第百五話【最後の歴史攻勢? 〝731部隊〟攻勢4 1939年に実戦投入された新兵器が1945年に無くなっている件・編】

 天狗騨記者が口を開いた。

「『ハバロフスク極東軍事裁判記録』なる資料があります」


「ソ連カ?」リベラルアメリカ人支局長が問い返す。


 ソビエト連邦の〝資料〟にどうスタンスをとればいいのか微妙なところだが、第二次世界大戦でアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦は同盟国であったことは間違いない。よってリベラルアメリカ人支局長はそれ以上のことは口にしなかった。


 天狗騨が肯き続きを語り出す。

「ハバロフスク極東軍事裁判公判廷における『西 軍医中佐』という人物の証言があります。彼は731部隊の教育部長を務めていた人物だということです」


 天狗騨がまた例の手帳の頁を繰っていく。そして朗読が始まった。


「『問 第731部隊による細菌兵器の実用について貴方の知っていることを述べて貰いたい。


  答 私は1940年中国に対して細菌兵器が使用されたことを聞きました。1940年8月或いは9月に私は北京の防疫給水部本部に居り、そこで中国中部の寧波市付近で細菌が使用されたことを耳にしました。


  問 誰から、そして如何なる事情で貴方はこれを聞いたか?


  答 私が北京の防疫給水部本部にに居た時、其処に南京の防疫給水部本部の書類が来ました。この書類から寧波市付近で細菌が実用されたことが私に明らかになりました。ついで北京の防疫給水部吉村中佐が中国に対して実用したペスト菌は石井部隊から取り寄せられたものであることを私に知らせました』」


 ここでいったん天狗騨は話しを区切る。


「1940年の8月か9月というのは日中戦争の最中、中華民国に対し細菌兵器が使用されたという〝証言〟です」と天狗騨は言った。


 天狗騨の意図が読めないリベラルアメリカ人支局長。


「まだあります」そう言って天狗騨は再び朗読を始める。


「『問 細菌兵器の使用に関してまだ貴方の知っていることがあるか?


  答 ハルハ河方面事件の際、石井部隊が細菌兵器を実用したことを知っています。1944年7月、私は孫呉の支部から平房駅の第731部隊教育部長に転任せしめられました。私は前任者サノダ中佐から事務を引き継ぎました。同日、サノダ中佐は日本に向けて出発しました。私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、即ち、ハルハ河畔の事件で、細菌兵器を使用したことについての書類を発見しました。其処には当時の写真の原板、此の作戦に参加した決死隊員の名簿、碇少佐の命令がありました。決死隊は将校が2人、下士官、兵約20名から成っていましたが、此の名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています』」


 ここで天狗騨は話しを区切った。


「さて、今私が朗読した『ハバロフスク極東軍事裁判記録』にはおかしな部分があります。それはどこでしょうか? 史実と照らし合わせ答えて下さい。ただしヒントはつけましょう。あなたが入試において母国語が得意科目であったかどうかは分かりませんが、日本では〝行間を読む〟という読書技術がある。これがヒントです」


「人を試すヨウナ真似をするナ!」


「まともに考えていただけないのは残念です。行間を読むとは、〝書いてないことを読み取る〟という意味です」


「書いてナイことヲ読み取レルわけがナイ!」


「そういう態度で考えることを怠ってばかりいると、あっさり共産主義者に騙されますよ」天狗騨は不敵に言った。


「私が騙されテイルと言うノカッ!」


「ええ。その通りです。ここでは『細菌兵器がいつ使用されたか』という〝年〟に着目します」


「年ダト……?」


「中華民国相手に使われたとされたのが1940年8月、或いは9月。そしてつい今し方触れたノモンハン事件というのは1939年の5月から9月にかけてのことです。つまり、この証言からもうこの時期には日本軍は細菌兵器を実用化し戦争で使うことができたことを意味します」


(あっ‼)とリベラルアメリカ人支局長は声をあげそうになった。今ようやく天狗騨の言わんとしていることが理解できたのだ。


「であるにも関わらず1945年8月、ソビエトが日ソ中立条約を破って攻めてきたときに細菌兵器が使われた形跡が無いのです。『ハバロフスク極東軍事裁判記録』の中にそれに触れた部分が無い! 事実1945年8月にソビエトに対して細菌戦を敢行したとして戦争責任を問われた日本人はただの一人もいない! 細菌戦は僅か20名でできる! 現にノモンハン事件の時は僅か20名で決死隊を造り細菌戦を実行したことになっている!」


 天狗騨の目がリベラルアメリカ人支局長を射抜く。

「——1945年8月、攻め寄せてきたソ連軍は膨大な大軍でした。最も細菌戦に適したシチュエーションが現出したこの時に細菌戦が行われていない。あなたはこれをなぜだと考えますか?」


 問われたリベラルアメリカ人支局長は詰まる。

(1945年8月、ソ連兵が満州国内に入るやペストで次々と倒れていった記録など、聞いたことも無い…………

 これでは細菌兵器を用意しながら使わないで逃げたと書きやがった『悪魔の飽食』と同じではないか!)



「——細菌兵器など元々存在しないからです」天狗騨が自ら答えを言い切った。


 反撃できないリベラルアメリカ人支局長。そこに追撃をかける天狗騨記者。


「ペストが流行っているかいないかなど誰にでも解る! なにしろペストは人がバタバタと死ぬのですから! 当時さすがのソビエトも今現在流行ってもいないペストを流行っていることにはできなかった! それをやればインチキ裁判と確定されてしまうからです。その結果実に奇妙なことが起こった。1939年には実行した細菌戦を1945年には実行しないという行動矛盾です!」


「ソッ、それはお前の感想ダッ!」

 しかしその〝反撃〟は論としてはあまりに貧弱だった。

 天狗騨の顔からニカッと笑い白い歯がこぼれた。その表情に悪寒を感じるリベラルアメリカ人支局長。


「もう一つ面白い一次資料があります。『サンダース・レポート』と呼ばれるものです。作成者はマリー・サンダース、むろんアメリカ人です」そう言って手帳に目を落とす天狗騨。


「——フィリピンで化学戦部隊に配属されていたこの人物は1945年8月下旬、マッカーサーの命令によって来日。来日時の肩書きは『アメリカ陸軍太平洋軍 科学・技術顧問』。任務はもちろん731部隊の調査です。そして二ヶ月に渡った調査によって作成されたレポートの結論部分にはこうあります。『日本の細菌戦計画は実用的兵器を造り出してはいなかった』、と」


「……」


「存在しない細菌兵器。これでどうやって細菌戦を行うのでしょうか?」


「……」


「このようにソビエトの一次資料はアメリカの一次資料と干渉します」


 一次資料で一次資料を潰す天狗騨戦術だった。


(共産主義者の無能め!)しかしリベラルアメリカ人支局長は怒鳴りたい欲求をかろうじて自制した。


「以上のことから私は731部隊というのは、正式名『関東軍防疫給水部』の名が全てを示しているとしか考えられません。兵隊が病気にならないよう疫病を防ぎ、兵隊のため安全な飲み水をどう確保するか、そのための組織です」と天狗騨が結論した。



 リベラルアメリカ人支局長の731部隊攻勢はここに頓挫した。



「もはや〝弾切れ〟でしょう?」笑顔を浮かべながら天狗騨が訊いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る