第百三十四話【古溝官房長長官、アメリカを愚痴る】

 『中国国家主席追悼拒否事件』以来加堂内閣の支持率はガタ落ち。既に危険水域を超えている。加堂首相は行けるところまで政権にしがみつくつもりだが、政権が年内もつかどうかも怪しくなっている。


 だが古溝官房長官は大方のメディアや山柿元外相とは違って、個人的に〝続投〟に賛成していた。


(外国を怒らせた直後に内閣総辞職させるわけにはいかない……)

 古溝はこれが〝悪しき先例〟となることを怖れた。ただ〝官房長官〟として最後までつき合えないこと。その点だけが心苦しかった。



 K大付属病院・特別な病室前、の廊下。古溝官房長官はまだ油を売っていた。


(特に問題なのがアメリカ合衆国だった。やらなくてもいい介入をしてきて困ったものだ)古溝は苦々しく思う。


(アメリカを怒らせて内閣が吹っ飛ぶなどという構図だけはならない。たとえ事実はそうだとしてもカムフラージュは必要だ。日米同盟を護るためにも今しばらく総理には総理大臣でいてもらわねばならない——)


 『二度と繰り返してはならない』ということは、古溝的には〝前にも同じ事があった〟という認識である。

 アメリカを怒らせて内閣が吹っ飛んだ、と解釈できる事例はあった。もちろん全く別の理由でその内閣は倒れたことにはなっているが。


 その内閣とは2006年発足の第一次安倍内閣だった。僅か1年余りの短命政権。表向き年金問題、表向き事務所費問題(貰った政治献金の使い道が不明朗だという問題。ちなみにこれ以前は〝誰が献金したか〟という、入ってくる方のみが問題とされた)が原因で内閣が倒れたことになっている。


 けれども古溝に言わせればこれはあまりに不自然な〝理由付け〟だった。


(年金問題は当該内閣が起こしたわけではなく、それ以前からの問題だ。むしろ当代の内閣には問題を解決する役目がある。その当代の内閣を年金問題があるからと次々潰してしまっては問題解決も先送りだ)


(事務所費問題については閣僚レベルの問題であり、首相本人の個人的スキャンダルでさえなかった)


(内閣が退陣した理由は直接的には参院選での敗北だ。選挙前には与党の中には公然と首相の足を引っ張る者も現れていた。その選挙直前に起こったことこそ鍵だろう)


(答えは単純明快だ。『首相が日米同盟を危うくした』とされる事件が2007年6月に起こった。あの運命の参院選の約一ヶ月前の出来事だ)

 ちなみに参議院は衆議院とは違い〝解散〟が無いので、選挙時期はおおむね7月のどこかと相場が決まっている。


(当時の首相の『慰安婦問題に関する発言』がなぜかアメリカの政治家、アメリカメディアの逆鱗に触れた。その結果が2007年6月の米下院における『慰安婦対日非難決議』の採択だ。直後の選挙に影響を与えるあまりに露骨なタイミングだった……)


(内政でゴタゴタしている内閣が外交で致命的失敗をやらかしたと解された)


(ここ日本では日米関係を悪化させた首相が政治的に無事で済むことは無い……首相の足を引っ張っても構わないという大義名分になってしまった)


(なにせ『外国の目を気にし外国人相手には模範的に振る舞おうとする』、それが日本人の悲しき性向だ。アメリカが怒ればそれに便乗する者が雨後の竹の子の如く現れる。そこには外国と外国人に対する恐れが確実にある。この性向はとっくに見抜かれていてアメリカ人に利用された。今後も外国に利用されるのは確実だろう。加堂内閣も第一次安倍内閣とほぼ同じスパイラルに入ってしまった可能性が高い)


(『アメリカは正義であり、それと戦った日本は悪。悪が自己を正当化するのは許さない』、というのが実にアメリカらしい。それだけ『A級戦犯』というのは鬼門ということか)


(問題はアメリカ人のやることが露骨すぎて〝抑える〟ということをしなくなっていることだ。民主主義は世論だ。世論なんてどう変わるか知れたもんじゃない。いつまでも2007年の昔で時がストップしてるわけじゃない。例えばこの頃はまだ大韓民国に対する好感度は驚くほど高かったのだ。日本に於いては無縁と思われていた反米感情が今後市民権を得ないなどとどうして言える?)


 古溝官房長官はそんな人間が存在するなど露ほども知らないが、『日本人のみを攻撃する慰安婦問題』など天狗騨記者にかかれば秒殺案件である。


(政府は屈服させることはできても個々人の憎悪は別だ。日本人を十把一絡げに解釈し、政治家も国民も脅せば簡単に態度を改める——とでも思い込み、軽い気持ちでやっているのか————?)


(それとも腹の底になにかがあって故意に日本に於ける反米感情をアメリカ合衆国自身が煽っているのか?)


 古溝としては今は、外国を怒らせた直後に内閣総辞職という、あまりにも分かり易すぎる前例だけは造るわけにはいかなかった。

 ただ、元号が昭和の頃、韓国政府という外国政府を怒らせて閣僚の首が飛んだ先例はあった。せめてもの許容範囲はギリギリここまでだった。だから古溝は山柿外相が辞めても「ま、しょうがない」とした。


(自分は防波堤だ。減災程度には役に立つ。総理には年を越すまでは粘って欲しいと心から思う)

 ようやく古溝は病院廊下の椅子から立ち上がった。

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