの日本ではあなた方は相対的に富裕層となります」と、こうまで言ってのけた。


 これでまた蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「我々がテロリストに狙われると言うのか⁉」「住宅ローンの残っている富裕層などいてたまるか!」「たかだか一年一千万円程度で金持ちなわけないだろう!」等々。


「静粛に! 静粛に! 静粛に!」論説主幹が同じことばを三度繰り返した。


「皆さんは冷静になるべきです」天狗騨が抑揚の無い声でしれっと言った。


「それだけ君が聞く者を不快にする意見を口にしているということだ」論説主幹が天狗騨を見てたしなめた。


 しかし天狗騨記者は頭のネジが飛んでいるような人間である。

「なるほど。この場にいる皆さんの中に、ご子息ご息女を『私立小学校』に通わせている方がいる、という事ですね」とまで言ってのけた。


 場は弾け一気に騒然となる。なぜならそれは図星であったから。

 事件に巻き込まれた私立小学校は大学まで繋がっているわけではない。そうした私立小学校がテロの対象になったのなら、いわんや大学まで繋がる私立小学校をや、という訳である。ましてここは〝東京〟なのである。そうした私立小学校に子どもを通わせている当事者としてはこんな言説が認められるわけがない。関係者は口々に激しく罵声を飛ばし続けていた。


 ただ、このASH新聞役員用会議室にいる全ての人間が〝当事者〟というわけではない。天狗騨は一人一人の表情をなにげに観察しながらこう言った。

「しかし一般論としては当然公立の学校よりも私立の学校の方が学費が高いですよね? カネが無ければご子息ご息女を『私立小学校』に通わせる事は不可能だ」


「なら大学はどうなる⁉ 私立大学はっ⁉」論説主幹と天狗騨記者の対決に突如横槍が入った。一人の男がもう立ち上がっていた。その横槍を入れた男の顔は真っ赤になっており顔にはありありと憎悪の表情が浮かんでいる。


(当事者か)天狗騨は思った。ここで再び一人一人の表情をなにげに観察していく。

 『天狗騨許すまじ!』で結束していたこの場に微妙な分断が入りつつあるのが見て取れた。


「私はなにも『私立小学校』の存在の是非を語ろうとはしていません。その費用を払うだけの余裕のある家庭がある。そうしたごく当たり前の事柄を〝議論の前提〟として確認しておきたいだけですよ」天狗騨は言った。


「私立小学校より私立大学の方がカネがかかるんだっ!」その男はなおも天狗騨を怒鳴りつけた。


(その小学校は大学までは繋がっていないのか?)と天狗騨は思ったがそれを口にすれば議論が明後日の方向へと飛んでいく事だけは解りきっていた。


「ではしょうがないので思考実験です。『私立大学』『私立高校』『私立中学校』『私立小学校』『私立幼稚園』——。今私は五種類の〝私立の教育機関〟を並べましたが、受ける印象は微妙に違いませんか?」


「天狗騨君、人を試すような話しの進め方はどうかと思うが」論説主幹が立ち上がった男に席に着くようジェスチャーで促しながら再び論敵役を買って出ていた。


「では手短に、」とまず天狗騨は口にして先を続ける。「——『私立大学』『私立高校』『私立幼稚園』からは〝裕福な家の子が通っている〟という印象をあまり受けないのではないですか。私立と聞いてもこれだけでは割とありがちな話しと受け取られる。苦労して行かせているんだ、と思われる。実際学校名や学部名まで聞かないと裕福かどうか判断のしようがありません。ところがです、『私立中学校に行っている』『私立小学校に行っている』と聞くとこれだけで〝裕福な家の子が通っている〟という印象を受ける」


「君はまさかそんな〝印象〟を肯定するのか? 印象操作だとは思わないのか?」眉間に皺を寄せながら論説主幹は問うた。


「ですが世の中には『第一印象』ということばがある。恋愛・就職試験、第一印象が事の成否を左右します。つまり人生の成否を左右する。人が人を印象で判断してもそれが真っ当なこととして世の中に定着している事実から目を背けるつもりですか?」


