第十五章 やはり米軍慰安婦問題を放ってはいけません
第百七話【大韓民国は米軍慰安婦問題追及を始めるか?】
『どれ、米軍慰安婦問題でアメリカを地獄へ引きずり込むとするか』天狗騨記者は実に無造作に言った。
(地獄へ引きずり込む——)
天狗騨という人間の価値観を量る上でこれほど解りやすい言い回しもなかった。リベラルアメリカ人支局長は既に、天狗騨の日本人としての〝異質さ〟に気づいている。
天狗騨の主張、一見その主張は保守、あるいは右派、右翼レベルと見まちごうくらいである。
だが日本人の『右』との間には決定的な違いがあった。彼らは日本の正義を主張する。そこまではいかなくても得てして『日本は悪くない』という主張になりがちだ。こういう敵はなんのリスク無く攻撃に専念できる。
『地獄へ引きずり込む』というのは、自分達が地獄にいることを前提にしている言い回しである。
上昇志向を持った希望を持つ人間を叩いてその意志を挫けさせるのは実に簡単だ。
だが希望を持たない、一歩進んで絶望している人間を叩いてもこれは挫けさせることはできない。なぜならとっくに挫けているからである。却ってその叩きがエネルギー源となりさらに〝その意志〟を強固にさせる。
自分が上層へ行っても、上層の者を下層に引きずり降ろしても、もしそれが実現できたなら結果は必ず〝平等〟になる。
自分が上層へ行くのが無理だとある時点で悟った場合、残る手段はひとつである。これはテロリストや無敵の人の心理状態の相似形を成しているとも言えた。
〝その意志〟とはむろん上にいる者を下層に引きずり降ろす負のエネルギーのことである。
ただ天狗騨の場合、その手段として爆発物を使わないという点のみが違っていた。天狗騨は日本をアゲようなどと、その脳中にはまるで無い人間だった。
それでも一度は『アメリカ人に期待しましょう』と慈悲の言葉を発したのだが、リベラルアメリカ人支局長の捨て台詞を受け、直ちの方針転換となったのである。
天狗騨がおもむろに語り出した。
「私は1993年の『慰安婦問題についての官房長官談話』は慰安婦のおばあさんの辿ってきた人生に思いを致し、寄り添った、実に人間味溢れる血の通った談話であるとそう考えています」
(コイツはあの官房長官談話を否定しないのか?)
この談話を否定し取り消そうと主張するのが一般的に保守、右派、右翼なのである。
「——それを受け創設された『アジア女性基金』もまた素晴らしいアイデアでした。政府命令で国庫から補償金を出す行為と、寄付を集めて補償金に充てる行為を比べた場合、国民の自発性の可視化という意味で〝国民レベルでの日韓友好に非常に資する補償の仕組み〟だったと言えます」
(なんのつもりだ? コイツは右翼じゃないというのか?)
「——しかし『それではまるで不十分』とさらなる謝罪賠償要求が韓国で巻き起こり、2015年12月、『日韓慰安婦合意』が結ばれ、今度は日本の国庫から補償金が拠出されました。しかし『それでもまだまだ不十分』と、韓国内では慰安婦問題は未だ解決していないようです」
急に天狗騨の声調子が一変した。
「ここには問題があります!」
「——米軍慰安婦問題という慰安婦問題があるにも関わらずアメリカは『慰安婦問題についての主席報道官談話』は出さないし、米軍慰安婦問題解決のために民間基金も造らないし、もちろん『米韓慰安婦合意』などというものは存在しないし、したがってアメリカの国庫から慰安婦に対して補償金など拠出されていない!」
「——どういうことです、これは?」天狗騨の眼光いよいよ鋭くリベラルアメリカ人支局長の目を射抜いた。
「——今や日本が慰安婦問題で謝罪と賠償の義務があるというその根拠は、1993年の『慰安婦問題についての官房長官談話』のみになってしまいました」
「——思いやりの心を持った優しい人間達が『国際レイプ民族』とされ悪とされ容赦なく殴られ続け、明らかに問題がありながら眉一つ動かさず開き直りなにもしない冷酷な人間達が正義となって、思いやりの心を持った人間達を殴って攻撃してイジメまくる。これが正義でしょうか?」
(ヌッ!)
