第百十話【中華人民共和国国家主席・集鑫兵の深い深い憂鬱】
先に『正に内閣総理大臣加堂の打つ手打つ手がビタリビタリと当たりまくっている状態。正に相手の心理を読み切った対中、対米外交だった。』と触れた。
加堂首相による相手の心理を読み切った対中国外交。
これにまんまと嵌まっていることを自覚している中華人民共和国国家主席・集鑫兵は実のところ非常に不機嫌であった。
彼は今、中華人民共和国の政府専用機の中の人である。
(日本が自分を国賓として招くというのは悪くない——)
(だが国立追悼施設へ来てくれとは厚かましいにも程がある)
そこは基本日本の戦没者を追悼する施設であり、中国のトップが訪れるのはどう見ても国内政治的に非常にリスクが高かった。
だが欧米を中心とした国際社会が中華人民共和国を追い詰めつつあった。この状況が集鑫兵に〝決断〟させたのである。
国家主席・集鑫兵にとっては、今中国が置かれているこの状況は『新型コロナウイルスの流行で多数の死亡者を出した欧米各国による中国への責任押しつけ』に他ならなかった。
むろんそんなあからさまな押しつけを語っていたのは、かの『アメリカ・ファースト!』な大統領だけだったが、彼が声高に主張し始めたウイグル人人権問題は、遂に『ジェノサイド』というセンシティブな語彙を使って語られ始めるようになり、中国を事実上の敵国とした他の種々の政策もろとも、その後のアメリカの政権にも引き継がれてしまったのである。
そして中国はこのタイミングで『香港』の自治を奪う挙に討って出た。これは最悪手以外の何物でもなかった。
今まで中国が東シナ海で日本に日常的に圧迫を加えようと、そして南シナ海の岩礁を勝手に埋め立ててさえも、諸外国からは国際的制裁も受けず、せいぜい懸念を表明されるだけ。なんとはなしに済んでしまっていたため、ついつい油断したとしか言いようがない。
状況の変化は特に『台湾』で顕現した。これまで〝巨大な市場を抱える大経済大国・中国〟に遠慮し配慮し、『台湾』という固有地名を使うことを手控えてきた諸外国の外交が一転、急変したのである。
『台湾』という文言は日米首脳会談でも使われ、G7声明でも使われるに至った。
その急激な政治状況の変化は国際企業にも影響を与え始める。
欧米、中でも特に米英は中国とのサプライチェーンを本格的に〝切り〟にかかり始めた。そしてこの方針に逆らう企業には制裁も辞さずという政策を採るに至ったのである。
ひとつの例がある。
日本の衣料品小売大手UQはその製品の一部が『ウイグル人を強制労働させて造った新疆綿を使っている』として、アメリカ国内への輸入差し止めをアメリカ政府から食らわされた。
新疆綿とは〝新疆ウイグル自治区〟で栽培されるコットン(綿)であり、間違いなく中国の主力産業のひとつである。
例えば2018年から2019年にかけての世界の綿花生産量のトップは中華人民共和国で、トン数にして604万トン。全世界の生産量の23%を占める。
そのうち新疆ウイグル自治区における綿花生産量は511万トンにも昇る。
このように中国で製造した品物を第三国へと輸出するというビジネスモデルは俄に政治的リスクを孕むようになった。UQはアメリカ当局に不服を申し立て、輸入禁止措置の撤回を求めたがなんらの撤回措置も採られることはなく、ゼロ回答のまま。むしろアメリカ側から見てUQこそが反省もせず〝開き直りのゼロ回答〟をしている、と思われている節さえある。
中国のいわゆる戦狼外交は完全に裏目に出ていた。
そんな中、日本国の首相から、
(国賓として招待するから国立追悼施設に足を運んではもらえまいか)と慇懃無礼な要請が来たのである。
国家主席・集鑫兵からすれば(足元を見られた)としか思えない。
だが中国を取り巻く過酷な状況から渋々これを承諾することにする。
国家主席・集鑫兵の頭の中には1989年の中国の鮮やかな成功体験がある——
1989年といえば日本では〝平成〟が始まったばかりの年。この年6月4日、あの〝天安門事件〟が起こる。
