第八十六話【なぜだか突然〝イスラエル・ユダヤ〟攻勢5  〝アンネの日記 毀損事件〟の顛末・編】

「2014年2月に起こった『アンネの日記 毀損事件』をあなたは覚えていますか?」天狗騨記者は問うた。


「それが理不尽な攻撃ダト言うノカ? イスラエル政府やユダヤ人団体の非難ハ当然のコトダ!」即座に反応を示すリベラルアメリカ人支局長。彼はその事件をよく覚えていた。それはあまりに記憶に刻まれる事件だったからだ。



 2014年2月、東京都内各地・複数の図書館で『アンネの日記』及び『ホロコーストに関連する書籍』ばかりが狙われ、ページを切り取られるという奇妙な連続事件が起こった。

 中でも特に『アンネの日記』ばかりが狙われたため『アンネの日記 毀損事件』として知られるようになる。


 『アンネの日記』とは改めて説明する必要の無いくらい有名な本である。だが一応ざっとは触れておく。

 作者はユダヤ人の少女アンネ・フランクである。書いた本人はこれが将来書籍となり世界中にその名を知られる本になるとは夢にも思わなかったろう。タイトルが示すとおり、基本的に日記だからである。むろん〝有名人の日記〟というわけではない。書かれた当時はまぎれもなく一般人の日記でしかなかった。

 ではなぜ一般人の書いた日記がそうした数奇な変遷を辿ったのか? それはその日記が書かれた特殊環境下、そして日記の執筆者が辿った〝その行く末〟にある。

 ナチスのユダヤ人狩りから身を守るため家族らと潜み暮らしたオランダ・アムステルダムでの隠れ家での生活。しかしその生活は無事に終わることはなかった。ナチスに見つけられ連れ出され最後は強制収容所で死亡する。

 こうした悲劇が〝日記〟をただの日記にしておかなかったのである。



 むろんリベラルアメリカ人支局長は『アンネの日記』については了解済みなので、あれこれ本の中身を天狗騨に語らせるようなことはしない。ただイスラエルやユダヤ人の側に立ち攻撃を敢行するのみである。

 リベラルアメリカ人支局長の詰問を受けた天狗騨はまずこう答えた。


「凄い抗議でしたね、もの凄い圧力でした。最初だけは。アメリカのユダヤ人団体は『事件はホロコーストに関する記憶を侮辱する組織的な試みである』と断定し、捜査と実行者の特定を求める声明を発表していました。イスラエル本国からはテロ事件でもないのに公安大臣というまず日本国内ではお目に掛かることなど無いと思われた大臣が、はるばる日本へと出張して来たりしました」


「どうヤラそれが気に食わナイらしいナ」


「私が『』と言ったのを聞き逃してはいませんか?」


(最初しか抗議をしていないだと?)

「ユダヤ人を冒涜するナヨ、テングダ! 最初だけ抗議をして済ますナド、ユダヤ人達は決してシナイ!」


「しました」しかしあっさりと天狗騨がリベラルアメリカ人支局長の言を否定した。


 リベラルアメリカ人支局長はついカッとなった。(反ユダヤ主義にユダヤ人が妥協するなどとは妄言もいいところだ)と感情が稲妻のように心の内を奔った!

 そして吠えた!

「ユダヤ人ガ反ユダヤ主義に対し抗議を途中で放棄するナドあり得ナイ!」


「今のひと言で解りました。あなたはこの事件を〝日本で起こったセンセーショナルな許し難い事件〟としてしか記憶しておらず、その後の不可解な顛末については無知のようです」


「無知ダト⁉」これを挑発と感じ鋭く反応するリベラルアメリカ人支局長!

 しかしその険しい声色を平然と受け流し天狗騨は肯く。

「どうしてイスラエルやユダヤ人団体はあれほど勢いが良かったのに圧力を最後までかけ続けなかったのか? それを問題としています」


(ユダヤ人達に圧力を加えられているのは日本なのに『圧力が足りない、もっとかけろ!』とはどういうことだろう? 日本人は国際的圧力に弱い国民性だろう? あるいはあまりに長時間の論戦に疲れ幻聴でも聞こえたか?)


