第百五十三話【日本人って温和しい?】

「天狗騨君——」並びの中央に陣取る男が口を開いた。その座り位置からして〝社長〟である。


「なんでしょうか?」ヤマカンで一応うやうやしく応答する天狗騨記者。


「君の言う事は常識的にはあり得ない仮定を前提にしていやしないかね?」


「あり得ない? と言いますと?」


「日本人が80年余りも前の補償請求をするというのはいささか突飛な物言いだ。そんな事が起こる前提で話しをするというのは、説得力の観点からどうか、と言っている」


「韓国人は80年余り前の補償請求をしていますが。では韓国人は突飛なのでしょうか?」


 その天狗騨の言に中央に陣取るの男の顔がみるみる赤くなっていく。むろん〝恥ずかしい〟のではなく〝頭に血が上っている〟のである。天狗騨に(韓国人に対するヘイトスピーチをするよう誘導された)と思い始めた。


「天狗騨君! 聞いていれば君は人のことばの揚げ足取りばかりだ! 日本人は温和しいんだ! 残念ながら君の歪んだ期待は空振りに終わる!」


 天狗騨記者の目が据わった。

(日本人が温和しい?)

 天狗騨はまず率直に『日本人温和しい説』に疑問を持った。と同時に猛烈に腹も立ってきた。

(『温和しい人間には何をやっても許される』という価値観がこの男の中にはある!)


 イジメを何よりも憎む天狗騨記者はこの手の『温和しい人間に対する攻撃』を容認する思考を誰よりも憎んでいる。もはや社長と思しき人間相手でも〝この男〟呼ばわりであった。だが今のところその思いは音声としては発してはいない。

 天狗騨は煮えたぎる己の血を自覚しながら、すっと息を吸い、そして沈思し始める。


(この手の輩の本心は『日本人は温和しくしなければならない』だ。だが、それは言えないでいる——。——逃げてるな)


 中央に陣取る男に本当に逃げの姿勢があるのかどうかは解らない。だがこうした場合、そう思った方が相手に対し優位に立てることだけは間違いない。


「お言葉ですが危機管理とは最悪の事態を想定する事です。『日本人は温和しい』などという前提に立つなど論外。あなたの言う事こそ根拠無き仮定です」天狗騨は言い切った。


「我々の方が根拠が無いだと⁉」思わず〝〟と複数形で言ってしまう中央に陣取る男。


「その通りです。あなたは最悪の事態を想定していない。正確に表現するなら『日本人には温和しい時代もあった』です」


「『日本人は民度が高い』などと政治家が吹聴しているだろう!」


 天狗騨の口元が僅かに歪んだ。

(『民度が高い=温和しい』というのはおかしくないか?)

「あなたは政治家が言ったら『その通りだ』と、なんの疑問も持たずに同調するんですか?」天狗騨が訊いた。


「また揚げ足を取ったな!」


「では仕方ありません。〝日本人の民度〟の話しにつき合いましょう。あなたは平安時代及び室町中期から戦国時代にかけての民度が高かったと思いますか? 私は極悪だったと考えていますが」


「私は今現在の民度の話しをしているんだ! 昔の話しをしているんじゃない!」


「ならば『温和しい日本人』など昔の話しです。だからそんな話しはやめるべきです。日本人が温和しかったのは江戸時代の最初期と最末期を除いた期間と、昭和時代中期から平成一桁時代くらいまでの間の僅かの時間に過ぎません」


「今だって温和しいんだ!」


「温和しくはありませんよ。現実を直視して下さい」


「それはどんな現実だ⁉ 具体的に言ってみろ!」


「『ヘイトスピーチ解消法』です。日本人が温和しかったらそもそもこういう法律は必要無い。昭和時代中期から平成一桁時代くらいまでの間にはそんな法律の必要性など、それこそ考える必要も無かった」


「そ、そんなヘイトスピーチをする者は極一部だ。大多数は温和しいんだ!」


「極一部でも『韓国は日本人遺留財産の補償をしろ!』と行動してしまったらまずいんじゃないですか? 市民運動と化し支援の輪がどんどん広がりますよ」


「韓国を侵略し植民地支配しておいてそんな言い分が通るかっ!」


「だからそれを言って効くのは〝昭和時代中期から平成一桁時代くらいまでの日本人〟です。いつまでも昔の夢を見てどうするんです?」


「じゃあなんでそれ以降の日本人は温和しくなくなったと言えるんだ⁉ 歴史学者でもないお前如きが勝手に時代を区分するな!」

 イライラして遂に〝如き〟発言が出てしまった。もはや大企業(一応は)を取り仕切る幹部の威厳などまるで見当たらない。


「致命的ですね。とても新聞経営に携わっている者の認識とは思えません。むしろなぜあなた方が私と同じ意見を持っていないのかと、そうした感想しか抱けませんが」


「お前の認識など誰も同調しない!」


 天狗騨記者の眉間に皺が寄った。

「『規制緩和』『官から民へ』『金融自由化・貿易自由化』。これらは誰のための〝改革〟だったのでしょう? 例えば労働者派遣法の規制緩和をして派遣労働者の働く事のできる業種を拡大しました。また例えば大規模小売店舗法の規制緩和をして大規模店の出店を容易にしました。明らかに大資本が有利になった。こうした大資本に有利になる様々な〝改革〟が立て続けに実施されたのが平成二桁以降です」


