第八十二話【なぜだか突然〝イスラエル・ユダヤ〟攻勢1  〝ユダヤ陰謀論〟・編】

「それはいい」天狗騨記者は言った。


「ナニ?」「なんだって⁉」リベラルアメリカ人支局長と左沢政治部長両名の声がかぶる。


「私は前からイスラエル、あるいはユダヤ人団体の方に取材をしたかったんですよ」


 リベラルアメリカ人支局長は改めてその顔を、身体全体を、目を凝らして見る。天狗騨のどこにも動揺は見えない。


「おい、よせ天狗騨!」左沢政治部長が天狗騨の腕を引っ張る。天狗騨記者が〝取材〟を言う時、それはほとんど〝トラブルを起こしに行く〟と同義なのである。リベラルアメリカ人支局長をこの場に呼び寄せこの状況を造ってしまった張本人としては状況のさらなる進行など悪夢でしかない。


 ところがリベラルアメリカ人支局長の方も心の内の動揺を無いことにはできなかった。勢いよく啖呵を切ってみせたものの不吉な予感がにわかに湧き上がる。だが別の感情は(これでヤツは〝反ユダヤ主義者〟だと確定したのだ。押せ!)と彼を焚きつけた。だから思わず、彼は声に出して喋ってしまった。


「イスラエルに〝〟を直接ぶつけるトハ! それが己の身に何ヲもたらすカ知ランようダナ!」と。


 〝ユダヤ陰謀論〟。

 天狗騨記者は何一つそのことばを口にしなかったが、一方的にそう決めつけられてしまった。それは極めて刺激的な決めつけだった。


「『ジェニン』を少し語っただけで即陰謀論者ですか」、と天狗騨は応じた。


 今一度確認しておこう。アメリカ合衆国においては社会的地位が高い者ほど『反ユダヤ主義者』というレッテルを怖れる。貼られたら最後、待っているのは社会的抹殺だからである。リベラルアメリカ人支局長は(日本社会もそうあるべき)と心底から考えている。

 故にいよいよ天狗騨を許すわけにはいかない———そう心底から考えている。


「お前の考えナド相手は都合良くは受けとらナイ! 相手がドウ考えルカ、そこダケガ問題ダ!」


「ここはハッキリ指摘しなければなりませんが、我々は〝日本の過去の歴史〟について議論をしていました。それを突然〝〟とは。あまりに話しを横へ逸らしすぎじゃないですか?」


 天狗騨はそう言ったが、〝ユダヤ陰謀論〟は相手(即ち天狗騨)の口をふさぐための悪魔化ワードである。ネームコーリングでありレッテル貼りなのだ。当然故意に仕掛けている。


「ハハッ! 今サラ口を滑らせたコトヲ悔いテモ遅イ! この場にイル全員がお前の決定的失言の証人ダ!」


「別に失言だとは思っていませんよ。外国人ジャーナリストがいた南京で、当時そうしたキャンペーン報道も無いのに大虐殺があったことになっている。その一方で外国人ジャーナリストや国連関係者を遂に立ち入らせなかったジェニンで虐殺が無いことになっている。これはおかしいと、私は何度でも言えますよ」天狗騨は一歩も引かない。


「『南京大虐殺』と『ジェニン』を並列シ語っているノガ問題ナノダ!」


 ここにはリベラルアメリカ人として絶対に譲れない線があった。

 これまでアメリカンリベラル勢力は散々『ナチス=日本』として激しい非難を日本に加えてきた。天狗騨が暴れ回り一人のアメリカ人を圧倒しようと、彼らアメリカンリベラル勢力の中では『南京大虐殺』はあったことが確定している。現に『南京大虐殺本』がアメリカンメディアで絶賛されベストセラーになった過去は、まぎれもなくあるのだ。

 そんな中で『南京大虐殺』と『ジェニン』を比較の対象にされてしまった日には『ナチス=日本=イスラエル』となり故に『ナチス=イスラエル』という構図に落とし込まれてしまう。


(こともあろうにナチスとイスラエルをイコールで結ぶとは!)