「『不当な圧力』とか言うツモリは無イと言うノカ?」とリベラルアメリカ人支局長は再度確認のため問うた。


「むしろ『不可解な圧力』です」


「『不可解』ナドではナイ! 正当な圧力ダ!」


「ならばなおのこと圧力を途中で放棄する理由がありません。私は『ハテナ』、といぶかしく考えています」天狗騨は表現を変え同じ意味を繰り返した。


「デタラメは許さんゾ!」


「では、今から私の言うことを知っているかいないのか、自問自答しながら聞いていて下さい」天狗騨はそう言って話しを聞くしかない状況を作り出した。

 リベラルアメリカ人支局長は沈黙し天狗騨は語り出す。


「この事件の犯人は捕まるわけですが、犯人は結局処罰されなかったのはご存じですか?」


「⁉ッ」


 天狗騨記者は語りをやめリベラルアメリカ人支局長は唾を飲み込む。


 ——沈黙が場を支配する。


 再び天狗騨が語り出す。

「事件は結局不起訴で決着です。したがって氏名も不詳のまま釈放されてしまった」抑揚の無い声で言った。


「……」


「どうして、怒らないんですかね?」


「……」


「普通怒るところでしょう。ユダヤ人なら」


「……」


「客観的に見てこの顛末は『事件をウヤムヤに処理した』以外の何物でもない」


 リベラルアメリカ人支局長は棒立ち状態、軽率な発言が天狗騨記者に利用される可能性大と直感し何も口にできぬまま。よって天狗騨の話しが続いていくしかない。


「アメリカのユダヤ人団体は実行者の特定を求める声明を発表していました。ところが容疑者は不起訴、氏名非公表で事件は幕引き。間違ってもこれを『特定した』などとは言わないでしょう。しかしユダヤ人団体の抗議には続きが無かった。これはイスラエル政府も同様です」


「……」


「変じゃないですか? ユダヤ人の方々というのはこういうキャラクターじゃなかった筈です。そこにぬぐい難い不自然さがある」


「〝キャラクター〟とハどういう意味ダッ! ユダヤ人を愚弄しているノカッ⁉」

 天狗騨が明らかに意図を持って使った『キャラクター』という語彙にリベラルアメリカ人支局長が反応した。黙ったままでは押し込まれる一方で、ここは敢えて激しく反応してみせるしか〝手〟がなかったのだ。


「それは或る事件がきっかけです。日本人にとってのユダヤ人団体のイメージは『マルコポーロ事件』なんですよ」


「『マルコ・ポーロ』?」


「ご存じないみたいですね。あぁ、もちろん『東方見聞録』とは何の関係もありません。『マルコポーロ』とは日本の出版社・BGSJ社発行の雑誌の名前です。この雑誌が『ナチ・ガス室は無かった』という特集記事を載せましてね、1995年のことです。それでアメリカの有名なユダヤ人団体が烈火の如く怒り乗り込んできました。むろんイスラエル政府も動いています。日本人の記憶に刻まれたのはその抗議のやり方が〝日本人的やり方〟など足下にも及ばない苛烈なものだったからです」


 『ナチ・ガス室は無かった』と聞いてリベラルアメリカ人支局長にもピンと来た。昔そういう事件が日本であったことを聞いたことがあった。

「当然ダ! 雑誌の名前は忘れてイタガ思い出シタ。廃刊に追い込まれたロウ! ホロコーストを無いコトニするトハ正しくホロコーストの犠牲者に対する冒涜デ、当然の報いを受けたノダ! 苛烈にヤルノガ国際的な常識デ、これに驚くトハいかにも閉鎖的な日本らシイ! 95年の日本はマダマダ国際化が未熟な遅れた国ダッタというコトダ!」