 『操作』と言ったらたちまちのうちに『第一』と戻って来る。天狗騨記者の言論センスは天下一品であった。論説主幹は沈黙を余儀なくされる。


「——私は最初、〝富裕しているかどうかというのは相対的なもの〟と言いました。例えば『千億単位の資産を有する人間と比べれば年収三億円も三百万円も同じ』、などという〝平等論〟はまやかしです。つまり、犯人の経済状況が悪ければ年収一千万でも富裕層に見える」


 もう誰も天狗騨に突っかかろうと立ち上がれない。


「——そこでこの事件の犯人ですが〝引きこもり〟の中年・50代男性だったという事です。ここから事件当時、ネット上では引きこもりを犯罪者予備軍だとして危険視する激しいバッシングが起こりました。しかし私が気になったのは犯行の動機です」


「待ち給え天狗騨君」とここで論説主幹がストップをかけた。


「なんでしょうか?」


「『動機不明のままで事件は終結した』んじゃなかったのか?」


「それは警察発表でしょう。警察がこう発表したから後は思考停止でいいというのはいかがなものかと」


「だとしたら〝怨恨〟の線だな。犯人のいとこが同私立小へ通っていたという報道があった」


「その線を持ってくるなら、いちがいに〝怨恨〟とは決めつけられませんね。それは犯人は元々〝格差〟に敏感だった、との裏付けにもなっています。犯人が通っていたのは公立小なのに同居するいとこはその私立小に通っていたわけですから」


「……」


「——しかしです。だとしたらあまりに事件の起こるタイミングが遅すぎませんかね。犯人が50代になってから起こした理由になっていません。端的に言って私は〝経済問題〟だと考えています」


「経済問題?」


「『引きこもり続けるためにはカネが要る、しかしもうカネは無い』、これに尽きます」


「それは君の独自解釈だろう」


「犯行の実行が犯人が50代になってから。これに合理的説明をつけようとするとこうなるんです。彼の引きこもり生活を支えていた保護者が老齢化しこのままの生活が維持できなくなると彼が悟り絶望したその時、憎しみは私立小学校に通う子ども達とそこへ通わせている親へと向いたんです。即ち裕福な者達への怨嗟です」


 天狗騨が一拍の間を置く。


「——特筆すべきは犯人は犯行後その場で頸動脈を斬り自殺を遂げたという事です」


「だから?」


「何かに似ていませんか? これはテロ実行犯の典型的行動パターンと同じです」


「……自爆テロ?」論説主幹は反問するようにつぶやいた。


「そうです。使った手段がだから気づかないなどというのは間が抜けています」


「いや、しかし……」


「直視しましょう。危機が目の前に見えているのに『これまでは大丈夫だった』と現実逃避するのは日本人の悪い癖だ。この事件が起こった直後ネット上には犯人が犯行後に自殺したことをもって、『死にたけりゃ一人で死ね』という主張が山のように見受けられましたが、まったくこの悪い癖が出たとしか言いようがない。犯人は別に自殺したかったわけじゃありません。やりたかったのはテロです。富める者を心底憎んでいた。そしてテロをやり遂げ自らの命を絶った。『自殺』よりは『自害』と言った方が表現が正確かもしれない」


「はっ、犯罪を『テロ』と言い換えようとやはり犯罪には違いない。刑法に抵触しているんだから犯罪者であることは間違いないんだぞ」論説主幹は必死に言い返した。自分でも(かなり真っ当な事を言った)と密かに自画自賛してもいた。しかし相手は天狗騨、


「まだ解りませんか? 『特定層を狙う』というその意味が。これは『無差別テロ』のように単純な問題で片付けられない問題なんですよ」と不可思議な事を言い出した。


(無差別テロが単純な問題?)

 言われた論説主幹はなにがなにやらさっぱりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る