 しかし実際のところ、天狗騨はあくまで『南京大虐殺』は眉唾物、という価値観を持っているため『ナチス≠日本』となり、故に『ナチス≠イスラエル』となるのであるが。


 とは言えそれはそれでリベラルアメリカ人としては実は目出度くない。これを認めてしまえばこれまで散々吹聴してきた『ナチス=日本』が誤った歴史観であることを自ら認めることになる。

 『ナチスの仲間の日本は虐殺をしていなくてはならない』、でないと〝虐殺無きナチス〟になる。そんなものはナチスではない。


(日本人にユダヤ人やイスラエルを人質に取られた!)これはまったくあり得べからずのとんでもないことだったのだ。


 しかし天狗騨記者はそんなリベラルアメリカ人支局長の内心などどこまで読めているのか、当然そんなものはどこ吹く風。


「あなたの言うことに屈服すれば『チベット』や『ウイグル』を持ち出しても同じく〝陰謀論者〟ということになってしまいます。それこそ中華人民共和国の思うつぼ。私は『日本軍慰安婦問題』は追求するが『米軍慰安婦問題』は追求しない卑劣極まりない人種差別主義者ではありません。誰に対しても同じ論理を主張する。中国には言うがイスラエルには言わないという卑怯者ではありません」天狗騨は自らの行動原理を堂々明示してみせた。


 ASH新聞社員は一般的に中華人民共和国に甘いのが普通なのだが、やはり天狗騨は忖度不能の人間である。


「黙レッ! なぜいつもお前ガいつの間にカ正義面をしテイル⁉ ジェニンでは虐殺の証拠は無イ! それを『ある』ことにスルお前は紛うこと無き〝ユダヤ陰謀論〟者ダ!」


「ではチベット人やウイグル人相手にも『虐殺の証拠は無い』、と言えますか? 外国人ジャーナリストを立ち入れさせないのですからこうした場合『証拠は無い』のは当たり前で、『証拠は無い』はなんらの切り札にもなりません」


「黙レ! お前の弁明に世界は肯かナイ! この〝ユダヤ陰謀論〟者メ!」


「黙れ、黙れと二度も口にして、その上あなたはさっきから何回〝ユダヤ陰謀論〟を連呼しているんです? 〝ユダヤ陰謀論〟の中身をすり替えないでもらいたいものです」


「その中身とはナンダ?」


「最初に〝ユダヤ陰謀論〟を口にしたあなたには説明の意思無しですか?」


「お前ガ中身を知っているかのように口走ったノダ! 言ったからニハ説明する義務がアル! 説明責任ダ!」


 ここで天狗騨に一つのひらめきが走った。スイッチが入った。

 天狗騨が無表情のまま口を動かし始めた。


「『』というのがその中身です」

 いとも無造作に〝〟を口にしてしまった。


「あっ、おっおまエ、お前、」リベラルアメリカ人支局長のことばが論理を結ばない。


「あなたが〝答えろ〟と言うから答えただけです。〝日本の過去〟についての話しがネタ切れならそろそろお開きの頃合いでは?」


「待テ! 逃げルナ! お前はその邪悪な価値観に対する評価をしてイナイ! むろん100パーセント否定するんダロウナ⁉」


 天狗騨は自身の髭を触り少しだけ考える風を装う。


「残念ながら100パーセントは無理ですね」


 まったくとんでもない答えを天狗騨は口にした! むろん彼の中には何らかの計算がある。


「気でも狂ったか⁉」左沢政治部長が悲鳴のような声を上げた。


「元々まともだとは思ってなかったんじゃないですか?」と左沢を見て応ずる天狗騨。


「横槍を入れルナッ!」リベラルアメリカ人支局長が左沢政治部長を怒鳴りつけた。そしてすぐに天狗騨に向き直り「もうお前の記者生命は終わってるんダヨ!」と矢のようにことばを解き放った。


 しかし天狗騨、全くそれに動揺も見せずまたも口を開き始める、


「『が国際金融と主要メディアを支配し世界を裏から操っている。その究極の目的は世界支配、そして世界大衆の奴隷化である』と言ったなら、どうなります?」


 そう、いとも無造作に口にした。そしてさらに————


「——貧しい人々の方が富裕層より数が多いのですからたちまちのうちに『その通りだ!』と、こちらの意見が多数派になるのは確実です」


 音も無い衝撃波を受けるリベラルアメリカ人支局長。天狗騨の喋りはなお続く。


「経済のグローバル化に伴い、豊かなはずの先進国でも中産階級が崩壊を始め貧困層が拡大中です。むろんこの日本も例外ではありません。こうなるように改革をした者・仕向けた者に対する怒りが高まってくるのは自然の流れです」


(コイツは真性の危険人物だ! 歴史修正主義どころの話しではない。『ユダヤ人』という固有名詞を『富裕層』という一般名詞に取り替えただけで陰謀論が一転、正論のようになってしまう!)