 リベラルアメリカ人支局長は上から目線で散々に日本をこき下ろし罵倒したがどういうわけか天狗騨、ニッコリ笑って話しを繋いでいく。


「その通り。結末は廃刊です。〝日本〟というある種のぬるま湯につかったようなところのある日本人の価値観があの事件によって木っ端微塵に打ち砕かれました。廃刊に追い込むまでが凄まじかった。ユダヤ人団体は雑誌の制作者ではなく〝雑誌の広告主〟の方に圧力をかけたのです。『このまま広告の掲載を続ければ御社は国際的に反ユダヤ主義の企業と見なされることになる』というわけです。企業はきっと震え上がったことでしょう。大手出版社の雑誌に広告を出すような日本の大手企業はその多くがアメリカで商売をしている。そのアメリカでそういう認識を持たれたらどうなるか、というわけです」


「当然ダ」


「そして企業が震え上がった理由は一つではありません。なにしろ件の雑誌『マルコポーロ』に広告を掲載していなくても圧力をかけられたのですから。『BGSJ社発行のありとあらゆる雑誌に広告を載せるべきではない』というわけです。理不尽なことを平然とやって来る相手、これほど怖い相手もいない」


「理不尽ではナイ!」つい反射的反応をリベラルアメリカ人支局長はしてしまった。しかし天狗騨、突っ込むでもなく話しを続けていく。


「これで蒼ざめたのがBGSJ社です。出版社というひとつの企業がひとつの雑誌に載ったひとつの記事で倒産の危機を迎えたのです。直ちに雑誌『マルコポーロ』は出版社自らの手によって廃刊に追い込まれました。ユダヤ人団体は勝利したのです!」


 立て板に水で喋りまくる天狗騨のこの言い様にそこはかとない〝悪意〟を感じたリベラルアメリカ人支局長だったが、確かに事実こういう流れで件の問題雑誌は姿を消したことはファクトである。かろうじて彼の言えたことは、

「それが不当ダト言うノカッ⁉」という開き直りだった。


「〝不当〟などと言いましたか? ただ〝日本人的やり方〟とはあまりにかけ離れていた、と言いたいだけです」


「日本人の価値観が世界に通ジルと思ウナ! そんなモノハ国際社会で通じナイ!」


 しかし天狗騨の顔には笑みが浮かび続けている。

「そうそう、その日本人の価値観です。一般的に〝雑誌〟というものは攻撃的で、しばしば抗議もされる存在です。しかし日本人はまず裁判に訴えます。裁判で雑誌の側が負けても〝廃刊にまで追い込む〟というところまで日本人はやりません。せいぜい掲載誌に訂正・謝罪広告を掲載させて手を打つ程度でとどめるという非常に生ぬるい対応をとる。まして同じ出版社が発行しているというだけで関係無い雑誌の広告掲載までやめさせ、ひとつの出版社を滅亡に追い込もうとは考えません。息の根を止めるまで殺すほどには叩きつぶさないものです」


 『滅亡』『息の根を止める』『殺すほど』『叩きつぶす』、どぎつい日本語のパレードに、日本語が堪能なリベラルアメリカ人支局長が気づかぬ筈がない。


「お前こそユダヤ人に含むところがアル! ユダヤ人団体やイスラエルはあらゆる反ユダヤ主義の存在を許さないノダ! 国際社会の常識をお前ハこの後味わうことにナル!」


 しかしこうまで脅され(?)ても天狗騨の笑みはそのまんま。

 リベラルアメリカ人支局長はここで思い出した。

(そうか、こいつはユダヤ人団体を接触したがっていた! それを忘れて熱くなり俺は何をやっているんだ!)

 にわかにリベラルアメリカ人支局長は天狗騨のその表情が怖くなり、この恫喝はここで止まった。


「日本人にはユダヤ人団体のこうしたイメージが焼き付いているため『逮捕するも不起訴。〝実行者の特定〟をしないまま事件の幕引き』で彼らが怒りを露わにしないのは極めて不自然と感じるんですよ」


「ヌッ!」

 ついさっきリベラルアメリカ人支局長自身が口にした『ユダヤ人団体やイスラエルはあらゆる反ユダヤ主義の存在を許さない』がもう跳ね返ってきた。

 天狗騨の喋りに乗せられ『マルコポーロ事件』におけるユダヤ人団体の行為を全て『当然』と言い切ってしまった後である。しかも生ぬるい対応で済むと考えている日本人を『国際社会の基準を知らない遅れた田舎者』扱いにしてしまった後なのである。

