第九十五話【〝日本の安全保障〟攻勢6  南ベトナムと韓国の扱いの格差 天狗騨記者『保導連盟事件』を問う・編】

 リベラルアメリカ人支局長の口がいよいよ動き始める。リサーチは終わったのだ。


「黙レッ、テングダ! お前は南ベトナムの路上処刑映像ヲ知らナイのダロウ! 南ベトナムに捕らえラレたベトナム人が頭に拳銃ヲつきツケラレ、そしてそのママ撃たレ死んダ! 頭ヲ撃ち抜カレ脳と血しぶきガ飛び一瞬で崩れ落チる1人のベトナム人! これガ路上で行わレタノダ! 私はその映像ヲ撮った者ガそうナルことを予見しフイルムを回しテイタのかマデハ解らない。だが残虐な映像ダ! あれガどれほどノ衝撃をアメリカ社会に与えたコトカ! アメリカが味方をしテイル側は正義なのかドウカ、アメリカ国民に大いナル疑義を抱かせたノダ!」


 それはかなり有名な映像で、かつては日本の公共放送の電波に乗ったこともある。ただ、種々の自主規制が厳しくなった現在ではテレビ放送は難しそうではある——

 天狗騨記者にもその映像についての記憶があった。〝動画の破壊力〟の先駆けのような事件である。しかし天狗騨からしたら動画の有る無しで価値判断が百八十度変わってしまうなどあってはならない事なのである。


(まして現代は動画にすら〝ディープフェイク〟の問題がある。動く映像は物事の判断材料のひとつに過ぎず、それそのものが決定打となり世論を変えるなどあってはならない)


(判断の基準は映像や動画ではない。あくまで真実でなければ!)天狗騨はこれを己の旨に刻んでいるのである。


 しかし天狗騨の内心などどこ吹く風、リベラルアメリカ人支局長は逆襲とばかりに一気呵成に責め立て始めた。


「お前ガ『竹島』がどうトカ言っていたが、眼中にあるノハ日本の領土ダケカ? アメリカ人は何よりモ人権を大事ダト考える! 南ベトナムを疑うノハ当然のコトダ! アメリカ国民が外国の領土ウンヌンで動くト思っタカ! そう言えばミャンマーのクーデター政権ガ自国民を多数殺害してイテモ日本政府の非難ハどこか及び腰ダッタ!」

 突然『ミャンマー』まで飛び出し、リベラルアメリカ人支局長にしては長口上だった。


(またでたのか。アメリカ人の謎の人権マウントが)と天狗騨記者は苦々しく思う。



 2021年2月、当時の東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長が女性蔑視発言をしたとして「会長職から引きずり下ろせ! 奴の首を獲れ!」と欧米メディアが騒いだことがあった。特にアメリカメディアが熱狂した。『女性の人権』を錦の御旗とし、日本は人権後進国として扱われた。

 その事件の顛末はこうである。一度は当人の発言撤回記者会見をもって会長職続投を支持したIOCだったが、ほどなくそのIOCがオリンピック放映権を大枚はたいて買ったアメリカのテレビ局の圧力に屈服し、この会長はその職を辞するところに追い込まれた。


 天狗騨は眉をひそめたものだった。会長の方では無くアメリカメディアの方に、である。


(米軍慰安婦問題でアメリカ攻撃もしないアメリカメディアが相手が日本人だと人権振りかざして女性の味方面か)

 ただ、さすがの天狗騨記者もこの会長を大っぴらに擁護して大暴れ、とまではいかなかったが、攻撃側の胡散臭さは無いことにはできなかったのである。



「ほう、人権ですか」と天狗騨はまず口にした。


「そうダ!」


「まるで同盟国がろくでもない国だから見殺しにしても構わない、と言っているようにしか聞こえません。しかしです、見殺しにしていない国がある以上、説得力は無いですね」天狗騨は言い放った。


「なんダト⁉」


「大韓民国政府が起こした『保導連盟事件』をご存じありませんか? 朝鮮戦争の最中の事件ですが」


 〝『南北ベトナム』には『南北朝鮮』戦術〟で。天狗騨が動き始めた。


「……」リベラルアメリカ人支局長は黙り込んだ。彼はまったくこの点無知だった。


 その点天狗騨記者はこんな調子でもASH新聞記者。韓国についてはアメリカ人よりは確実に詳しい。件の手帳すら開かず空で喋り始めた。


「どうやら人権問題について知らないようなのでご説明しましょう」とわざと慇懃無礼に〝ご説明〟という前口上を述べる天狗騨。

 〝人権〟という錦の御旗を持ち出され、いよいよ沈黙を強いられるリベラルアメリカ人支局長。


「まずは韓国の『保導連盟』、正式名『国民保導連盟』なる組織が、どういう組織であったか、そこから説明を始めましょう——」と組織概要の説明を始める。「——結論から言いますと一部の国民の思想改造のために大韓民国政府が造った組織です。対象となる〝一部の国民〟というのはガチガチの共産主義者や共産主義にシンパシーを感じていた国民達です。韓国版の共産党・南朝鮮労働党から転向した党員、抵抗を続ける党員の家族や、単なる同調者までをも対象者としました」