中華人民共和国の民主化を求める当時の中国の若者達に対し、中国共産党指導部は人民解放軍の戦車を突入させる。事件の死亡者がいったいどれほどだったのか、30年以上経って未だその全容は不明である。
この時の日本外交は今現在の価値基準に照らせば本当に許されないものと言えた。
2020年12月に公表された外交文書によれば、なんと事件発生の6月4日その当日、民主化を求める中国の若者が戦車で潰された正にその当日に『中国に対し、制裁措置を共同して取ることには、日本は反対』と、早くもこのような外交方針を決定していたのである。
この外交文書のタイトルは『中国情勢に対するわが国の立場』。日本国民の一切あずかり知らぬところで、日本国民は中国に味方する立場に立たされていた。
中国制裁で各国が連携するのを真っ先に妨害し始めたのはなんと日本なのであった。
ただ、さすがにこれではマズイと思ったか、人民解放軍による武力弾圧については『人道的見地から容認できない』と件の文書に書き込みはしたが、どう見てもコレは刺身のつまのようなものである。ただ、この文を一行入れた側からすれば『あってもなくてもどうでもいいもの』ではなかったようではある。
さらに同年6月19日付の外交文書には、
『具体的に国名を挙げつつの言及、非難は避ける』『文章の形は極力拒否すべし』などと明記されていた。
これは『人権』という価値観などまるで存在しないかのような外交方針であり、日本の国益ために外交をしているのか、はたまた中華人民共和国という外国の国益のために外交しているのかいよいよ解らない状態となっていた。
しかしこれは〝迷走〟とは明らかに一線を画していた。
現代の価値基準では決して誉められないどころか非難を浴びることが確実な日本のこの外交方針は一切ブレることがなく、ただ紙に書いたのみで止まらず翌月から、信じがたいことに〝日本外交〟として実践されていくこととなる。
当時の日本国内閣総理大臣・宇野宗佑は外務事務次官にこう告げた。
「中国が孤立しないよう引き戻すのが日本の役割。中国は言葉とメンツを重んじる国で、下手をすると逆効果だ」
日本の政治家の腹は、今にしてはどこにもなんらの説得力も見いだせないが、このようにして固く固く決まっていたのだった。
そして1989年7月、G7、運命のフランス・アルシュサミット。
日本は中華人民共和国の代理人の如き獅子奮迅の活躍を見せる。
サミット準備会合の席では、日本が対中非難宣言の採択について、実際に『望んでいない』と主張していた。
当然日本以外のサミット参加国が無条件でこんな提案に賛同する筈も無く、以下のような反応で戻ってきた。
アメリカ『アメリカ議会、世論との関係で大きな困難に直面することになる。具体的措置への言及は不可欠だ』
西ドイツ『具体的措置に言及しない宣言では意味がない』
イタリア『日本の孤立は世界的批判を招くだろう』
フランス『この文言に同意できないのは日本だけだ』
と、こんな具合である。
議長国のフランスが作成したこの対中国宣言案には『要人接触の停止』『世界銀行の対中新規融資の延期』など具体的な制裁項目が列挙されてさえいた。
日本以外のG6諸国は、G7が中国を名指しした上で、『〝このような事件(天安門事件)が今後起こらないよう社会改革せよ!』と求める非難宣言こそが望ましいと、そして『それが実現されないうちは制裁を続けていこう』と、そう考えていたわけである。
ところが、驚くべきことにこの多数が推す非難宣言は日本によって骨抜きにされた。
1989年の日本。正にバブル絶頂期。ジャパン・アズ・ナンバー・ワンの時代の日本。今にしては信じ難いことだが当時の日本の国力は不可能を可能にしていたとしか言いようがない。
非難宣言がどう骨抜きにされたかといえばこうである。
『中国が自ら孤立化しないような改革を進める必要がある』、これが実際に採択された対中国宣言である。
『我々G7が中国に求める!』という宣言が『中国の自主的取り組みを求めたい』になってしまった。もはやどこら辺りが〝宣言〟なのかも解らない。
この日本外交について語る日本の外交官はどこか得意げである。