「姑息な手段を使うナ! お前の口にしたコトハ小手先の表現を変えたダケデ中身は変わってイナイ! ことば巧みに『ユダヤ人』という表現を避けヨウト、やはり〝ユダヤ陰謀論〟者ダ!」


「反論としてはかなりイマイチですね。『〝全てのユダヤ人=富裕層〟ではない』と反論すればユダヤ人を守れるものを。そういう反論をしないということは、とどのつまりあなたは富裕層の代弁者に過ぎないということです。貧しい大衆の味方をしないということはあなたは正義ではない」


「違ウッ!」


 しかし天狗騨の言ったことが真実であった。ロシアからイスラエルへと移民し、イスラエル共和国の国策で入植者になっているユダヤ人達は間違っても富裕層ではない。


(危険だ! 同じユダヤ人を富裕層と貧しい者に二分し分断し対立させようとするとは! コイツは共産主義者だ!)


 その天狗騨はまさか自分が〝共産主義者〟にされているなど露ほども思っていない。

「違うと言いますが違いません。あなたの言う『ユダヤ陰謀論』とは反論を封じることを目的としたワン・フレーズ・ジャーナリズムです」などと堂々断定してみせた。


「違ウッ! お前の言うコトハ『富裕層』ということばを使ったユダヤ人差別ダ!」


 なんと、驚くべきことに『富裕層を非難することは許さぬ』という価値観を公然とリベラルアメリカ人支局長の口が語り始めた。しかしこれはある意味当然で、万が一アメリカの大衆が富裕層を憎悪し始めたらアメリカ合衆国という国家は崩壊を始める。これが格差社会の恐怖である。


 しかしその一方で天狗騨も天狗騨で、それを真正面から受けて立った。


「なるほど、富裕層であってもユダヤ人というだけで非難してはならないというのがあなた方リベラルアメリカ人の価値観ですか。しかし富裕しているからこそ世界に影響を与えるという考え方は抹殺できるものではありませんよ。もちろん富裕層が与える影響が〝良い影響だけ〟であるはずがありません。これは紛れもない事実ですから」


「『ユダヤ陰謀論』を事実と言ったナッ!」リベラルアメリカ人支局長はかなり強引に言い切った。

 〝格差〟の問題と絡められてはたちまちのうちに正邪が逆転してしまう。ネーム・コーリングと言われようとレッテル貼りと言われようとこの場は論敵の悪魔化以外に方法が無かった。もはやこれが、基本、ジャーナリズムの禁じ手であることなど忘却の彼方となっていた。


「あなたは先ほどからただ『ユダヤ陰謀論』という単語を連呼しているだけで、深く掘り下げ考えてなどいない。その手法は典型的な〝ネーム・コーリング〟だ」と案の定天狗騨に言われてしまう。リベラルアメリカ人支局長としては予想通りの反撃を受けた形である。

 ところが天狗騨は次に遙か想像外のことを口走り始めた。

「——です。分析を出来ない者が分析をした者より優位意識を持っているとはちゃんちゃらおかしい。『陰謀論!』と唱えるだけで人を黙らせられると思ったら大間違いです。もうそんな時代じゃあないんですよ」


「なニ?」

(普通、レッテルを貼られたら大慌てで発言を取り消すもんだろう?)


 まったく〝普通〟が通じない天狗騨記者である。彼は〝普通〟という感覚を持ち合わせていないかのようであった。


「あなたは驚くかもしれないでしょうが——」と天狗騨は前置きし、

「——先ほど私が言った前段部分、『ユダヤ人が国際金融と主要メディアを支配し世界を裏から操っている』という部分については、見る人から見ればそれは一面真実だったということです」


「てんぐだーっ‼」左沢政治部長が絶叫した。これで天狗騨が首になるだとかそういう感覚すら吹っ飛んでいた。〝お前は社を窮地に追い込む気か⁉〟という意味がこのことばに籠もっている。ここまで公然と〝ユダヤ陰謀論〟を口に出すバカもいない。そう考えるのが常識というものだった。しかし、忖度不能の人間、天狗騨には〝常識〟は通じない。



 『ジェニン』を少し語っただけで陰謀論者確定。

 天狗騨記者はリベラルアメリカ人支局長のレッテル貼り攻撃は延々続くと覚悟を決め、正面突破で蹴散らすという、傍目からは無謀極まりない道を選択したのである。

 しかしテーマがテーマだけに諸刃の剣になりかねない。言動が正に天狗騨だとしか言い様がなかった。

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