第百三話【最後の歴史攻勢? 〝731部隊〟攻勢2 準備して準備して準備万端整えて最後に使わない最終兵器・編】

「なるほど、解りました。あなたは今ひとつ『731部隊問題』についての理解が浅い。まずはそこから始めましょう」

 天狗騨記者は敢えて『731部隊』ではなく『731部隊問題』という表現をとった。


「世間一般では俗に731部隊で通ってはいますが、正式名は『関東軍防疫給水部』です。所在地は満州国内の『平房』という場所。『ハルピン』という街の近所です」


 リベラルアメリカ人支局長としては『フザケルナ!』といった感情しか出てこない。

「住所ナドどうデモイイ!」


「ではあなたは『731部隊』の何が問題か解っていると?」


「そんなモノは有名ダ! 『細菌兵器』と『生体実験』ダ!」


「その通りです。今あなたが口にしたその二つ、それが731を使った日本攻撃の二本柱です」


(音は同じで表記が違う。シャレのつもりか!)といらいらするリベラルアメリカ人支局長。


「ではその二つはどう関係していますか?」天狗騨は訊いた。


「ナニ?」


「理解が足りないというのはそこです。そこで今少し付け加えますと、生体実験の実験対象、即ち人間ということになりますが、731部隊内では彼らを隠語で『マルタ』と呼称していたと、そうこの『悪魔の飽食』という本にはあります。人間をあたかも資材のように扱いそして最終的には殺害する。しかも『マルタ』は全て日本人以外だと。こうしたことから731部隊の施設をナチスドイツの絶滅収容所アウシュビッツに並び称する者もいます」


(なんだ? なにを考えている?)

 天狗騨に言われて『マルタ』を思い出したことを不覚と思う一方奇怪にも感じたリベラルアメリカ人支局長であった。


「つまり、『効果的な細菌兵器を造るために人体実験が必要だった』という関連性なんです。ところがですね、案外こうした構造に無頓着な人が多い」


 即座に関連性を指摘できなかったリベラルアメリカ人支局長。ここは温和しくしているしかない。


「実はこの『悪魔の飽食』という本には〝細菌とは関係の無い人体実験〟についての描写があるんです。例えば〝生体解剖〟です。生きた人間をただそのまま解剖するだけ。実に猟奇的です。むろん細菌とはなんの関係もありません。こんなものまで日本人の民族としての罪にする著者に果たして真っ当なバランス感覚があるのかどうか」


「著者の人格ヲ否定し本の全部ヲ否定スルやり口に説得力は無イ!」


「そう。どうやったら人を納得させうる言論となるか、問題はそこです。この本には論理的欠陥がある、と指摘するのが効果的だと思われます」


「それハ〝言いガカリ〟ではナイノカ?」


「あなたは『風船爆弾』と『細菌兵器』を結びつけました。この『悪魔の飽食』の続刊のテーマが正にそれです。しかし一冊目の本にはこう書いてあるのです」


 天狗騨はパラパラと頁をめくっていく。


「——『爆弾の中に、ペスト菌で汚染したノミをぎっしり詰め込み投下するというアイデアはよかったが、投下する前に爆撃機が高射砲で撃墜されると友軍の上空で爆発しかねない。……それをさけるために高度を上げすぎると、空気が薄くなりノミが死んでしまう」元隊員の証言である』」読み終わると本を閉じ天狗騨は言った。


「風船爆弾はジェット気流に乗せます。つまり『高度を上げすぎた』状態です。これでは空気が薄くなりノミが死んでしまうというわけです。それに高高度における低温の問題もある。これらをクリアし生きたままノミをアメリカへと運ぶには現在の技術が必要です。軽くかさばらないリチウムイオン電池です。1945年の技術では明らかに実現不能なのに、続刊で風船爆弾と細菌兵器とを結びつけるとは」


「そっ、それハ『風船爆弾で細菌兵器は運べない』と言えるダケノものダ!」


「なるほど、細菌兵器の存在そのものは否定できていない、と言いたいわけですか」


「ソウダ!」


「そこで『M新聞のM記者』に再登場願うことにしましょう」


(M?)


