第百五十二話【日本人から韓国人への請求権】

 『んだとっ!』に対する天狗騨記者の反応。

「あなたはまさか韓国人が一方的に請求し続ける事ができるとそう信じ込んでいるのですか?」


 そのことばにさらに論説委員の男が沸騰した。

「韓国は植民地支配を受けた被害者だ!」


 しかしぜんぜん天狗騨には効いてない。

「とは言いますが必ずしも『日本人が韓国人にカネを支払う』にならないのがこの問題の怖さですよ。韓国人達は〝常に我々が受け取る側〟という発想のようですが、日本人が韓国に金銭的要求を始めたら本格的に日韓関係は破綻します」などとしれっとした顔で口にした。


「そんなバカなことがあるか!」


「やれやれ——」と言いながら天狗騨はまず手にしていた動作中のICレコーダーを背広の胸ポケットに差し、次に懐から例の手帳を取り出し開き、まず前口上を述べる。

「私は日韓併合後、日本からどれほどの公金が持ち出され朝鮮半島に使われたかを論ずるつもりはありません。話しが長くなるだけですし、何より今問題なのは国家の請求権ではなくですから」と。


「——1945年8月15日というのがお馴染みの終戦記念日ということで、言わずと知れた日本が降伏した日です。この時点で朝鮮半島にはおよそ60万人の日本人が暮らしていました。これまたお馴染みですがこの日以降、38度線の南側をアメリカ合衆国が統治、北側をソビエト連邦が統治する事になります。アメリカは軍政を敷き、同年12月19日『帰属財産処理法』なる法律を制定します。朝鮮半島の南半分にある日本人の財産を対価無く全てアメリカ軍政庁に帰属させた。公有・私有財産問わずです。むろんソビエト連邦の側も同様に日本人から財産を奪いました。これらの財産は南北それぞれに政権ができるとそれぞれの政権に引き渡される事になります」


「——さて、この日本人の私有財産問題についてはサンフランシスコ講和条約でも一顧だにされず、よって朝鮮半島南部、即ち現在の韓国部分の日本人所有の私有財産すらその対価を日本人が得る事はありませんでした。結局日本人の泣き寝入りでの決着です」言い終わると天狗騨はぱたりと手帳を閉じた。


「——『桂タフト協定』の例で明らかですが、日本の朝鮮半島統治は第二次大戦とはまるで無関係です。にも関わらず『敗戦国民にはどんなことをやっても許される』とこの仕打ち。サンフランシスコ講和条約にはアメリカ合衆国という国家が日本という国家から賠償金を獲らなかったという一面がある一方でこうした野蛮な一面もまたある」


「——とまれ『日韓請求権協定を破棄しろ』と主張する韓国人達も、『1965年の協定は有効という立場を取りつつも個人に対する補償は可能だ』と言った韓国人政治家もこうしたサンフランシスコ講和条約の野蛮面に通じるものがある。しかしいつまでもこうした1950年代の特殊な時代の価値観を通用させることはできません。理由は簡単、普遍性が無いからです。少なくとも後者の韓国人政治家の方はこうした問題点、即ち『日本人の請求権の復活』という問題について気づいていると考えられる」


「——その際『日韓請求権協定を残しておけば、日本人の請求権の復活をこの条約で阻止できる』と考えているのではないか。私がこの案を〝詐欺的〟と言って非難したのはこうしたご都合主義的な臭いを感じたからです。しかしどう考えようとも『日本人の請求権だけが消え韓国人の請求権だけが残り続ける』とは大っぴらには言いにくい。表面上は『〝外国に対する個人の請求権〟が消える事は無い』、とするしかない」


「——もしこうした考えに日本政府が妥協してしまい公認を与えてしまったらどうなりますか?」


 黙り続けたままの論説委員の男。


「——『韓国人の日本人に対する請求権だけは残るが、日本人の韓国人に対する請求権は消える』などという価値観は通らない。いつの時代になろうと耐えうる真に普遍的な価値観、〝法の下の平等〟に反するからです! 権利が人種や民族の違いによって制限されるなどとは、この現代、人権に反する許されざる価値観です! 日本政府が下手な妥協をすれば必ずや『権利は双方にある』となる!」


「——日本人の個人が個人の請求権を行使し始めた場合、日本政府は日韓関係のために動く事はもはやできない。それは個人の財産権を国家権力が不当に妨害するという意味にしかならないからです。こうなってしまったら外交で事態を解決する事も不可能だ。日韓関係完全破綻ここに成る、です。韓国人は〝請求される可能性〟をまったく考えていないという点で非常に甘いんですよ!」


 〝甘い〟と韓国が悪し様に言われてもまだ黙ったままの論説委員の男。気の利いた反論がまったく思い浮かばないからである。


「——日韓関係を本当にこのASH新聞が大事だと考えているなら、韓国人達に行為の暴走をやめるよう説得するのが日韓友好論者の採るべき道というものでしょう。『韓国国内で解決しろ』と。徴用工を巡る問題で日本政府が僅かの配慮や譲歩でもすれば恐るべき事態が発生し国家でも制御できなくなる! 『日韓請求権協定』というのはだ。と、そう説明すべきでしょうが!」


 本来この場は天狗騨記者の査問会だった筈だがすっかり天狗騨の演説会場と化している。それもこれも『なんとしてもこの男を屈服させてやる!』という感情がこの場にいる者達の心の中にあるが故である。

 その天狗騨は遂にこう言うに至った。

「もういわゆる〝歴史認識〟を持ち出した日本攻撃のやめ時じゃないですかね」


「なんだとォ⁉」

 押される一方の論説委員の男もさすがに怒りで震える声が出た。それもその筈。その意味は『日本を〝過去の歴史〟で攻撃するな』以外の何物でもなかったからだ。

 これこそが天狗騨記者が社会部長から注文を受けた『ASH新聞の新たな方向性』だった。

 しかしこれほどASH新聞の価値観に反する〝方向性〟も無い————

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