第百二十七話【中国国家主席集鑫兵、遂に日本の国立追悼施設の上に立つ!】
真円の形に敷き詰められた石畳の台の上に四人の男が立っていた。ここは〝国立追悼施設〟。
思いの外静かである。細かな雑音は全て蝉の声でかき消されているかのようだった。そうした音しか音がしないせいだろうか、かなり五月蠅いはずなのになお静かである。
石台の外の広場を埋め尽くした随行員やら報道陣やらは多かれ少なかれそう感じていた。
そのように感じるのは〝これから始まる儀式が、平穏無事に済むだろうか〟という、この場を支配する極度の緊張感のせいかもしれない。
あるいは石台の上と外の、あまりの空間の対照さのせいかもしれない。
石台の外という空間が人々で埋め尽くされ、石台の上という空間には僅かに四人しか人がいないのだ。
四人のうち二人は国家首脳レベルの政治家。他二人はそれぞれの通訳である。
とは言っても加堂首相の方は元々中国畑を歩いてきた外務官僚出身である。中国語は理解できた。それでも通訳同伴だったのは外交上の慣例というやつである。
もう一人の国家首脳レベルの政治家、中国国家主席・集鑫兵は、加堂首相が初めてこの場に来た時と同じ行動をとっていた。即ちあらゆる石柱の徹底的観察。
円形の石台上、円周に沿って等間隔に並ぶあらゆる石柱に何一つ文字が刻まれていない事に早くも、と言うか当然に気がついた様子である。
(こんな事は聞かされていない)集鑫兵は思った。〝文字が刻まれていない〟などという報道は一切無く、〝分かれている〟とだけ報じられてきたのだ。
加堂は集鑫兵に声をかけた。
「どうなさいましたか?」と。
中国語である。案の定、どの石碑にも文字が書いていない事を指摘し、さらに続けてアジア諸国の犠牲者の碑はどれか、と訊いてきた。
「もちろんあります」加堂は明朗に答えた。
案の定、どれだか分からない、と返事が返ってきた。
「集主席が内心で『これだ!』と感じた石碑。それがアジア諸国の犠牲者の石碑です」加堂は続けて明朗に答えた。
中国国家主席・集鑫兵が、ここで敢えて猜疑心を持たぬよう振る舞えていたら今後は変わっていただろう。しかし中国の政治家が持っている性質が、日本国に対するスタンスが、やはりと言うか当然に表に出てきた。
集鑫兵はあまりに単刀直入に訊いてきた。
それは——ではA級戦犯は?であった。
ただでさえジリジリと焼けるような八月二十日過ぎである。この真円形の石台がまるでフライパンのようにジリジリとしてきた。
本当ならどれか一つの石柱に手を合わせてもらって、今頃この石の壇上から降りている頃合いだった。
加堂の計算が微妙に狂い始めていた。
このセレモニーは三分で終了する予定だった。なんてったって八月なのである。極短時間で終わっても不自然さは無いだろうということで。
この暑さの中、この石台の上で説明を、突っ込んだ話を求められるとは加堂は思ってもみなかった。
通訳がいるのに通訳を介さない中国語会話が始まっていた。
「主席閣下が祀られていないと思うならば祀られていません」
「総理、あなたはどうなのだ?」
(あれ?)加堂は思った。汗がだらだらとただ流れ続ける。が答えるより他ない。
「もちろん私個人の考えはありますが、誰が祀られているとか祀られていないとかいうのは個々人の『内心の自由』でして、総理という影響力のある者が追悼対象を規定するのは好ましい事ではありません」そして何か言われる前に間髪入れず続けた。
「国の施設ですから、『内心の自由』を護ることを明示してその上で実践をしないと憲法違反と言われますから」
大爆発が起こった。人間が情緒的大爆発を起こした。加堂は今ほど中国語が理解できることを悔いたことはない。いっそのこと理解できなかったらどんなに知らぬが仏でいられることか! そうだこれは夢だ夢に違いない、と。
「凶悪犯罪者A級戦犯は祀られていないとはっきり石に刻むヨ!」
「アジアの人々を虐殺した事実を刻むヨー!」
「永遠に謝罪すると書くヨー!」
大まかにいってこんなことを集鑫兵は口走り続けていた。
もはやこの時点になると加堂は〝説明〟すらもできなくなっていた。別なことを考えてしまっていた。
(オイ……話が違うぞ)
「日本鬼子(りーべん・くいず)の追悼など許さんヨー!」
「小日本(しゃお・りーべん)敵ヨー!」
これは気のせいだ。気のせいに違いない。
(あーあー何も聞こえない)
(あーあー何も聞こえない)
(あーあー何も聞こえない)
彷徨う加堂首相の視線。この石台の上まで同行してきた日本国外務相の通訳担当と目が合った。
顔は蒼ざめ加堂首相を見たままオロオロと両手を意味不明に動かし続けている。何か聞こえてしまったようだ。もはや第三者に聞かれた以上はもはやこれは無かった事にはできない。なにせ中国外交部の通訳担当も完全に固まっていた。今の集鑫兵の口走った雑言を加堂に訳した方がいいのか訳さない方がいいのか判断を思考停止してしまったようだった。
加堂首相は思った。
(わざわざ訳されたら、この場がいよいよどうなっていた事やら。今何を思っているかは知らないがありがとう中国の職員君。君こそ日中、いや中日友好の架け橋だ。この事はこの加堂、この先も心にとどめておくよ。ただ私がこれを口にしたら君が無事で済まないだろうから礼は言えない。悪いな……)
(それに比べて。それに比べて……)
『もし〝A級戦犯〟云々でゴチャゴチャ言う者がいたら〝政府は内心の自由に介入できない〟このワンフレーズの一点張りで対処できます』外務大臣のしたり顔が、あのしたり顔がふいに目の前に浮かんできたような気がした。あの声と共に。
(あんの野郎……、また外しやがった)
山柿外相は以前にも外交上の別件で外したことがあったのだった。
シャオリーベンが敵だとか何だとかいう声がまだ聞こえている気がしたが、もはや加堂の内は外務大臣に対する怒りしかなかった。
『しっかし、あの施設には曖昧な部分が多々ある!この曖昧さは後々大きな問題となり、将来の禍根となることも————』
天狗騨記者という一記者の懸念は杞憂としては終わらなかった。大事件はかくして起こってしまったのである。
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