(そのユダヤ人としての苛烈さはどこへ消えたのかと問われている——)


 リベラルアメリカ人支局長はまだ凍ったまま。しかしユダヤ人団体、そしてイスラエルの行動が天狗騨に疑われていることだけは理解できている。


 スイッチの切り替わった天狗騨が喋り始める。もうその顔には笑みは無い。


「——不起訴の理由は『被疑者が犯行当時に心神喪失の状態にあったから』、だそうです。しかし説得力はゼロです。計画的犯行の実行者がその事前の計画通りに犯行を実施したのに、これを〝心神喪失〟と言えるでしょうか?」


「ケイカクテキ、ダト?」


「ええ、図書館で破られた複数の本の集合に何の規則性も無ければ『心神喪失』と言われても腑に落ちるんですがね——」天狗騨はあご髭を触る。「——しかし『ユダヤ人ホロコーストに関する書籍』だけを狙ってページを破るという犯行には明確に規則性があります。偶然ホロコーストに関する書籍ばかりが破かれたなんてことは絶対に起こりません。間違いなく本を選んで破っている。明らかに犯人は事前に計画したとおりに犯行を実行しているんです。これを『心神喪失』で処理できるならあらゆる犯罪を『心神喪失』で不起訴にできることになる。しかし実際そんなことは無いわけです」



 天狗騨は一拍間をとる。


「——つまり、隙は十二分にあった。ユダヤ人団体の方々は抗議を続行することが可能でした」


 ごくり、とまたも唾を飲み込むリベラルアメリカ人支局長。のどがひどく渇いてくる。


「—— 一方でこの事件は大いに世界の耳目を集めました。例えば、オランダ・アムステルダムにある「アンネ・フランクの家」という博物館は「ショックを受けており、詳細な事実を知りたい」とのコメントを出しています。オランダはアンネ・フランクゆかりの地と言えども日本でもイスラエルでもない第三国です。『反ユダヤ主義』というのは欧米社会においてホットイシューとなるということです。もちろんユダヤ人の方々が『温和しく日本の捜査の行方を見守る』という態度に終始していられる筈も無く、厳しい声明を出し、それに加え様々なアクションも起こしました。先ほど触れたアメリカのユダヤ人団体以外にもイスラエル政府はもちろんユダヤ教の宗教団体も動きました。日本へ向けて、およそ300冊ものアンネやホロコーストに関する書籍の寄贈を行いました。そうそう、アンネ・フランク財団も図録とアンネの隠れ家の模型を寄贈してくれたわけです」


 天狗騨は天井を見やる。


「〝寄贈〟というのは贈り物のことです。しかし一日本人としてこれを『嬉しいか?』と問われれば嬉しがるような話しではありません。こうした動きは〝関連ニュース〟として世界中で報じられ、そうしたニュースは確実に日本のイメージを悪化させているからです」


「口にハ気をツケロ! 率直すギルと疑念を招くゾ! テングダ!」


「〝疑念〟ですか。しかし〝日本のイメージ悪化〟云々は私の思い込みではありませんよ。内閣総理大臣、官房長官、文部科学大臣が各々事件について遺憾のコメントを出しています。何かを言わなければ日本の立場がまずくなるから言ったとしか考えられません。テロ事件でもなく人も一人も死んでいないのにここまで神経質な対応をとったのは、明らかに日本が持たれるであろう〝欧米における日本のイメージ〟を意識している」


「お前ニハ政治家の賢明さガ無いようダガナ」


「日本の政治家が果たして本当に賢明かどうかは疑問ですが、私のことについてなら外国人だけでなく身内にも率直ですから、或る程度の賢明さはあると自負しています」


「ミウチ?」


「私の勤める業界、メディア業界です。当時国内メディアは『ネオナチによる犯行』『日本の右傾化が背景』だとかあからさまな予断を持って報じていたのに、犯人が逮捕された途端に報道をピタリやめました。東京地検が『人種差別的な思想に基づくとは認められなかった』とひと言言っただけでもう矛を引っ込めてしまったのです。これで納得はおかしくないですか? 犯人は右翼か、あるいはナチスの信奉者か、とあれだけ報じていたのに素性を確かめもせずに追求を終わらせたのはおかしなことです。これまた不自然な反応と言うほかない」


