第百四話【最後の歴史攻勢? 〝731部隊〟攻勢3 日本とアメリカは生体実験の共犯?・編】

「トンデモ本は『一次資料』ではナイ!」

 こう言ってリベラルアメリカ人支局長は『悪魔の飽食』を放り棄てた。


 だが天狗騨記者は冷徹に言い渡した。

「731部隊について、日本の罪を問える一次資料なんてものは存在しません」


「そ、そんなワケあるカ!」リベラルアメリカ人支局長の声が甲高く裏返った。


「あなたの国では、『ケネディ暗殺』など極一部の例外はあるにせよ、一定期間が過ぎると公文書が機密指定解除されますね。そこでアメリカでは1990年代から2000年代にかけ、カネもかけ数年にも渡って、公開された日本関係の公文書の徹底的な調査が行われました。その目的は〝戦前の日本の犯罪行為の物証集め〟であり、その中にはむろん731部隊も含まれている。その結果、あるいは期待はずれだったのかもしれませんが、非人道的な実験が行われた記録は遂に発見されなかった、ということです」天狗騨は言った。


 リベラルアメリカ人支局長は固まっている。


「『731部隊問題』の実に変わっているところは、アメリカの公文書の中に証拠が無ければ『証拠無し』と断定できるという構造になっていることです。これがなぜだか解りますか?」天狗騨は訊いた。


 『一次資料』と口にしたリベラルアメリカ人支局長だが、そこには『日本には罪がある』ことが大前提として、ある。まさか一次資料が『日本に罪は無い』を証明するブツとなるなど想像の埒外である。これが先入観のなせる業。こうなると後は天狗騨の喋るに任せるほかなく、その口上に矛盾が見つかって初めてものが言えるという完全な受け身の状態となっていた。


「戦後、日本の占領期に、731部隊に関する資料を根こそぎアメリカが持っていってしまったからです」天狗騨は相手が答えぬと見切った上で自分の質問に自分で答えた。


「——本当なら『731部隊問題』はこれで終わりです。なにせ物証が無いのですから。しかし、それについて中国人ならきっとこう言うことでしょう。『アメリカが証拠を隠しているに違いない!』と。これがなぜだか解りますか?」再び天狗騨が訊いた。


「そんなモノは陰謀論ダ!」


「違います。日本とアメリカが生体実験については共犯関係にあるからです」


「なぜアメリカが日本ノ共犯者にナルッ⁉」


「アメリカ人がそう言っているからです」


「どこのアメリカ人ダ! どうせトンデモ本の作者ダロウ!」


「エドウィン・ヒル博士。当時アメリカ陸軍細菌化学戦基地、フォート・デトリック研究所に所属していたれっきとした現役の軍属です」


「公人……だと言うノカ⁉」


「もちろんです」


「……」


「1947年、ヒル博士は俗に『ヒル・レポート』と呼ばれる日本の細菌戦調査に関する報告書をアメリカ本国の化学戦部隊主任宛てに送っています。これは公職を離れた後書いたトンデモ本とはワケが違う。れっきとした報告書であなたがこだわる正真正銘の一次資料というやつです。その中にはこんなことが書かれている——」


「『尋問した人たちから得られた情報は任意によるものであることは特筆すべきである』『を自発的に提供した個々人がそのことで当惑することのないよう、また、が他人の手に入ることを防ぐために、あらゆる努力がなされるよう希望する』、と」


「さて、ことばのオブラートでくるんではありますが、ずいぶんときな臭くなってきましたね。『情報を独占するためになにをすべきか』、と書いてある」


 この『一次資料』に、早くも嫌な予感を感じるリベラルアメリカ人支局長であった。


「キーワードは〝情報〟ということば。これの中身は何か? です。ヒル博士は報告書の中にこう書いています」そう言って天狗騨は件の手帳を開いた。


「——『かような情報は我々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからである。これらのデータは今日まで総額二五万円で確保されたのであり、研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である』と」