「該当箇所を読み上げましょう」天狗騨はそう言うと件の本をまたもや朗読し始めた。


「——『要するに、ソ連極東軍と戦った場合、関東軍の勝算はあるのか——ソ連通のM記者が突いたのはこの点であった。浅岡ハルピン特務機関長補佐は、表情を改めて次のように答えた。

『ご質問の意図はよくわかる。現在、日本軍の主力は南方戦線において米英と激突を繰り返している……そのような状況の下でソ連極東軍と戦えるかどうかを懸念されておるようだが……わが関東軍の戦略は微動だにしない』

 少々抽象的ではないか——という意見が記者団から出た。すると特務機関長補佐は謎のような答弁をおこなった。

『抽象論を打つ気は毛頭ない……わが関東軍は実際に対ソ戦を勝利に終わらせる裏づけを持っている。かなり前から、対ソ作戦遂行のため新兵器の開発に取り組んできたが、最近ようやく軌道に乗り、畳の上でも満足できる状態となった……残るは質の向上という問題だが、これは早晩解決の見通しがついた』」


 天狗騨がいったん朗読をやめ言った。


「あなたもご存じの通り1945年8月9日、ソビエト連邦は日ソ中立条約を破り日本に攻撃を仕掛けてきました。結果はご存じの通り。戦闘開始直後からまともな戦闘になりませんでした」


「……」


「さて、〝浅岡〟なる日本軍軍人は嘘をついていたのでしょうか? それとも『M新聞のM記者』なる人物の証言の信憑性に問題があるのでしょうか?」


「……」

 厳然とした結果から〝証言〟が揺らいでいくのを感じたリベラルアメリカ人支局長であった。


「これは日米戦争が始まりまだ日本に敗色が無かった頃の話しだと思われます。では戦争末期はどうだったか。その箇所を読み上げます」


「——『この落ちぶれた関東軍が握っていた唯一の〝近代兵器〟は第七三一部隊の各種細菌と毒物であった。一九四五年三月、ふたたび七三一に帰任した石井四郎部隊長は、部隊の非匿名を七三一から二五二〇二と改称した。同年五月、部隊幹部を集め「日ソ開戦は必至の情勢……これより七三一の総力を挙げて、細菌とノミ、ネズミの増産に突入する」という、有名な〝増産訓示〟を行った。実験段階は終わった。あとは細菌戦実施の「Xデー」を目指し、一路増産あるのみと発破をかけたのである。

 すでに七三一は、ペストの乾燥保存——乾燥菌製造技術を開発し、通常ペスト菌の六十倍の毒性を持つ変性菌まで産出していた。ペスト菌霧化技術もかなり進み、陶器爆弾も完成、特別に生存力の強いネズミや、「最も効果的な吸血能力を持つノミ」の一種族が大量繁殖されていた。

「ペスト菌を中心に、井戸水や貯水池に投げ込むチフス菌、コレラ菌、河や牧場を汚染する脾脱疽菌を、向こう二ヶ月間に大量生産せよ、命令が下りてきたのが五月十日のことだった……細菌製造工場だったロ号棟一階勤務の柿沢班は増員され、二十四時間体制で生産に入った……その結果、ペスト菌だけで二十キログラム近く製造したと思う……貯蔵してあるものを含めると、乾燥菌を合わせ百キログラムに達したのではないか」元隊員の証言である。第七三一部隊が終戦直前に「使用OK」として保存した各種細菌は「もし全部を理想的な方法でばらまけば地球上の人類はことごとく死んでしまう(元隊員の話)量に達していた。

 ペスト・ノミの増産目標は「三百キログラム」(約十億匹)と定められた。田中班には四千五百万個のノミ飼育器があり、わずか数日間で一億匹のノミを確保できたという。「しかしすぐに使えるイキのいいノミを十億匹といえば、これは大変なことだ……これだけのノミにペスト菌をまぶして、一斉にソ連軍に放ち、都市にばらまくんだという……これはどえらいことになるなと直感した」元隊員の述懐である』」