「……」


「実はこの『アンネの日記 毀損事件』について、国会内で奇妙な質疑応答が行われています。議員が大臣に質問するあの場です。まずは議員の質問から読み上げてみましょう——」そう言って天狗騨は内ポケットからしわしわのA4大の紙片を取り出し朗読を始める。どうやらそれは取材材料のようであった。

「——『いろいろな図書館とか書店とかで「アンネの日記」が破られる、破損されるという事件があって、犯人も、容疑者が逮捕されたというふうな報道になっていますけれども、年齢が三十歳を超えていて、なぜかこの事件は実名報道がないというのが、非常に見ていてどうなのかなというところを思うんですけれども、これは単純に器物破損という問題だけではなくて、やはりユダヤの方々からすれば、非常に、日本は大丈夫なのか、そういう何か動きがあるのかと誤解を受けるところもあると思うんです。実名報道されない理由と、イスラエル政府に対して何らかのアクションを出されたのか、これをお伺いしたいと思います』——」


「——次はこの質問に対する国家公安委員長、即ち担当大臣の答弁です。『この事件につきましては、3月14日に、アンネ・フランクさんに関する図書を損壊したという容疑で被疑者を逮捕させていただきました。今、何で警察が被疑者の氏名を明らかにしていないのかということでございますけれども、今回の事件について、被疑者の刑事責任能力について今慎重な捜査をしておりますので、こういった背景があって実名は公表していないということ、東京都内居住の三十六歳の男性であり、日本国籍であるということは発表させていただいております——』」


 これを読み上げ天狗騨は紙片を折りたたみ内ポケットに戻した。そして顔を上げおもむろに口を開く。


「なにかおかしいとは感じませんか?」


「感じナイガ」


「質問者は『どういうヤツか?』という容疑者の素性を訊いてはいません。実名報道されない理由を聞いているだけなのに、なぜ大臣の方は訊かれてもいない『日本国籍である』という回答をしているのでしょうか?」


「『アンネの日記を破った犯人は外国人に違いない』とイウ風説ヲ流す者ガいたからダロウ!」


「さて、なにが『風説』かは微妙なところですよ」


「お前ハ大臣が国会デ虚偽答弁をシタと言うノカ? これハ驚イタ!」


「アメリカ人はネイティブではないので日本語の微妙なニュアンスは解らないでしょう。なぜ大臣は『ということは——』という表現を用い答弁しなかったのでしょうか?」


「そんなコト解るわけがナイ!」


「『日本人』と『日本国籍を持っている人』は同じ意味であるようで、実は違いがあるということです」


「解ったゾ! 前者ハ〝民族的意味としての日本人〟とイウ意味にナルのダロウ!」


「かなりいいセンを行ってますが、正確には『〝民族的意味としての日本人〟という意味含まれる』ということになります。いわゆる縄文人・弥生人の子孫ということです。そういうものを念頭に置くと〝日本国籍である〟という表現には奇異がある」


「要するニ犯人は『日本国籍を取った元外国人』と言いタイのダロウ! やはりお前ハ極右の排外主義者ではナイカ!」


「担当大臣が訊かれもしないことに答えるからです。こういうのは記者としての性分ですよ。ついことばの裏を読んでしまう」


「ごまかスナッ!」


「あなたが私にどういう感想を持つかは自由でも、『アンネの日記 毀損事件』でユダヤ人団体の方やイスラエルの方が、氏名不詳のまま犯人を釈放したことに怒りも抗議も示さないというこの事実は動かせません。ファクトは認めましょうよ」