「……」


「『人間に対する実験』とは『人間に対する生体実験』を意味しているのは疑いの余地は無いでしょう。この証言は『アメリカは人間の生体実験のデータを格安で手に入れた』と言っているのです。そしてアメリカはその見返りを情報提供者に与えた。即ち、アメリカ合衆国は『731部隊隊員』を戦犯として訴追しなかった。日本とアメリカが共犯関係というのはこういうことです」


「きっと中国人ならこう言うことでしょう。『「生体実験の資料があった」と言ってしまうと、アメリカと日本が裏取引をして本来なら戦犯となっていた筈の者を無罪放免にしたことがいよいよ露見し確定してしまう。だからそんな資料など無いことにしたのだ』と」


 天狗騨があらかじめ警告した『731部隊を糾弾してもしてもろくなことにならない』は正にその通りだった。しかしリベラルアメリカ人支局長はこの言い様に違和感を感じた。


「お前ハ中華人民共和国に対しテモ良かラヌ感情を持っテイルようダガ」


「その通りです」天狗騨は言った。天狗騨の話しはここで終わりではなかったのである。


「アメリカ人のあなたは大いに安心すべきでしょう! 私は731部隊については『というストーリー仕立てになっている』と考えているのですから」


 リベラルアメリカ人支局長はアメリカ人として喜ぶべきか悔しがるべきか微妙な立場に立たされている。

『731部隊が行った生体実験のデータ獲得と引き替えに、その関係者を戦犯として訴追しなかった』のでは共犯と言われても反論の余地は無い。だが天狗騨はこれを『ストーリー(物語)』と断じたのである。奇妙な事に天狗騨とリベラルアメリカ人支局長がこの件に関してだけは共闘の余地ができてしまうのである。


「その根拠ハ?」


「一社会部の記者として言わせてもらえば、私はここに典型的な冤罪の構図を見るからです」


「冤罪ダト?」


「或る特殊な状況下で得られた自白についての証拠能力には疑問符が付く、ということです。日本において取り調べ時に弁護士を同伴させないことを非難していたのはあなた方ですよ」


「『或る特殊な状況下』でハ抽象的すギテ解らナイ!」


「このヒル博士なる人物が報告書を書いたその時代の時代背景を思い出してみてください。ですよ。占領軍が『お前は戦犯だ』と言ったなら死刑にされる時代です。戦争を指導する立場に無い者すら、B・C級戦犯としていつ処刑されるか分からない。B・C級戦犯については冤罪が疑われる事例多数、正に裁く側の気分次第でした。かかる状況下で『お前が知っていることを話せばお前は戦犯にはならない』と占領軍の取調官から誘導されたらどうなります? 相手の希望通りの答えを言ってしまうのが人間ではないですか。つまり典型的な取り調べにおける誘導尋問の手口です。『今ここで自白すれば楽になれる』という正にこのパターンです」


「それハお前の思い込みダロウ!」


「この自供を得た時代背景に加えてこの『ヒル・レポート』に引っかかる部分があるから私はこう考えたのです。要するにこのヒル博士というのは正直者だということです」


 いったい何を言われているのかさっぱり解らないリベラルアメリカ人支局長であった。ここでやおら天狗騨が手帳に目を落とし〝件の箇所〟の朗読を始めた。


「『尋問した人々から得た情報は、笠原四郎博士の場合を除いて。笠原博士は、孫呉熱の実験をした三つの主題の温度表とそれに関連する臨床データの記録を所有していた』、という部分。そして——」


「『この調査で収集された証拠は、この分野のを大いに補充し豊富にした。それは、日本の科学者が数百万ドルと長い歳月をかけて得たデータである。情報は特定の細菌の感染量で示されているこれらの疾病に対する人間の罹病性に関するものである』、という部分です」


