第百五十六話【不吉な時代の始まり】

「あなたの見立ては甘い。『数が少ないから大丈夫』などと言ってみてもそれは現実直視を避けた自己暗示に過ぎません! 社会の木鐸ぼくたくたる我々ジャーナリズムが注視すべきは数ではなく質の変化だった筈でしょう?」天狗騨記者が宣戦布告するように論説主幹に言い放った。


 その論説主幹は言った。

「開き直っているようにしか見えないが」


「心当たりがありませんか? 『ヘイトスピーチ解消法』ですよ。昭和の頃も在日韓国朝鮮人に対する差別はあったでしょう。しかしそれは〝陰でコソコソ〟といった感じで、本人達の目に見えぬ所で行われていたんじゃないですかね。それがあろうことか本人達の目に見える所で堂々と行われるようになってしまった。拡声器まで使い出した。昔の日本人は差別感情を持っていてもそれをわざわざアピールするような真似はしない。同じ日本人なのに明らかに変質している! だいたい、数が少ない事をもって無問題化できるなら、なぜこのASH新聞は『ヘイトスピーチ解消法を造れ!』とぶったのでしょうか?」


「ぬ、」論説主幹は押し込まれる。


「あなたは通り魔事件についても『昭和の頃もあった』と言っていましたが、これも変質しています。昔と今とでは同じになりません」


「どう違うのかな——?」


「『通り魔事件』とは目についた通行人を片っ端から刺していくという犯罪で、対象は無差別です。一方で特定の個人を対象とした犯罪がある。恋愛感情のもつれ、金銭トラブルといったところが動機として一般的です。ところが昨今この中間の犯罪が現出している」


「言っている意味が解らんが」


「無差別ではなく特定の個人でもなくを狙ったものです」


「そんなものがあったか? どこの〝層〟だそれは」


「『勝ち組の女性や幸せそうな女性を殺そうと思った』、こういう趣旨の〝犯行の動機〟を語った犯人がいました」


「んん?」


「刺した男と刺された女性の間には何の接点も無く、よってストーカー事件とは言えず性犯罪の要素もゼロです。そして動機が真実この通りだとすると少なくとも全年代の男性はこの犯人の被害者になりようがないと言える。これが『特定層を狙ったもの』の意味です」


「それは走行中の電車内での事件だ。ソイツは火をつけようとしていた! 『誰でもよかった』と言っていたし、男の被害者もいた!」


「しかしながらいの一番に若い女性、それも見ず知らずの若い女性を狙って刺したのは事実です。被害者の中で一番の重傷者もこの女性です。では、より正確に行かないといけませんね——」と言いながら天狗騨記者は内ポケットに右手を突っ込み例の手帳を取り出し、めくり、朗読し始める。

「1『かつてサークル活動で知り合った女性に見下された』

 2『出会い系サイトで出会った女性とデートしても途中で断られた』

 3『勝ち組の女性やカップルを標的にした』

 4『6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺したいと思うようになった』、

こうした供述から犯人には女性に対し憎しみを抱く『ミソジニー』の気質があるのは明らかで、私にはその〝犯行の動機〟には信憑性があると考えますが」


 さらに天狗騨は続ける。


「——このうち【1】と【2】は特定の個人を指し、一方【3】と【4】は特定の個人に的を絞っていない。つまり『見ず知らずでも構わない』ということです。あなたの言う『誰でもよかった』はこの【3】と【4】の供述を読み違えているのではないですか」


「いったい君が何を言わんとしているのか私にはさっぱり理解できないが」


「解りませんか? 『特定層を狙う』の意味が。『対立する宗派を狙う』、『異教徒を狙う』、『アメリカを狙う』。こういう例を引き合いに出せば理解は容易です」


「それはテロではないか!」


「そうです。特定層を対象として狙いだしたらそれは正真正銘のテロです。犯罪のテロ化が始まっている」


「天狗騨君っ! 君は日本をテロ社会だと言いたいのかっ⁉」さしもの論説主幹も声が甲高くなった。


「そう見なすべきです。その土壌は既に整っている」


「そんな土壌などあってたまるか。いったい根拠は何だ?」


「『無敵の人』というネットスラングに聞き覚えはありませんか? 私はこれを『テロリスト』ということばの日本語訳であると考えています。このことばが一過性のものとして死語にならず定着しているところから、この社会の状態は推して知るべしじゃないでしょうか? 人々は薄々感じている。不吉な時代はもう始まっています」


「ふざけるなっ!」「我々を脅迫する気か!」「テロとは戦えっ!」めいめいの口が叫び出し場が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。


「皆さんご静粛に」

 それを言ったのは論説主幹だった。次いで論説主幹は改めて天狗騨の顔を見る。そして言った。

「ジャーナリズムが不安を煽るもんじゃない」


「コロナ騒動の折には『恐怖の殺人ウイルス』だとして国民の不安を煽っていましたね。実際国内では季節性インフルエンザほどの死者しか出ていませんでしたが」


「今はその話しではないだろう。あたかも日本でテロが頻発しているような事を言うのはどうかと言っている」


「今のところ〝頻発〟はしていません」


「なら発言を撤回し給え」


「頻発云々はあなたの言った事です。私は重大な事案とするに充分なテロは既に起きていると言っています。これについて撤回のつもりはありません」


「この日本では『地下鉄サリン事件』を始めとする一連の『オウム事件』以降テロは起きてはいないんだ!」


 これはもちろんかの『オウム真理教』が起こした数々のテロ事件についての指摘である。


「それは平成の最初の頃でしょう? 私はそこからさらに元号が変わった後について言っているんですが」


「あり得ない」


「富裕層を標的としたテロ事件が既に発生しています」


「そんなもの聞いた事も無いが」

 心なしか論説主幹の声は震えていた。

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