 言い終わると天狗騨は並びの中央に陣取る男を睨みつけた。

「故に時代の区分は明確につくんですよ!」


「なぜ改革すると日本人が変わるんだ⁉ 改革は正しいんだ! 改革を否定するのか⁉」


「あなたの言う事はまるで与党政治家だ。それとも間違った事を支持してきた自覚がその怒気に現れているという事なのでしょうか?」


「他人を挑発してばかりいるとろくな目に遭わないぞ!」並びの中央に陣取る男は凄んだ。


(その手のことばこそが後々ブーメランになりやすいのだ)天狗騨は思った。天狗騨は静かに深呼吸をする。

「私は『誰のための〝改革〟だったのでしょう?』と言っているんです! 大資本が有利になるということは資本を持たぬ個人は著しく不利になったって事です! これらはアメリカ合衆国の外圧にされるまま日本政府が行った〝改革〟ですが、こうした〝改革〟が一般国民にもたらした効果は正規雇用者の減少と非正規雇用者の増大だ! そして非正規雇用者は収入が低い!」


「—— 一方で〝改革〟の結果規制が緩められカジノ経済とも揶揄される金融資本主義は隆盛を極め、元本という名の掛け金の額でバックされる額も決まるという、豊かな者ほど巨利を得られる社会へと〝社会の仕組み〟が変えられてしまった!」


「——企業は企業でそうした連中からの敵対的買収に備えるためとして内部留保をひたすら積み上げ続ける!」


「——仮にカジノ経済の強者が大損しても『ザマァ』とはならない。真に豊かな者は大損はしても破滅はせずそのしわ寄せは非正規雇用者のところへとやって来る! それが『リーマンショック』ってヤツだったでしょうが!」


「—— 一連の〝改革〟をした結果起こった事は中流崩壊、貧富の格差の拡大です! これは改革をやった紛れもない結果だ! あなたは新聞人でありながら『ワーキングプア』ということばをもう忘れたわけですかっ⁉」


 天狗騨の一気呵成のマシンガントーク! もの凄い剣幕でその男に向け指を差した。社長に向かって指を差していると思われるが一切お構いなし、『ろくな目に遭わないぞ』とパワハラされても一切お構いなしであった。これだけ言ってもまだ言い足りなかったかさらに斬り込むように続行していく。

「あなた方は同時多発テロの頃『アフガニスタンの治安回復のためには経済が発展しなければならない。人々の生活が安定しなければテロの温床になる』と言っていたではありませんか! 貧しい人間が増えれば治安が悪化するのは定説中の定説! アフガニスタンも日本も同じですよ!」


「いやいくらなんでもアフガニスタンと日本を比べるのは……」

 並びの中央に陣取る男は明らかに押され始めた。社長と思しき男ではあるが。そこにさらに天狗騨がまくし立てる。


「私が先ほど『日本人の民度が極悪だった時代もあった』と言ったら『そんなものは現代の話しじゃない』とあなたに一蹴されましたがここでアフガニスタンと日本が繋がるんですよ! いいですか! 平安時代も室町中期から戦国時代にかけても貧しい人間が多数派だった。中流無き社会です! 当然人心はすさみ民度は極悪になる。これとは逆に江戸時代の最初期と最末期を除いた期間や昭和時代中期から平成一桁時代までの期間は人々の生活に余裕ができ中流層ができていた時代です。こうした時代では人心が安定し民度が高くなるのは当然の帰結です」


 誰も何も言えない。


「——だが今はどうか? 電車に乗っているだけで火をつけられたり刺されたりっ。この現実を直視せずに『日本人は民度が高い』などと言ってのけられる政治家は政治家失格です! お前達のやってきた政策がこの状態を造っているというのになんたる言い草かっ! そう言うほか無い! 貧困者が増大し社会の多数派になりつつあるこの現代に『一億総中流時代の日本人像』を前提にものを考えられるあなた方こそ時代錯誤の人間達だ!」


 まったく誰も何も言えない。


「——韓国人達がそうした今日こんにちの日本人から補償を獲ろうとした場合、(良い機会だ)と日本人の側からも『韓国人から獲ってやろう』と思う者が現れる。かなりの確度で! そして生活に鬱憤を溜め込んだ多数の日本人がそうした行為の応援を始める! 先ほど私が言ったとおりこれを国家権力、つまり日本政府が法律でどうにか押さえ込もうとしてもそれは個人の財産権の侵害になるので政府はなにもできない! 公然と韓国攻撃ができるようになる! 愚かしい韓国人が暴走すれば何が起こっても不思議は無いのが今の日本だ! 最悪の事態を想定してものを考えるのは当然の事だ!」


 ヒラの記者に一方的に大説教を食らうASH新聞の幹部のお歴々。しかし誰も何も言い返せない。皆々お通夜のようになっている。


 しかしこのままではメンツに関わってくる————

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る