「なにガ言いタイ?」


「ユダヤ人団体も、イスラエル政府も、犯人をかばっているようにしか見えないということです」


「なんダトッ!」


「中途半端なところで抗議をやめるからですよ。もし犯人が民族的な意味での日本人でないとしたら、あれほど激しい抗議をピタリやめた説明がつくんです」


「そんなモノハつかナイナ!」


「それはあなたが考えようとしないからです。今でこそイスラエルという国ができたけれども、基本ユダヤ人はどの国でも〝少数民族〟です。しかも国を失い流浪の民となったという彼らの歴史から、どの国においても〝先住民族〟にもなりようがない。そんな彼らは自らの境遇に似た〝先住民族ではない少数民族〟に同情的であると考えられます。そうした少数民族を攻撃したくないという感情が抗議を中途半端で放棄した理由になっているのではないですか。そう考えればユダヤ人団体やイスラエル政府の急な方針転換もストンと腑に落ちる」


「デハその民族の名ハ⁉」


「私は予断でものは言いません。が、しかし、少なくともユダヤ人団体やイスラエル政府が攻撃の矛を収めたところからして『反ユダヤ』『反イスラエル』という思想を持たない犯人だったと言えるのではないですかね」


「それデハ犯行の動機が無いデハナイカ!」


「いいえ。ユダヤ人の方々がひとたび『反ユダヤ主義』と断じた際に加える激しい攻撃は国際的につとに有名です。先ほど指摘した通り『マルコポーロ廃刊事件』で日本国内でもそれは有名です。日本に住み且つ日本を憎む人間なら『ひとつこの力を使い日本を痛めつけてやろう』という考えに取り憑かれても不思議はない」


「日本国籍保有者が日本を憎むダト? あり得ナイ!」


「なるほど、ユダヤ人に対する好意的解釈を放棄するわけですか。だとするともう一方の解釈しか残らないということになります」


「モウ一方?」


「ユダヤ人は『反日本主義者』だった。『ユダヤ人は日本人に〝集団としての罪〟を着せて十二分にその目的を達したから矛を収めた』という解釈です」


「お前ハ今聞き捨テならないことを言ったトイウ自覚はアルカッ⁉」


 天狗騨記者はいとも無造作に口にした。『反日本主義者』と。

 『反日本主義者』、略して『反日』。

 かつてASH新聞を標的としてテロ事件・テロ未遂事件を起こした犯人が流行語にしたことば。普通ASH新聞の記者なら〝肯定的意味〟では使わない。これもまた天狗騨の天狗騨ぶりである。


 天狗騨の表情がにわかに変わった。無表情から一段上の表情へ——

「アメリカ人さん、日本人が怒らないと思ったらそれは大間違いだ。『アンネの日記 毀損事件』は日本人にとって最低最悪の幕引きだったんですよ」


「ユダヤ人が寛大さを見せたノダ!」無自覚にリベラルアメリカ人支局長が思ったことをそのまま口にした。


「私は今から客観的に事実だけを語ります。『アンネの日記 毀損事件』の容疑者は逮捕された。本来ならこの容疑者を法で裁けばそれで片がつきます。しかし検察という日本の公権力が不起訴で済ませたため、日本の公権力が反ユダヤ主義者にしか見えない者をかばったという形になった」


 リベラルアメリカ人支局長は反応ができない。事実それは、改めて言われてみると確かにその通りだったからである。しかしどういうつもりで天狗騨がこれを言っているのかも理解できない。


「——最大の問題は今私が言ったことが全てファクトだということです。日本の政治家が愚かしいのは本来絶対に密室で処理してはいけない案件を密室で処理してしまったことです。またぞろ外国人にいいように言いくるめられたのでしょう。だがこうした〝処理法〟は将来悪意ある者に利用される可能性がある」


「誰ダ? その『悪意ある者』というノハ」


「今その中の一人が目の前にいます。リベラルな思想を持つアメリカ人です」ずけりと天狗騨が言い切った。


「キサマッ!」


「あなた達は日本軍慰安婦問題には激しい追求を行うが米軍慰安婦問題の追及は全く行わない人間達だ。アメリカ各地に建つ慰安婦像や慰安婦の碑文、いずれも日本軍慰安婦問題しか糾弾していませんね。物的証拠がある以上は言い逃れはできませんよ。そして韓国人の元慰安婦のハルモニ達は『アメリカ軍兵士からも被害を受けた』と証言しているんです。『慰安婦がいたのが確実でその慰安婦が悲惨な証言をしている、だから日本は謝らなくてはならない!』とずいぶん〝良心的アメリカ人〟に言われました。こういう人間達は同じ慰安婦問題でも日本人は攻撃するがアメリカ人は攻撃しない。そうした人間が私の目の前にいます」