『宣言は抑制されたバランスの取れたものとなった。宇野首相以下、日本の努力が実を結んだ』(駐中国日本大使)
『改革・開放政策を続ける中国を孤立させてはいけないという立場だった。自国世論を意識し対中批判を強める他のG7各国との違いは明白だった』(外務省情報調査局企画課長)
特に後者などは『日本は大衆世論に迎合する他のG7の国々とは違う』と鼻高々である。
しかし今となっては他のG7各国と日本、どちらが正しくどちらが間違っていたか既に答えは出ている。
『改革・開放で経済成長さえしておけば人権などどーでも構わない』、こうした価値観の延長線上に香港問題、ウイグル問題がある。
『人権をないがしろにすれば経済成長もできない』という強いメッセージをあの時送っていれば、中国は今これほどの世界の脅威となっていなかったのではなかろうか。日本を除く他のG7各国はこっちの路線を選ぼうとしていたのだ。
とまれ、この後日本外交はいよいよ本格的に暴走を始めていく。
天安門事件から僅か3ヶ月、フランス・アルシュサミットからたった2ヶ月の、1989年9月、日本は国会議員団を中国へ派遣する。(団長・伊東正義日中友好議員連盟会長)サミット議長国フランスが作成した元々の対中国宣言案には『要人接触の停止』とあったわけだが、そんなものはどこ吹く風の日本。
それを受け入れた中国側は、共産党総書記、首相、果ては最高実力者の鄧小平まで出てくる歓待ぶり。その鄧小平は訪問議員団に語った。
『日本の態度は他の国、特に米国とは違う。日中友好は国内でも国際的にもやっていかねばならない』と。
この後も中国は立て続けに日本の要人を自国へと招待し続ける。そしてそれに応える日本。国会議員団の後は経済人がこれに続いた。
そして天安門事件発生から1年5ヶ月後の1990年11月、日本は同事件を受け事実上凍結していた第3次円借款を解除した。サミット議長国フランスが作成した元々の対中国宣言案には『世界銀行の対中新規融資の延期』とあったわけだがそんなものはどこ吹く風、融資を再開してしまう日本。
当時の中国副首相は状況が過ぎた後回顧録の中にこう書いている。
『日本は西側の対中制裁の連合戦線で最も弱い輪だ。おのずと良い突破口となった』
当時の政治家当時の外務官僚は考え得る限りの最低最悪の仕事をした。
その最後の総仕上げが1992年の天皇訪中であった。この瞬間中華人民共和国は天安門事件から解放されたと言っていい。
天皇が悪いのではない。天皇を中国のために使った日本の政治家と日本の外務官僚がいたということである。
これにより中華人民共和国は天安門事件という事件を起こしながら国際社会に復帰、再デビューを果たす。
現代の中華人民共和国国家主席・集鑫兵はこれの再現を狙っていたのである。
(しかし小日本も図太くなったものだ)
集鑫兵は〝シャオ・リーベン〟という日本に対する侮蔑語を思考中でさえ用いた。
(国賓で招待する代わりに国立追悼施設へ足を運べとは)
むろん加堂政権はこのような直裁的な言い方はしていない。外交上の修辞でこてこてにデコレーションされた〝要請〟をしたのみである。だが意味としては集鑫兵の理解した通り、バーター取引で間違いが無かった。
繰り返すが中華人民共和国の最高指導者が日本の戦没者を祀る施設に足を踏み入れることはそれ自体が相当の政治リスクである。したがって日常茶飯事と化している(日本側から見ての)尖閣侵略は今日も例外ではなく行われている。
だがそれでも気が済まないのが集鑫兵である。
(この私がわざわざ小日本などに足を運ぶのだ。天皇訪中を加堂に約束させなければ)そう腹を決めていた。
1992年の再現、二匹目のドジョウを狙っているのは明らかだった。
羽田空港。隣国の大国、中国のトップ、国家主席・集鑫兵を乗せた政府専用機が着陸態勢に入りつつある。今、正に全てが始まろうとしていた。
ギュヒイイイイイィィィィィィィィグオゴォォォォォォンと騒音を響かせながら、いよいよ真打ちがやって来たのである。
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