「大韓民国とアメリカ合衆国が国を挙げてやって来た慰安婦攻撃は社会正義の上で到底許されるものではない!」
「日本は確かに戦争に負けました。だが負けたからといって負けた人間に何をやっても許されるわけじゃない!」
「たかだか戦争に勝つだけで、よりたくさん人殺しをしただけで正義になれるわけなどない!」
さらに天狗騨が鋭い声を解き放った!
「最初からおかしいんですよ。この歴史観はそもそも!」
ここでまた突然天狗騨の声調子が変わった。実にやわらかく。
「——しかし救いが無いわけではない。あなたの国アメリカの女性下院議長が慰安婦問題について『正義が実現されるのを見てみたい』と日本人の政治家に言ったと、そう韓国で報道されていましたね」
「……」
「——ここから言える事はアメリカの女性下院議長は〝正義は未だ実現されていない〟という認識を持っているということです!」
「——実に素晴らしいことです! さすが女性の社会進出の進んだアメリカだ! アメリカの下院議長自らが米軍慰安婦問題の追求に立ち上がるとは! アメリカのリベラルは実に素晴らしい!」
〝素晴らしい〟を二度も繰り返した天狗騨記者。
(あんのババアッッッッッッッッ!)
リベラルアメリカ人支局長は心の中で絶叫した。たった今天狗騨が言った通りその女性下院議長はリベラル政党出身で、むろんリベラルアメリカ人支局長の支持する政党出身だった。が、もはやババア呼ばわりであった。
確実にそういう意図、即ち『米軍慰安婦問題を追及する』などという意図で言ったのではないことが彼には瞬時に理解できた。
(今はもう日本人を慰安婦問題で容赦なく殴り続けることのできた2007年の『慰安婦対日非難決議』の頃じゃねえ! 情報のアップデートを怠りやがって!)
『情報のアップデート』、それは例えるならこういうことになる。新型コロナウイルスが流行って一年以上過ぎた段階でも『武漢からの観光客を入れなければ大丈夫』と言っているようなものである。
無能な味方は有能な敵より恐ろしい。この格言を改めて思い知らされるリベラルアメリカ人支局長。
天狗騨怒濤の勢いは止まらない。
「アメリカのリベラルは実に素晴らしい! このようにアメリカの女性下院議長が米軍慰安婦問題の追及に立ち上がった以上、韓国にとってはアメリカの中枢に味方を得たことになります!」
天狗騨の次のことばにリベラルアメリカ人支局長は耳を疑った。
「これで大韓民国は国を挙げて米軍慰安婦問題の追及に邁進することができる!」
「なんダトッ⁉」
「大韓民国がアメリカ合衆国に対し要求する事柄は明瞭です。『慰安婦問題についての首席報道官談話』の要求。アメリカ国民が心から慰安婦に寄り添っている証明としての『アメリカ版アジア女性基金』の創設の要求。さらには『米韓慰安婦合意』の締結。もちろんアメリカの国庫からの慰安婦に対する補償も実現させるよう韓国はアメリカに要求すべきです!」
「そんなコトヲ韓国がスルカッ!」
「するとかしないとかじゃない。させなければならない」
「米韓関係ガどうなっテモいいノカ⁉」
「なんでそんなこと日本人に訊いているんです? 私は韓国人じゃないですが」
「答えナイつもりカッ!」
「米軍慰安婦問題の追及の結果米韓関係がどうなるかは知りませんが、少なくとも日韓関係は良くなるでしょう。慰安婦問題の攻撃対象が日本人限定でないと証明する行為になりますから。日韓関係改善はあなた方アメリカ人のかねてからの望みだったのでは?」
「俺ハ米韓関係のコトヲ訊いテイル!」
「ではこちらからも訊きましょう。あなたは『米韓関係』と『女性の人権問題』のどちらが大事だと考えていますか?」
「……」
返答に詰まるリベラルアメリカ人支局長。
