第二十八話【米軍慰安婦問題  アメリカ合衆国下院は『慰安婦対米非難決議』を採択せよ!】

 天狗騨記者は懐からあの手帳を再び取り出し、さらにその手帳の中で八つ折り程度になっていたA4大の紙片を取り出し開く。紙片は二枚重ねになっていて、ずいぶんと年期が入っているようだった。そして朗々と朗読を始めたのだった。


「第二次世界大戦終戦後一九四〇年代半ば以降、朝鮮半島及びアジア地域におけるアメリカ軍駐留の期間、アメリカ政府が公式に、その軍隊に対する性的強制労働を唯一の目的として若い女性の獲得を委託し、これらの人々は種々の公文書、歴史的資料から「第五種補給品」あるいは「基地村女性」として世界に知られるようになったのである。


 アメリカ政府による強制的な軍の売春である「慰安婦」制度は、二十世紀における最大の人身取引事件の一つであり、身体損傷や死、自殺をもたらした集団強姦、強制中絶、屈辱、性的暴力など、その残酷さと規模において、生存する韓国人元米軍慰安婦のあまたの証言から未曽有のものとみなされる。

 しかしアメリカの学校で使用される全ての教科書は、「慰安婦」の悲劇や第二次世界大戦以降のアジア地域におけるアメリカの戦争犯罪を軽視しようとしており、アメリカの官民の関係者は、彼女たちの苦難に対して〝政府の真剣な謝罪と反省を表明した一九九三年の日本における内閣官房長官の「慰安婦」に関する声明〟の如きものすらも一切表明することもなく、最初から無効にしようとする願望を示している。


 アメリカ政府は、一九二一年の「婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約」、武力紛争が女性に与える特別の影響を認識した二〇〇〇年の「女性と平和・安全保障に関する国連安全保障理事会決議一三二五」が現す価値観を支持しているのであり、我々ASH新聞は、人間の安全保障、人権、民主主義的価値および法の支配を促進するアメリカの努力を賞賛する。

 日米同盟はアジア・太平洋地域における日本の安全保障利益の礎であり、地域の安定と繁栄の基礎であり、冷戦後の戦略環境における変化にもかかわらず、日米同盟は、アジア・太平洋地域において、政治・経済的な自由の保持と促進、人権と民主的制度への支援、両国民と国際社会の繁栄の確保をはじめとした、共通の死活的に重要な利益と価値に立脚し続けている。


 ASH新聞は一九九五年の日本における民間の「アジア女性基金」の設立に結びついた日本の官民の関係者の懸命の努力と思いやりを改めてここに高く評価する。

 日本政府が主導し、資金の大部分を政府が提供した民間基金である「アジア女性基金」の任務は二〇〇七年三月三十一日に終了し基金は解散した。

 だがこれは、日本軍慰安婦についての基金であり、米軍慰安婦についての基金は未だ存在していない。

 このため、我々ASH新聞は、以下が〝議会の意思である〟と、アメリカ合衆国連邦議会下院に決議することを求める。


 アメリカ合衆国政府は、

 (1)第二次大戦後、一九四〇年代半ばからベトナム戦争を経て一九七〇年代に至るまでのアメリカ軍の東アジアにおける戦争及び駐留の期間、アメリカ軍軍隊が若い女性を「慰安婦」として世界に知られる性的奴隷となるよう強制したことを、明瞭であいまいさのないやり方で、公式に認め、謝罪し、歴史的責任を受け入れるべきである。

 (2)アメリカ合衆国大統領が公的な資格での公的な声明として、このような謝罪をするなら、誠実さと、これまでアメリカ合衆国の公人達がその名において日本軍慰安婦問題について発表してきた数々の声明についての非合理と矛盾についての疑問を解くことに貢献するだろう。

 (3)アメリカ軍のための「慰安婦」の性奴隷化や人身取引などは無かったといういかなる主張に対しても、明確に公式に反ばくすべきである。そして、

 (4)「慰安婦」に関する国際社会の提案に従うとともに、この恐るべき犯罪について現在と将来の世代を教育すべきである」


 天狗騨記者は再び二枚重ねの紙片を八つ折りに戻し手帳に挟んだ。

 社会部フロアはシンと静まりかえり誰も彼もが金縛りに遭ったようになっていた。


 天狗騨は左沢政治部長に真っ正面から向かって言った。

「これを我々ASH新聞紙上に載せ大々的にキャンペーン報道を始めましょう!」




「ばばばばっ、ばっ、バカな事を言うなーっ!」我に返るまで少々の時間を要した左沢であった。さらに左沢は両手をメチャクチャに振りながら、

「ここの社会部の連中は本気でこんなひどいものを紙面に載せていいと、そう思っているのか⁉」そう吠えた。


 しかし、誰かが何かを言う前にもう天狗騨記者が口を開いていた。

「左沢さん、あなたはこれを〝ひどいもの〟と言いましたか?」

「当たり前だっ!」

「私は一応〝日米同盟〟を評価したりと最低限の礼節は表明しておきましたが」


(本気でソレ思っているのか⁉)と疑わしく思った左沢政治部長だったがそこはここでは敢えて突っ込まない。


「公然と国名を名指しした上で『奴隷』だの『犯罪』だのといった文言を突きつけるなどとはまともな人間のすることじゃない! そういう事を言っているんだ! しかもその上それを子どもに教育しろとはどういう感覚だ⁉ まったく言うことが狂っている。異常者だ! 天狗騨、お前は間違いなく狂人なんだよ!」