 ねちねちとことあるごとに慰安婦問題を持ち出すその様はまったく韓国人のようでもある。

 が、天狗騨はまるで意に介さない。彼は韓国人の良いところ(?)を容赦なく取り入れ使うのである。

 一方リベラルアメリカ人支局長は、というと——

(くそっ、疫病神め!)

 なんとこれは韓国人に向けての感情であった。扇動に乗せられ日本軍慰安婦問題だけを糾弾する像や碑文が、米韓国籍問わず韓国人達の運動によってずいぶんと建てられてしまった。こうした物的証拠がある限りこの先天狗騨のような言い分は延々効力を持ち続けるであろうことに苛ついたのだった。

 しかし表面上はリベラルアメリカ人支局長は黙りこくるしかない。


「日本人に対し平然と悪意をぶつけられる人間が実在する以上、ユダヤ陰謀論が種本誕生から12年後に大ブレイクしたようなことが日本人の身にも起こる可能性がある。『日本人は国家ぐるみで〝アンネの日記〟を切り裂いた犯人を隠匿した』と或る日突然日本人を『反ユダヤ主義者』だと断定するキャンペーンが始まる可能性がある」まったくよどみなく天狗騨は言い切った。


 リベラルアメリカ人支局長は硬直したまま。


「日本の政治家達は本当に日本人の運命を守らない。日本人の将来を守らない。外国人の抗議におびえその場さえかわせればそれでいいという考えだ。そうした日本の政治家にも腹が立つ。私はイジメ問題で『イジメられた方にも原因がある』という考え方には感情的には同意できませんが、現実問題、抵抗する意思を示さなければイジメは止まりません。だから私がそれを実践すべく立ち上がっている」


「ユダヤ人達を巻き込んデ何ヲするツモリダ?」


「その通りです。これは巻き込みです。私は『アンネの日記 毀損事件』で『寛大な心を持つユダヤ人に許して貰った』、なんていう形で事件が処理されたことを懸念しているんです。だからユダヤ人の皆さんに『犯人が不起訴となり実名不詳のまま釈放されたのに抗議を続行しないのはなぜですか?』『ホロコースト関連本ばかりを狙っておいて〝心神喪失〟は通じないでしょう?』とことに意味がある。ユダヤ人の皆さんにも日本人と同じこの重い荷物をいっしょに背負ってもらわなくては日本人として将来の安心はできません」


「ふざけるナッ! ユダヤ人は傷つけラレタ被害者ダ!」


「しかしユダヤ人団体が執拗に『犯人不起訴は不当だ』と言ってくれていたら、日本人の中にもそれに賛意を示す動きは確実にあったことでしょう。一国の政府であるイスラエル政府がそれ言うのは難しくてもユダヤ人団体ならその点動きやすい筈です。日本には『検察審査会』という制度があって、たとえ〝不起訴〟で処理されても、強制的に起訴に持ち込むルートがあるんです」


「なぜユダヤ人団体が日本の極右と共同歩調をとらねばナラン⁉」


「言っておきますが、犯人が正真正銘、『民族的な意味でも日本人だった』というオチもあり得ますよ。そういう意味ではたとえ〝日本の極右〟と共同歩調をとろうと、それは一時の連携に過ぎません。それともなんですかね、そんなことをしなくてもユダヤ人は犯人の素性を日本の公権力から教えてもらったから、そんなことを敢えてする必要が無かった、とかですかね」


