第七十四話【〝南京大虐殺〟攻勢3  南京郊外・編】

 それまで〝史実〟として〝日本軍による中国人30万人虐殺〟が確定しているかに見えた『南京大虐殺』であるが、『20万人しかいないのに30万人殺せるわけがない!』という指摘は大激震を呼び起こしていた。


 この超級の衝撃に『南京大虐殺派』は二つに分派した。要はどうこの矛盾に上手く説明をつけるかという方法論の違いである。


 〔1の方法〕

 リベラルアメリカ人支局長が一度は口にした、

 『それはあくマデ『30万人の虐殺は不可能』という証明に過ぎズ、それ以下の数、3万人とか、3千人といった数までを否定できる論理ではナイ!』というものである。

 例えば『4万人くらいは虐殺された』といった、虐殺数を値切る方法である。


 ただこれでは『30万人虐殺は間違いだった』と自ら認めることになる。『30万は絶対に譲れない!』という勢力には納得しかねる方法である。


 〔2の方法〕

 そこでもう一つの方法である。

 『南京安全地帯国際委員会』が数えたのはあくまで〝安全区〟の中にいる中国人の数でしかなく、安全区の外に欧米人がその人数を数えられなかった中国人が多数いたなら『20万人しかいないのに30万人殺せるわけがない!』という主張は成り立たない、とするのである。

 この方法だと『30万人虐殺』を、やや強引であるものの、引っ込めないで済む。



 ちなみに〔2の方法〕を採る者の中に〔1の方法〕について『唱えること自体が許せない』という考えの者がいる一方で、〔1の方法〕を採る者は〔2の方法〕について、逆に『好ましい』と考える傾向が強い。

 それもその筈で『南京安全地帯国際委員会』の目の届かないところで虐殺が行われたといっても、〝郊外〟という南京の近所で30万人が殺され続けているのに日々全く気づかないというのは不自然すぎる。

 しかし30万人より少ない数、例えば4万くらいなら気づかなくても不自然は無いと、よりもっともらしく説明をつけることができるのである。


 このように『20万人しかいないのに30万人殺せるわけがない!』という右翼・右派勢力の指摘は『南京大虐殺』肯定派に大地殻変動をもたらしているのである。



 リベラルアメリカ人支局長は〔2の方法〕を選択した。それ故の、

 「『南京市内で4万2千人、南京郊外で30万人の民間人が虐殺された』と言うノハ、非常に重要な指摘ではナイカ?」だったのだ。むろんこの際不自然な〝南京市内で4万2千人〟は無視した。


「『南京郊外で30万人の民間人が虐殺された』のナラ、南京市内でダケ中国人の人数を数える行為にはナンの意味も無イ!」リベラルアメリカ人支局長は大いに断言した!


 言われた天狗騨記者は憮然とした顔をしたまま、

「では郊外にいるその30万人は、なぜそこにいたのでしょうか? 自分の意思か、それともから連れてこられたのか?」と訊いた。


「別の所カラニ決まってイル! 、そこで殺されたニ決まっテイル!」


「〝別の所〟ってどこです?」


「南京からダ!」


「すると南京市内にいた50万人のうち30万人が日本軍によって外に連れ出され、市内に20万人が残ったということですか? ずいぶん人口が減りましたね」天狗騨は言った。


 〝20万人〟というのは『南京安全地帯国際委員会』の面々が言った『南京の安全区内にいる中国人の数』である。

 これに殺されたとされる〝30万〟を足すと当然元の人数は〝50万人〟となる。


 天狗騨の指摘に社会部フロアから失笑が漏れた。リベラルアメリカ人支局長が目を剥いた。


「ダマレッ! お前達の代わりニ戦ってイルのダゾッ!」


 その剣幕に社会部フロアが一瞬で静まりかえった。しかし一応天狗騨記者もASH新聞の記者なのであるが——


 その〝戦いの相手〟である天狗騨は言った。

「あなたの言っていることがおかしいからでしょう? それとも〝なぜおかしいか〟、その説明が必要ですか?」と。


 リベラルアメリカ人支局長はそのもの言いに激高した。

「ナラ言ってミロ!」と売り言葉に買い言葉。

 天狗騨は、というと、率直にその希望に応えてみせた。


「大量虐殺をしたと云われている日本軍の視点で考えるのです。虐殺を完遂するにはどうあるべきかという仮説を立て考えてみます。南京には面倒な外国人達がいる。彼らに異常事態が起こっていることを〝どう気づかせないか〟です。『南京安全地帯国際委員会』の面々に気づかれてしまうようなストーリーではあなたのような主張は論理的に破綻です」

 天狗騨は〝ストーリー〟という挑発的な語彙を使い応酬した。なんやかんやいって天狗騨も腹を立てているのである。現にイライラして全てを説明はしなかった。〝それくらい察しろ〟というわけである。