「それを聞いて〝我が意を得たり〟の思いです」

「はぁ? お前は本当に頭が狂ったのか?」

「実はこれは私のオリジナルではありません。まあ年号・固有名詞などはアメリカ版に合わせて変更しましたが元ネタは2007年、アメリカ合衆国下院で採択された121号決議です」

「なに? どういうことだっ⁉」

「基本的に『日本』の部分を『アメリカ』に変更しただけだ、ということです。それが先ほど私が読み上げた文章です」


 天狗騨記者の髭もじゃの口がニカッと開き、白い歯がこぼれる。左沢の背筋に悪寒が走る。


「左沢さん、あなたは外国を名指しした上でこんなものを突きつけるような人間はまともじゃないと言い、さらには狂った人間のすることだとまで言いました。つまり、アメリカ合衆国の議会は狂人達の集まりというわけですね?」

「違う違う違うっ! 狂ってないんだ!」

「じゃあ私の言ったことを我がASH新聞の紙面に載せても狂ってもいないしまともであると言えるでしょう」

「……」

「我々ASH新聞は2007年この声明が発表されたときこれに便乗し政府攻撃に使いました」

「……」

「同じ事をアメリカに対してもやりましょうよ!」

「お前は日米関係を徹底的に破壊する気か⁉ アメリカ人を甘く見るなっ!」

「いいえ、私はアメリカ人リベラルを甘やかすつもりなどありません」

 微妙に反応がズレている天狗騨記者であった。


「左沢さん、なにか勘違いをされているようですが、韓国人元米軍慰安婦は確実にいて、彼女たちの悲惨な証言も確実にある。これでアメリカを非難すると日米関係が壊れるとか、言うことがおかしくないですか? 狂っているのはあなたなのではないですか?」


「——ここでひとつ補足をしておきましょう。2014年6月韓国ソウル、122人の元米軍慰安婦の訴えで始まった米軍慰安婦訴訟ですが、ソウル地裁で判決が出ています。2017年1月のことです。慰謝料請求が認められたのは122人中57人、完全勝訴ではないものの原告側勝訴です!」


 天狗騨記者は再びあの手帳を懐から取り出し、或るページを開く。


「——原告側コメントです。『〝米軍慰安婦〟が国家暴力の被害者であることを証明した判決で、真相究明と名誉回復の礎になった』と一定の評価をしました。だがこのようなことも言っています。『国が売春を助長、勧誘した事実を認めていないことや、米兵による女性の殺人や暴行、監禁などの犯罪行為があったと認定しなかったことなどについては不服である』と。もちろん控訴で裁判続行です」


「——さて、被害者側がこう言っているわけですが、それでも〝慰安婦対米非難決議〟を求めてはならないのでしょうか?」


 韓国の裁判所の判決風情など! と右派のようなことは言えない左沢政治部長である。


「——アメリカ人が日本に対してやったことを、まったく同じ価値観に基づき日本人がアメリカに対して行う事は許されないと、こういうことですか?」


 左沢はゴールに吸い込まれるボールを見ているだけのボールウォッチャーなサッカー選手のようになっている。


「——それこそ奴隷です! 正に反社会的、反民主的というものです。アメリカ人は『性奴隷』というワードを好んで多用するようですが、これからは同じ〝せいどれい〟でも、政治の〝政〟、『政奴隷』ということばも使って差し上げたらいかがでしょうか? 〝ポリティカル・スレイブ〟とでも訳をつければいいでしょう!」


 もはやほんの僅かのぐうの音すらも出ない左沢政治部長であった。


「ただし、彼らが日本人に対ししたことを我々がアメリカ人に対してした場合、アメリカ人が激高する可能性はかなりある」

「そうだろう! そうだろうとも!」

「だが、激高してしまったら最後、彼らは人種差別主義者であることが公式に、他ならぬ彼らアメリカ人自身、それも政治家達の手によって証明されることになります! アメリカでは選挙で選ばれた政治家達までもが人種差別主義者だったということになる!」


「——日本軍慰安婦はいたし米軍慰安婦もいた。双方共に悲惨な証言もある。ならば同じ態度を取るのが誠のリベラルというもの!」


「——アメリカ人のリベラルは、果たして本当にリベラルでしょうか?」


「——アメリカ人リベラルが人種差別主義という価値観を信奉する悪魔か、人権を何よりも重んずる本物のリベラルか、我々は試さなければならない! そしてもしアメリカ人リベラル達が人種差別主義者だと確定したら、その存在をアメリカ社会が許容するのかどうかまで見極めなければならない!」


「——幸いというか、今現在アメリカ議会下院はリベラル派政党が多数を占めています。だからこそあのアメリカ・ファーストな大統領が弾劾されているわけですが、ちょうど2007年、『慰安婦対日非難決議』が採択された時も同じような議会構成でした。そしてなんという奇遇でしょうか、今まさに2007年当時と同じ人物が下院議長を務めています! その議長は女性ですから当然韓国人元米軍慰安婦の側に立ち、アメリカ政府に対する人権決議をしてくれると、私はそう信じています!」


(信じてなどいるものか! 弁護士達にそうしたように、論敵を地獄へ落とそうとしているだけじゃないか!)


 左沢政治部長はそう思ったが、客観的には地獄へと落とされる方が悪いのであった。

 誠のリベラルならば地獄へなど落ちるはずが無い。


 アメリカ人リベラル達は二つの中からひとつを選ぶことができる。人種差別主義者か、人権を何より重んずる真のリベラルか————

 むろん米軍慰安婦問題の追及をしなければ人種差別主義者となり、追求をすれば人権を何より重んずる真のリベラルとなるのである。

 それが天狗騨記者の信奉する絶対の価値観であった。

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