「——ではこの組織で、どう思想改造が行われるのかというその中身です。『大韓民国絶対支持』『北傀儡政権絶対反対』『共産主義排撃粉砕』『南北労党暴露粉砕』が綱領に掲げられていました。正直思想良心の自由の観点から誉めることのできない組織です」


「——しかし少なくとも設立当初は『懐柔』に重きを置いていたようです。つまり『国民保導連盟に登録すれば共産主義者として処罰しない』、『食糧配給が滞らないようになる』といった具合です。正直今の感覚ではこれもどうかとは思いますが、時代が時代だけに仕方なかった面もあるでしょう」


「——ただし、朝鮮戦争が始まるやいなや、この懐柔のための組織は〝〟という意味に変貌しました。朝鮮戦争の開戦劈頭、弱体韓国軍は敗走に次ぐ敗走を重ねました。その責任から逃れるため韓国政府は『韓国軍が北朝鮮軍に簡単に敗退するのは韓国民の中に北朝鮮と内通するスパイがいるからだ』と喧伝し、組織に登録した韓国人達をスパイと断定、殺害命令を出します。そして韓国軍や韓国警察が忠実なる死刑執行人となりました。これを『保導連盟事件』、韓国では『保導協会員虐殺事件』とも言います」


「——その犠牲者数たるや114万人!」


「バカなッ! 水爆でもつかっタノカ⁉」かろうじてこれだけを口にできたリベラルアメリカ人支局長。


「この事件の遺族会である『全国血虐殺者遺族会』が遺族の申告をもとに報告書を作成したらこうなったとのことですが」


「多すギル!」

 無意識のうちに韓国政府を庇うような発言になっていた。


「虐殺数というものは私がこれまで『フィリピン』や『南京』で言及してきた通り、少ないものから多いものまで様々です。韓国の『保導連盟事件』では20万から120万までの説がありこれだけの幅がある。近年の韓国政府の政府組織『真実・和解のための過去史整理委員会』を率いた歴史学者の見解では犠牲者は少なくとも6万人から11万人で、20万人よりは少ないですね。しかし万単位という桁は変わりません。あの軍事クーデターのミャンマー政府が温和しく見えるほどです」


「——しかし肝心なことは虐殺そのものは、あった、ということです。というのも1990年代末に韓国の全国各地で被害者の遺体が発掘され、実際にあった事件であることが確認されました」


 天狗騨の眼鏡の奥の目がギラリと光ったかに見えた。実際は眼鏡のレンズがLED照明の光を反射しただけだったが。


「確かあなたは、南ベトナムが1人のベトナム人を路上で射殺したことが、ベトナム戦争におけるアメリカの正義を失わせるきっかけになったとか、言っていましたね?」


「……」


「大韓民国という国家は、少ない方をとっても6万人の自国民を殺害しています。しかも殺害命令は朝鮮戦争開戦二日後、1950年6月27日に出されました。朝鮮戦争の最中の自国民大量虐殺。朝鮮戦争で大韓民国の側を〝落ち度の無い一方的な被害者〟とすることは不可能です。そんな国の味方をして戦争をして、こっちの方ではアメリカの正義は一切失わないんですか?」


「……」


「言っておきますが朝鮮戦争では従軍記者、従軍カメラマンはいましたよね? アメリカ軍が朝鮮半島全土に展開していましたよね? 少なくともアメリカ軍増援以降38度線以南は失ってはいない。つまり事件現場は確保されていたということです。この状態の中、韓国政府による万単位の国民虐殺の噂すら聞かないなんてことがあるでしょうか?」


「……」


「百歩譲って戦争中はそういう追求はできないとしても、朝鮮戦争休戦の1953年7月以降、取材を通じそうした事実を明らかにする機会はあった筈です。万単位で人間を虐殺するためには殺す側も万単位の数が必要だ。関係者はかなりいたし取材さえ続けていれば真実にたどり着けた筈だ。それをなぜアメリカメディアはしなかったのです?」


「……」


「報道すれば韓国の立場が国際的に非常にまずくなるからしなかった。しかし南ベトナムの方は国際的にまずくなろうが関係無い、そういう価値観だからじゃあないですか⁉」


 はっきりと天狗騨のことばに怒気が含まれるようになってくる。


「結局アメリカメディアが報道しないか報道するかの問題だ! それでアメリカの同盟国の運命が決まる。それで韓国は生きながらえ南ベトナムは死んだ! なにが『人権を何より大切にする』だ! アメリカメディアの言う『人権』などその場限りの瞬間芸だ!」


 リベラルアメリカ人支局長はたじろいだ。この時点で南ベトナムと天狗騨に対する『人権攻撃』が明らかに頓挫したことが確定していた。上半身が僅かに後ろへと逸れていた。


 天狗騨の顔は正に憤怒の表情。ほぼほぼ不動明王像。とてもこれまでで止まるようにはとても見えない。ASH新聞社会部フロアの人間達は息を呑みもはや誰も天狗騨を制止できなくなっていた。

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