 リベラルアメリカ人支局長は押し黙る。

 ついさっき天狗騨が口にした『ずいぶん人口が減りましたね』という嫌味は、ただの嫌味ではないことをリベラルアメリカ人支局長は悟っていた。

 当然その意味は〝それくらい減れば気づくだろう〟である。気づいたなら『南京安全地帯国際委員会』の面々は日本大使館に対し『49件の殺人』などと、こんな温い抗議では済ませなかっただろうという指摘である。


 だが、リベラルアメリカ人支局長は屈服しない。

「違ウッ! 南京郊外の30万人は日本軍に連れて来ラレタのではナク、ノダ!」と瞬く間に主張を変転させてしまった。もはやネット掲示板レベルのバトル並である。

 しかし確かにこれなら南京市内で急激な人口減が起こっても異常事態とは映らない。『南京安全地帯国際委員会』の面々が〝事件〟に気づかない合理的な理由と言えた。


 だが天狗騨は詰まりもせず別のことを口にする。

「その30万、どのような建物に避難していたのでしょう?」


 !っ


 リベラルアメリカ人支局長の方が詰まった——彼には思考時間が必要となった。


「近頃日本では記録的豪雨が予想されると地方自治体が『30万人に避難勧告』だとか、そういう広報をしていますが避難先はどこでしょう? そんな数を収容できる施設は無く、まず実行不能な勧告です。だから避難など行われません。それを思い出しましたよ」滑らかに天狗騨の口が動く。リベラルアメリカ人支局長は明らかに天狗騨に舐められていた。


 ——しかし詰まったくらいでは天狗騨に容赦が無いのはこれまで通り。さらに追撃戦は続けられる。


「日本軍の南京占領は12月、冬です。南京は北京よりは南ですが亜熱帯というわけではありません。野宿すれば日本軍に殺される以前に凍死の可能性がありますね」


 ぐいーっと押し込まれ続けるリベラルアメリカ人支局長。しかし彼はこの時点になって反論法を思いついた!

「難民はまともナ家に住んでイナイ!」


「つまり野宿だと?」


「ソウダ! 戦争難民は着の身着のママ逃げるノダ!」

 〝南京市民は日本軍接近で戦争難民と化した〟という仮説で応酬したのである。避難先に建物など無くても避難は起こると、そう言ったのである。


 一見それはもっともらしかった。しかしそれは大慌てで出した〝答え〟であり、しょせん〝思いつき〟。思いついた瞬間は名案だと思っても後からよくよく考えてみるとろくでもない案だったりするのはよくあることである。彼には思いついた案について再度の考察を加える熟考の時間が無かった。


 天狗騨はそのもの言いにこういう反応で返した。

「難民とは戦地から逃れるために難民になるのであって戦地にとどまる難民などいません。日本軍は南京を目指しているんです。南京の近所で難民をしていても命が危ないだけじゃあないですか」


 これであっという間のリベラルアメリカ人支局長の〝詰み〟かと思われた。しかし「参りました」と言わない限り負けていても〝詰み〟にならない、とも言えた。彼はまだまだ続けるつもりのようであった。


「『南京安全地帯国際委員会』の委員長ジョン・ラーベは、日本の南京占領から一ヶ月後の人口が『25万から30万ほどになった』と言ったナ?」


「言いましたが」


「最初は20万だっタと言ってイタのだカラ、5万から10万ほど人口が増加しているのダト、テングダ、お前は確かに言ったナ?」


「それも言いましたが」


 ハハッとリベラルアメリカ人支局長が嗤う。

「これハ南京郊外に5万人から10万人の難民がいた事ヲ示した証言でもアル! ファクトの前に屁理屈は吹っ飛ブ!」


 リベラルアメリカ人支局長としては〝逆王手〟の気分である。

 しかし天狗騨の表情はそのまんま。


「『南京大虐殺』は日本軍の南京占領後から約二ヶ月にわたり断続的に続いたと云われています」


「〝云われている〟んジャナイ! それが歴史的ファクトというものだッ!」


「だとすると虐殺が始まって約一ヶ月の中間地点で、5万人から10万人の中国人難民が虐殺現場である南京郊外にいながら殺されもせず南京市内に戻ったことになります」


「……」

 リベラルアメリカ人支局長にはまたも思考時間が必要となった。




「南京市の外、全周囲が全て虐殺現場ではナイ! それら5万から10万はたまたま虐殺場所にいなカッタ中国人と考えるべきダロウ!」

 リベラルアメリカ人支局長の思いついた反論は、かなり強引な説明だった。しかし天狗騨、そこには言及せず次を続ける。


「南京に戻るとき、虐殺現場近くを通るとは考えませんか? 現場を見てしまったら『帰ろう』ではなく逆に逃げ出すと考えられますが」


「虐殺現場デナイところを通ったノダ!」


「なにを言っているんです? その5万人から10万人の中国人は日本軍が連れ戻してきたわけじゃないですよ。各地に散っていた人々がめいめいに南京に戻ってきたのです。〝虐殺現場〟というものがあるのならその近所を通った中国人難民達もいる筈じゃあないですか?」