「『女性の人権問題』に決まってるでしょおが!」寸分の迷いも無く天狗騨が言い切った。
「そんなコトをすレバ、韓国ガ中国にツクゾ! やはりお前ハ反米親中、中国サイドの者ダ!」
「『南京大虐殺の犠牲者は0人』と堂々公言している親中派っていますか? 私は立ちたくても中国サイドには立てませんよ」
(こんなところで無駄と思われた『南京大虐殺論争』が役に立った)と思わずにはおれない天狗騨記者。
「……」
そして絶句するリベラルアメリカ人支局長。
「それよりもどうして大韓民国がアメリカ合衆国に対し米軍慰安婦問題の解決を求めると韓国が中国サイドにつくという話しになるんです? それはアメリカ合衆国には米軍慰安婦問題についての謝罪の意志は無いという意味になるんですが」
「やかマシイッ! ソモソモ韓国はアメリカに慰安婦問題デ謝罪要求などシナイッ!」
「どうしてアメリカ人であるあなたにそれが言えるんですか? それは韓国を脅して黙らせるという意味にしか聞こえないのですが」
「そう言ウお前の勤める新聞社モ米軍慰安婦問題の追及ナドしたコトガ無いではナイカ!」
「ぬっ!」珍しく天狗騨の方が詰まった。彼は意表を突かれた。この戦術はこの場では予想していなかった。
「これからするんですよ!」そう咄嗟に声を放った。
「どうカナ? もしそれガでキルと言うのナラ、2007年の『慰安婦対日非難決議』の時にできていた筈ダロウ?」
確かにそれはそう言えた。しかし天狗騨も負けてはいない。
「韓国は実に素晴らしい! なぜなら『日韓慰安婦合意』の後も慰安婦問題を終わらせていない。もし『日韓慰安婦合意』の後何も言わなくなってしまっていたら、慰安婦問題はこれが全てだということになりとうに終わっていた。だが韓国人達と韓国政府が慰安婦問題を終わらせていない以上、今からでも米軍慰安婦問題解決のためのアクションを起こしても、『終わった問題を蒸し返してきた』ということにはなりません!」
改めて、無能な味方は有能な敵より恐ろしいという格言を味わわされるリベラルアメリカ人支局長。
(あの疫病神め!)という感情しか起こらない。
リベラルアメリカ人支局長は『韓国には米軍慰安婦問題の追及などできるワケがない』と主張し、
天狗騨記者は『韓国は必ず米軍慰安婦問題を追及する。するつもりがなくても〝させなければならない〟』と主張する。
アメリカ人と日本人が韓国を巡る奇妙な対立を起こしていた。
今度はリベラルアメリカ人支局長が口を開く番だった。
「ASH新聞も大韓民国も、米軍慰安婦問題ヲ追求できるホドノ勇気は無イ!」
それはこれ以上は無いという最大限の侮辱だった。
「ASH新聞はやりますよ。米軍慰安婦問題の追及を日本軍慰安婦問題並みに。そうすれば韓国も立ち上がらざるを得なくなる」
「どうカナ? 慰安婦問題が報道されてカラ何年経ッタ? 今デキルくらいナラ過去にとっくニやってイタだロウ」
「やりますよ、必ず」
「やレルもんナラ、やってミナ!」
どこかで聞いたような台詞を吐きリベラルアメリカ人支局長はUターンをした。
「まっタクばかばかシイコトニ時間を浪費シタ!」とそれでも言い足りなかったのか悪態をつきながらもう既に足音だけの人になっていた。
こうしてリベラルアメリカ人支局長VS天狗騨記者の日付を
終電も出て行ってしまった刻限にここASH新聞社会部フロアにほぼほぼフルメンバーな自発的残業者(?)達だけが残されていた。もちろんこの戦いは『国立追悼施設強制参拝』問題とはなんの関係も無いコップの中の争いに過ぎなかった。
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