 ここまで読んで、そして天狗騨は顔を上げた。

「さて、長々とご静聴ありがとうございました。今朗読した部分のなにが重要かと言って、石井四郎なる軍医は軍医にしておくには惜しいくらいの天才軍人だということです。日本政府がソビエト連邦を仲介とする終戦工作を模索していたことに比べると1945年5月の時点で『ソビエトが日本との条約を破る』と予見できていたというのはただ者ではない。なにせ三ヶ月も前なのですから! ただし、、ですが」


「何ガ言いタイ?」


「これには〝意外な続き〟がある、ということです。では続きを読み上げましょう」


「——N副官が関東軍司令部に出頭してみると、すでに山田乙三関東軍司令官以下各参謀は各地にとび、目ぼしい幹部はいなかったという——」


「待テ! 〝N〟とは誰ダ?」


「〝N〟は〝N〟です」


(〝M〟の次は〝N〟か)と苦虫を噛み潰したようになるリベラルアメリカ人支局長。天狗騨は朗読の続きを始めた。


「『——中国全土からの緊急連絡、陸軍参謀本部からの指示に問い合わせ電報が殺到、関東軍司令部は火事場のような騒ぎになっていた。N副官が命令授受に出頭した旨を告げると、「ソ連の進撃速度は大、関東軍各部隊とも南下し転戦を開始している。七三一においても独断専行してよし」が、関東軍司令部からの命令であったという』」


「やはりナ! 731は独断専行し細菌兵器を使用したノダ!」リベラルアメリカ人支局長が声高く言った。


「そう、思いますよね。用意した新兵器は実戦で使いたくなるというのが人間です」

 暗に(核兵器のことを言われている)としか思えず一転憮然とするリベラルアメリカ人支局長。


「——ところがです、逃げたんです」


「ハ?」


「ですから731部隊は逃げたんです。全員」


 アメリカ合衆国は核兵器という新兵器を開発し実戦で使った。一方日本は新兵器を持っていながら使わなかった。これでは731部隊は悪魔集団どころか人道集団になってしまう理屈にリベラルアメリカ人支局長は当惑するしかなかった。

「ばかナ」口から出たことばはそれのみであった。


「納得がいかないという顔をしているので該当箇所を読み上げましょう」そう言って天狗騨はまたも朗読を開始した。


「——『石井四郎部隊長が七三一に帰ってきたのは八月十日夜であったというが、これも正確なことはわからない。幹部による撤収作戦会議が改めて開かれ、席上、石井部隊長と菊地少将(第一部長)らの意見が鋭く対立した。大激論になったと伝えられている。石井部隊長の撤収案は【1 七三一の秘密保持こそが最大の問題である】【2 そのために、ソ連軍の進撃途上にある、ハイラル、林光、孫呉、牡丹江各支部の七三一隊員にはすでに派遣している西中佐(教育部長)らを通じ証拠隠滅と全員自決を命じている】』」


 頁を繰る天狗騨。


「——『増産につぐ増産を重ねてきた各種細菌のストック、夥しい数のネズミ、数億匹のノミの処分も差し迫った大事であった』」


「——『ソ連軍の進攻速度は急で、ハルピン市内陸軍病院は前線から移送されてきた日本軍負傷兵であふれ返り、駅前広場は避難民でごった返していた。もはや一刻の猶予もならなかった。ロ号棟の各室、廊下に重油がまかれ、火が放たれた。黒煙の中で施設全体をゆるがす大音響とともに、特設監獄の壁が工兵隊の爆破によって崩れ落ちた。八月十一日の夜になると第七三一部隊の内部は混乱の極みに達した。平房からの貨車引き込み線に撤収専用列車が入り、兵員の引き上げが開始されたのである』」