「ニッ、日本軍が見つからぬヨウ現場を厳重に封鎖したノダ!」


「しかし30万人が虐殺されたという現場です。始まって一ヶ月の中間点だから単純に2で割ってもこの時点で15万人の虐殺。これでも相当面積の広い〝現場〟になりますよ。封鎖仕切れますか?」


「……」


「しかもです、始まって一ヶ月の中間点ということはこの時点でも南京郊外では現在進行形で虐殺が続いていたということになります。中国国民党軍もいなくなってしまった南京の郊外で断続的に鳴り響く日本軍の発砲音を聞いていながら、避難していた中国人達が南京市内に戻ってきたというのはあまりに不自然ではありませんか?」


「……」


 リベラルアメリカ人支局長には〝敵〟を言いくるめられる上手い反論を、遂に思いつかなくなった。


 『南京安全地帯国際委員会』の面々は日本大使館宛に『万単位の中国人虐殺があった』とは告発していない。『南京の安全区内には20万人の中国人がいる』という文言だけは、ある。

 この証言がリベラルアメリカ人支局長のような『南京大虐殺』肯定派には徹底的に邪魔だった。

(この証言さえ潰せれば……)

 もはやこれはミステリー小説における『事件の解決を妨げる不都合な証言』と化していた。彼は〔当然これは殺人トリックがあった筈であり、これををどう崩すか〕といった類いの思考の虜になっていた。


 リベラルアメリカ人支局長は時間がふんだんには用意はされていないさなか、またも考えに考え、考え続けた。


(『南京安全地帯国際委員会』の面々は個人の資格で欧米世界相手には『万単位の虐殺があった』と告発をしている。一方で日本大使館に対しては同様の告発をしない。

 『こんな連中の言うことをお前は信用するのかテングダ!』と言って『南京安全地帯国際委員会』の〝20万人の中国人が南京にいた〟という証言の信憑性を問うて良いか?)


(いや、それだと連中の『日本軍による中国人の万単位の虐殺』も同時に信憑性の無い〝告発〟になってしまう……)


(つまりこれはどういうことだ?)

 リベラルアメリカ人支局長は必死に考え続ける。

(犯罪者というのは必ずボロを出すもの……なにか……)


 〝『南京安全地帯国際委員会』の面々に気づかれてしまうようなストーリー〟ふいに天狗騨のことばが彼の頭の中によみがえってきた。


(そうか! 〝ストーリー〟ということばにはなにか引っかかった。 『このトリックが解けるものか』という稚拙な恫喝がつい口をついて出たのだ! つまりテングダは無意識に核心部分に自ら触れていた! ヤツのミスだ! 南京市内にいる『南京安全地帯国際委員会』の面々に気づかれないでどう30万人の中国人を虐殺できるか? ヤツはヒントを口走ったのだ。このトリックを解くこと。これに尽きる!)


 そしてリベラルアメリカ人支局長は突如思い出したのである。かつて観たことのある中国の〝三国志〟を題材とした映画を。

 そして彼は言った。

「南京は城壁都市ダ!」と。


「はい?」


 


「中国の都市は街全体が城壁にヨッテぐるりと囲まれテイル! よって中からは壁がブラインドになって外の様子が解らナイ!」


「知ってますよそれくらい」


「ならテングダ、お前は悪質ダ! 知っていナガラ今まで素知らヌ顔をしてイタのだカラナ! 私が知らなケレバ危うくスルーされる所ダッタ!」


 天狗騨としてはまったくのチンプンカンプン。

 天狗騨が訊いたのは、『南京大虐殺』で殺されたと云われる中国人達のである。


 だが、リベラルアメリカ人支局長ときたら最初は、

 『、そこで殺されたニ決まっテイル!』(南京市内在住説)と言っておきながら次の瞬間には、

 『違ウッ! 南京郊外の30万人は日本軍に連れて来ラレタのではナク、ノダ!』(南京郊外自主避難説)と変更して言っていた。

 そこで天狗騨は後者がいかに不合理で人間の行動原理としてあり得ないものかをこれでもかと説明したのだが————いつの間にか否定された筈の前者(南京在住説)が復活しているようだった。

 

 即ち『日本軍によって万単位の中国人が南京市内から連れ出され、南京郊外で虐殺された』————


 だがこれがいかに〝決定的な失策〟かについて、リベラルアメリカ人支局長はまるで気づいていないようだった。

(なぜ投了しない?)天狗騨は疲労困憊の表情で、得意げになっているリベラルアメリカ人支局長の顔を虚無感に襲われながらただ薄ぼんやりと見続けている。


 確かにミステリー小説のようになっていた。

 しかし鉄壁のトリックを巡っての〝探偵VS犯人〟の火花散る攻防というよりは、探偵を引き立て名探偵ぶりを強調するために登場する迷警部がひとり突っかかっていくシーンのようになっていた。

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