第百十六話【2008年・北京五輪ノ聖火in長野】

「2008年、北京五輪の聖火が世界各国を廻っていました。国際聖火リレーです。ここ日本においても長野に運ばれ聖火リレーが行われました。その時の〝長野の状況〟が再現されていないからです」天狗騨記者が答えた。


「長野の状況トハ?」試すようにリベラルアメリカ人支局長が訊き返す。


「当時は国際的に〝チベット暴動〟がホットイシューでした。まあ『暴動』というのは中国政府の言い分ですがね。チベット人が中国政府から激しい弾圧を受けた事件です。パリに本部のある『国境なき記者団』がこれに憤り、北京オリンピックの国際聖火リレーの場での抗議活動を呼びかけた結果、聖火が通過する世界各地で抗議運動が起こりました。長野もその中のひとつというわけです」


「——長野にチベット支持派が集まる。一方の中国人の側も留学生3千人から4千人が長野に集まる。両陣営が集まり一触即発の状況になりました。こうして聖火リレーのコース各所でにらみ合いや小競り合いが起きたのです」


 さらに天狗騨が続ける。


「——しかし〝小競り合い〟が起きたと言っても別に長野県警が手を抜いていたわけではありません。既に長野以前に世界各地で北京五輪の聖火リレーで混乱が起こっていましたからね。確か……ちょっと待ってください」

 そう言って天狗騨記者はスマホを取り出し検索を始める。

 ちょうど自社、ASH新聞の過去記事がヒットした。


「——警察は当初予定の6倍の約3千人で警備にあたる厳戒態勢を取っています。聖火を持って走ったのは日本人ばかりですが併走者には中国側のスタッフが2名いました。つまり中国人です。〝彼らにもしものことがあっては大変〟と透明のプラスチック製の盾を持った警察官数人が走者を囲み、さらにその外側左右に約50人ずつ計約100人もの警察官が人垣を作り併走したのです。怒号飛び交う中、一塊となった人間が道を進んでいくという異様な聖火リレーでした——」


「——それだけ警察官を動員しても〝警察官が阻止する場面〟が相次いで起こりました。沿道からチベットの旗を持った台湾人が飛び込もうとして警察に取り押さえられたり、卵のパックをリレーに向かって投げ込む者も出て、これまた警察に取り押さえられています。結局逮捕者は3名で、いずれも〝チベット支持側〟としか考えられません」


 ちなみに、であるが、この時の長野県警の対応が、『中国側に立ったものだ!』との憤りが当時右派・右翼側から起こった。


「——この国賓訪日でそうした騒動を目にしないということは、今日の各地の現場には反中国の人間はいなかったということです!」


「しかシそれハ『日本人は反中国デハなかっタ』とイウ説明で片付ク」


「日本人の対中好感度を調べた世論調査結果を知らないのか? 2008年の比じゃないんだぞ!」


「ダガそれハ憶測ダロウ。日本ノ政治家や経済界ハ親中ダ。だからコソの国賓訪日ではナイカ」


「そんな連中は沿道に出ない」


「支持団体や社員・取引先を動員シタ、で説明がつくダロウ」


「そんな強引な説明があるか!」


「仮にダ、沿道に集まったのが中国人ばかりダカラ騒動が起きなかったとシヨウ。もしソウなら現場の入場の際ニ身分証明書等で確認ガ行われテイル筈ダ。そんな確認ができるノハ日本の警察以外に考えられナイ。どうシテモ日本人の側ニ協力者がいなけレバ〝コノ整然〟は説明ガつかナイ理屈ダ。だが、ソノ警察はダンマリではナイカ」


 さすがの天狗騨もこれにはぐうの音も出ない。


「日本ハまたモ民主主義を裏切りナチスの側に付くトハナ、本当ニ歴史の反省をしナイナ」リベラルアメリカ人支局長はそこまで言い切った。


 これに思わずカッとなった人間がいた。

「何だとっ!」と思わず声が出た。

 それは天狗騨記者ではなく中道キャップの声だった。

 リベラルアメリカ人支局長は。それについカッとなったのだ。

 中道キャップは、以前死刑廃止派の弁護士がASH新聞に乗り込んできた時もついカッとなって悪態をつき、自ら窮地を招き寄せたことがある。普段は温和しいのだがこれは悪い癖であった。

 ちなみにナチスと日本を結びつけられても彼はついカッとなることはない。ならないのは、彼がその名の通り中道(ちゅうどう)を自称していても、そこは結局ASH新聞社員だからである。

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