「何が引っカカルと言ウ?」


「手に入れたデータというのは、データをとった当時の資料ではなくそのほとんどが『記憶によるものである』ということです。そしてそのデータが驚愕すべき未知のデータだったかと言えばそうでもなく、『これまでに分かっていた諸側面を大いに補充』したものに過ぎないということです」


「何が言いタイ?」


「解っていて敢えて訊いていると理解しますが、我々は近頃定期的に大学教授の『論文捏造』の報道をしています。論文の元となるデータの採り方が恣意的だったとかそういうパターンです。つまり——」

 天狗騨は絶妙の間をとる。

「学者なら当たらずといえども遠からずな〝値〟は解っているのではないですか」


 リベラルアメリカ人支局長は己の顔が蒼ざめたように感じた。


「死刑ニなりたくナイためニ、取調官に誘導されるママ一見もっトモらしいデタラメの数字を自供シタと言うノカ⁉」


「まったくその通りです。アメリカ人はもっともらしく装飾された嘘の情報を掴まされ、しかもそれが〝貴重な情報〟だと今もって勘違いしたままなのでは」


「詭弁ダッ!」


「しかしアメリカ合衆国の調査では『生体実験の証拠』は出なかったわけでしょう?」


「クッ」


「韓国の新聞、CS日報にこんな記事がありました。アメリカ国立衛生研究所の造った研究倫理教材『研究倫理年報』には『中国人、モンゴル人、満州人、ロシア人が731部隊による生体実験の対象になった』などと載ったそうですね。このアメリカ国立衛生研究所というのはアメリカ最大の研究費支援機関で、例えば2019年には総額392億ドルを30万人もの科学者に支給しているとのこと。支給を受けた科学者は年に1回から3回、研究倫理についての講義を受講しなければならない、と。30万に対する教育です! 根拠が無いのに『日本人が生体実験をした』と記述をするのは日本人に対するヘイトであり差別でありデータ軽視だ。それをアメリカ合衆国の国立の組織がやらかしている!」怒濤の言論突撃をかます天狗騨記者。


 しかし一転、天狗騨の声調子が変わった。


「ここまで断言するからにはきっと証拠があるんでしょう」


 面食らうリベラルアメリカ人支局長。

「なんのツモリダ?」


「実は『731部隊』については今私の言った考察を粉砕できる可能性があるんですよ。件のヒル博士という人物はこうも言っているのです。『収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である』と。要するに『人体標本』という物的証拠がある、と彼は言うわけです。それが果たして〝特異な標本〟であるか否か、そこが焦点です」


(明らかに異常な『人体標本』があるかどうか俺達に調べろと言うのか)


 とは言え『731部隊』由来の人体標本は全てアメリカ合衆国へと移送されてしまったので日本人に向かって『調査して説明してみせろ!』とは言えない。

 人に説明を求め説明させ『お前の説明には納得できない』とする説明攻撃はこれまで常に〝アメリカ人から日本人へ〟という一方的ベクトル方向であったが、それを反対向きにしてしまった天狗騨だった。

 しかもアメリカ政府による直近の調査では『生体実験の根拠が見当たらない』のである。


「どういうわけかアメリカ人は日本人に説明を要求し日本人に説明させるんですね。どうしていつも否定ポジションに立ちたがるんでしょう? そして日本人が説明をするとキレる。たまには逆のポジションも経験した方がいいですよ。良い経験になります」天狗騨は言った。


(ぐぅっ!)


「人の言うことに否定意見をぶつけるばかりで持論を持たない人間に価値は欠片ほども無いのだと、そういう自覚を持って下さい」


 アメリカメディアの十八番、『日本人は説明しろ!』攻撃を逆に天狗騨記者から食らうリベラルアメリカ人支局長。


(くそうっ!)


「今のは『生体実験』に関する一次資料の考察でしたが、731部隊についての日本攻撃は二本柱でした。もう一本の柱は『細菌戦』ですが、次はこれについての一次資料を考察するとしましょう」

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