「それデハ結局日本ハ細菌兵器を使わなカッタというコトニなるデハナイカ!」リベラルアメリカ人支局長は怒鳴った。


 しかし天狗騨は落ち着き払ったもの。

「逃げた動機についてもこの本の中に記述があります。読んでみましょう」


 天狗騨が頁を繰る。

「『N副官が七三一に引き返したのは、八月十日正午であった。独断専行、転戦の命令を受け、第七三一部隊上層部はにわかに緊迫した。もしも平房がソ連軍の手に落ちると、三千人以上におよぶ「丸太」生体実験の悪魔の所行が明るみに出、七三一全隊員が戦争犯罪の責を問われる。「もしそんなことになれば後刻全員銃殺は免れない……」帰隊したN副官を囲んで緊急会議が開かれた』」


 天狗騨が本を閉じた。そして口を開く。


「本末転倒、としか言いようがありません」


「ホンマツテントウ?」


「細菌兵器のために生体実験をしていた筈なのに、生体実験を隠すために細菌を戦争に使わないことについてです。もし真実がこの通りなら日本人という民族集団全部に731部隊の罪をかぶせることは不当な行為です」


 まるで『細菌を戦争に使うべきだった』と言っているかのような主張にリベラルアメリカ人支局長は固まった。忖度不能の人間天狗騨は天狗騨節で続けていく。


「準備期間は三ヶ月もあった。満州国が崩壊しソビエト連邦に占領されるという状態では〝爆弾〟という形にする必要すら無い。現に元隊員はこんな〝証言〟をしていたでしょう? 『これだけのノミにペスト菌をまぶして、一斉にソ連軍に放ち、都市にばらまくんだという……これはどえらいことになるなと直感した』と。なぜそうしなかったのでしょうか? 731部隊本拠地の近所にハルピンという都市があるのに」


「……」


「ハルピンにペストが蔓延しソ連兵がバタバタ死んだという事実はあるでしょうか? ハルピンという街そのものがペストの流行で封鎖されたという記録があるでしょうか? 我々は新型コロナウイルスという体験を通して疫病の流行がどれほどのパニックを生むかを知っている筈です」


「……」


「著者は推理小説作家だということですが、ストーリーが完全に破綻しています。731部隊のトップ石井四郎などはファナティックな天才軍人にしてマッドサイエンティストというあまりに強烈なキャラとして描いていたのに、突然自分の命を惜しむ小市民になるとか、キャラ崩壊も甚だしい。『追い詰められた人間が最後になにをするか』、という意味でも人間すら描けていない」


「……」


「実はこの先にさらなるオチがあります。そこを読んでみましょう」またも天狗騨は頁を開いた。


「——『第七三一部隊が潰走し戦争が終わった翌年、一九四六年の六月末から九月末にかけて平房付近全域を猛烈なペストが襲った。義発源、東井子、後二道溝という村ではペストが発生し、百三名の死者を出した。第七三一部隊施設から逃げ出したネズミとノミによるペスト流行である』」



 …………リベラルアメリカ人支局長は『悪魔の飽食』に疲れた。

(ペストの流行が日本軍がいなくなってから十ヶ月後とか……中国東北部の冬は酷寒だと聞く。そんな中ネズミやノミが越冬できるとしたら人間の家の中に潜り込むしかないわけだが、ペスト菌を帯びたネズミやノミと一緒に暮らしてペストを発症するのが十ヶ月後とは……)


(ペストとはなんだったか……確か、げっ歯類、つまりネズミを保菌宿主とし、節足動物、つまりノミによって人へと伝播される。これが腺ペスト。潜伏期間は3日から7日、死亡率は30%から60%——。いったん人に感染すれば咳などによる飛沫感染で今度は人から人へと広がっていく。これが肺ペスト。ペストと言えば〝血を吐く〟というイメージがあるがそれが正にこれだ。潜伏期間は、確か、1日から4日。肺ペストに自然治癒は無く、この現代においてさえも適切な治療を行わなければ死亡率は100%の筈だ……)


 とかくもう擁護の気力が失せたのである。ただ思ったことはこうである。

(書くんならもうちょっとマシなものを書け!)



(マシなもの…………そうだ!)リベラルアメリカ人支局長は閃いた。(マシなものがあるではないか!)


「ちょット待テイ! テングダッ!」


「なんでしょう?」


「トンデモ本は『一次資料』ではナイ!」

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