「そんなモノハ予断を持った憶測ダ!」


「あなたは私の目的を意図的に取り違えていますね。日本という国家そのものが『アンネの日記』を毀損した犯人をかばい守った形で事件は幕を引いたのです。個人の罪が集団の罪になった。ユダヤ人達が抗議を続行しないということは、日本人に集団としての罪を着せたことに満足したからあれほど激しかった攻撃の矛先を引っ込めたとしか解釈できません」


「それはお前の曲解と妄想ダッ! 『ユダヤ人が日本人を憎んでいる』ナドト言うノハ妄想の産物ダ!」


「それはどうでしょうか? 結局ユダヤ人達はナチスの同盟国の日本もナチスとして扱いたいという願望を持っているのでは? 私がこのテーマの話しを始めてから一番最初に『杉原千畝』の件を持ち出したのもそう疑ったからです。『ユダヤ人難民の入国を一切禁止とする』という政府文書が無いのに『政府の方針に逆らってビザを発給した』ことにするのは日本という国家に対し悪意がある証拠ではないですか? 『反ユダヤ主義は許さない!』と言いながら、言ってる本人達が実は『反日本主義』というのは結局ユダヤ人達のためにもならないのではないですか」


「ユダヤ人達は『反ユダヤ主義』を憎んでいるダケダ! 『反日本主義』というノハお前の貼ってるレッテルダ! そうダッ根拠ダ! そこマデ言う以上ハ根拠はあるんダロウナ⁉ 無いでは済まさナイゾ!」


「アメリカのユダヤ人団体は日本の『欅◯46』というアイドルグループのステージ衣装に抗議をしてきたことがありましたね。抗議の理由は『ナチスの制服に似た衣装を着ていたから』でした。そして『〝ユダヤ人の味わった苦難〟についての知識が足りない』と、『無知の愚か者に学習をさせねばならない』ようなことも言っていました。しかし〝衣装がなんとなく似ている〟は『反ユダヤ主義』でしょうか? ナチス的価値観についてあれこれとなにも口に出しては喋っていないのに〝主義〟になるのはおかしいとは考えませんか?」


「ナチスを想起させる衣装ナド、存在そのものが『反ユダヤ主義』なのダ! まだお前達日本人は国際感覚が身にツイテいないようダナ! お前達に必要なのはやはり教育ダ!」


「本物の〝ナチスの制服〟を知らなければ、それに似ているか似ていないかは解らないわけですが、果たして〝ナチス党の制服〟に詳しくなると〝ユダヤ人の苦難〟が理解できるようになるんですかね? ナチスの制服に関する知識など却って逆のヤバい方向に行きそうですよ」


「あんまりふざケタ態度をとってイルト、後で痛い目を見ルゾ! テングダ!」


「なるほど、衣装が似ていたら『反ユダヤ主義』になるんですね」


「ソウダッ! よく覚えてオケ! だがお前ハもう手遅れかもしれないガナ!」


「さて、この場ではいくらでも良心的なことを言えても、アメリカ本国で同じ事が言えますかね?」


「なんダトッ! よッく解ッタ! このことを記事に書いてヤル! 日本の新聞社の中に『反ユダヤ主義』を否定シナイ、記者にあるまじき記者がいるコトヲナ!」


「あなたの話しを聞いていたら私は確信を持って言えるようになりました。ユダヤ人団体はアメリカ国内の『反ユダヤ主義』を憎んでいない。これはファクトです。さて、キャンペーン報道ができますかね?」


 あっさりと天狗騨がリベラルアメリカ人支局長の言ったことを丸ごと否定してしまった。これについカッとなった。

「憎んでイルに決まってイルッ!」と口から飛び出していた。

 しかしそうは言ったものの……しかし直後からなにか途方も無く嫌な予感に包まれるリベラルアメリカ人支局長であった。


(テングダのこの態度はなにか決定的な失言を引き出し……)


 相手が無抵抗の象徴とも言える日本人となると暴走が止まらなくなるのもアメリカ人の、中でも特にリベラル系アメリカ人の特徴である。しかし今さらそう思ってもどうも暴走した後のようでもあった。


(俺はなにかとてつもない自爆するようなことを口にしてしまったろうか……)彼のさっきまでの勢いはみるみる間に雲散霧消していた。

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