第二十七話【日本人がアメリカを見限る刻3 〝2015年5月〟事件】

(今、なにげにコイツアメリカのマスコミも人種差別主義者だと言い切りやがったよな?)その物言いに嫌な、とても嫌なモノを感じていた左沢政治部長。彼は自身の身体の硬直すら自覚していた。だが何も言えない。触れたくない、触れてはならないと本能的直感が彼に告げていた。そして、この左沢の感覚もまた彼だけの独特のモノではなかった。そんな彼らには、この話しを止めさせた後起こるであろう事態の転移の方が怖くなっていたのだった。



 だからこの間も天狗騨の演説は流れるように続いていく。止めようとする者は誰もいない。


「2015年5月、アメリカの歴史学者を中心とする187名もの大学教授達が慰安婦問題に関する新たな声明を出しました。なんでも〝権威ある東アジア・日本専門家〟が多数参加したとのことです。この声明は厳密には『日本国内の史学者を支持する声明』と呼称されるそうです。英語・日本語の二つの言語で声明を作成し日本の首相官邸宛てに届けたと、声明の中心人物がそのように言っています」


「——ただ、残念なことに彼らが応援する〝日本国内の史学者〟は米軍慰安婦問題の研究はしていないわけです。だからこそアメリカ人大学教授達が安心して支持できるのかもしれません」


「——さて、左沢さん、ここで質問です。このように187名もの大学教授達が慰安婦問題について、新たな対日非難声明を出したわけですが、従来の対日非難声明と比べて明らかに違っている部分がある。どこが違うか、それを言ってみて下さい」天狗騨記者が訊いた。


 左沢政治部長はそんな中身などすっかり忘れているので答えることができない。しかし天狗騨記者はなお回答を要求する。

「私はアメリカ国内でしょっちゅう起こってる銃乱射事件の話しをしているんじゃないんです。我々日本人に面と向かっての要求です。覚えているのが普通でしょう」


「アメリカが日本に何らかの要求をするのは日常茶飯事だ」そんなこと覚えていられるか、という返答を左沢はした。


「これはアメリカ政府が要求したんじゃありません。要求したのはアメリカの民間、大学教授達が日本政府に要求した案件です。実に変わった案件だ。覚えているのが普通じゃありませんか? 政治部なんだし」


 最後の〝政治部なんだし〟がカンに障ったが、しかし左沢は本当に忘れているので答えようがない。


「そこまでアメリカ人に対しものが言えなくて、どうして政府に『辺野古を埋め立てるな!』と言えるんですかーっ!」響く大音声! 天狗騨の雷が左沢の上にビシャリと落ちた。


「いや、これは遠慮しているわけじゃなく……」左沢は取り繕うように言い訳を始める。

(なんで俺がコイツに……)と思うが抵抗ができなくなっていた。


「まあいいでしょう。ここにいるフロア全員の人間にも改めて記憶に刻んで欲しいことです。さて、この〝2015年5月の声明〟の中で187人もの大学教授達は慰安婦問題に関し『最も意見が割れている歴史イシューが慰安婦問題だ』と言い出しているのです。しかしこれは変じゃあないですか?」


「——これまで慰安婦問題でアメリカ人リベラル達は『セックススレイブ』『性奴隷』などと言ってきたんです。もうこれで真実は決まりで、意見など割れようがないわけです。『女性をセックススレイブにしたのが日本だ! だから日本は謝れ!』と言っていたのにどうして突然『意見が割れている』と言い出したのでしょうか?」


 天狗騨記者はまた繰り返して言う。


「——慰安婦問題の意見が割れているということになったら、『セックススレイブ』『性奴隷』というアメリカ人リベラルの日本人に対する非難は、割れた一方の意見に過ぎないことになる! 『女性をセックススレイブにした日本!』これらは一方の価値観、割れた一方の意見に過ぎないと、そうアメリカ人を中心とする187人もの大学教授達はそろいもそろって自ら認めたということです!」


 天狗騨記者はすっと静かに息を吸った。


「ならば一方の意見にしか過ぎない価値観に拠った日本人攻撃は日本人差別そのものではないですか!」引き絞った矢を射るように鋭いことばが発せられる。


「——なぜ187人もの大学教授達はこれまで言ってきたことを露骨に変更するという致命的な真似をしたのか? そこまでしていったいこの声明になんの目的があるのか? それはこの声明を読み進めることによって理解することができます。そこにはこうあります。『慰安婦被害者の苦痛を民族主義的な目的のために悪用するのは国際的な解決を難しくし、被害女性の尊厳をさらに冒とくする』とある!」


「——皆さん、これが何を意味するか解りますか? 〝被害にあった国〟、これ間違いなく韓国の事を言っています! 『被害にあった国で慰安婦被害者の苦痛を民族主義的な目的のために悪用する』。韓国は慰安婦被害者の苦痛を民族主義的な目的のために悪用する、とアメリカ人歴史学者達187人は言っているんです。正に韓国人からしたらアメリカ人リベラルの明白な裏切り行為でしょう!」


「——例えば、2007年のアメリカ合衆国下院における慰安婦対日非難決議の時は一方的にアメリカ人リベラルが韓国の側に立っていたことを思えば、この異様さには誰でもすぐに気づきます」


「——ただし、この声明に韓国語訳があるという話しはありません。青瓦台(韓国政府)宛てに送ったという話しも聞きません。もしこんな手紙を韓国人達に送りつけていたら彼らは相当に激高していたはずです。彼らの慰安婦運動のことを指し『民族主義的な目的のために悪用』とまで明言している声明なのですから。もし韓国語版があり韓国政府宛に送りつけられていたらきっと彼ら教授達の所属大学に一斉に抗議メールが韓国から山のように送りつけられていたはずです。しかしそんな事件が起こったという話しを聞かない。この声明は英語版と日本語版があるだけです。韓国人に分からないように韓国人を非難する声明を出すというのは実に卑劣じゃあありませんか!」


「——卑劣ついでにもうひとつ指摘してきましょう。この声明の共同提出者187人もの大学教授達はほとんどアメリカ人ですが全員アメリカ人ではない。現に韓国の新聞がこの件をどう報道しているかといえば『世界歴史学者187人が警告状』です。イギリス人・カナダ人・オーストラリア人・ドイツ人・オーストリア人・シンガポール人、そして情けないことに日本人まで混じっている」


「——なにか不自然さを感じませんか?」天狗騨記者が左沢政治部長に訊いた。

「多国籍軍的ななにかか?」と意味不明の返答をする左沢政治部長。

「多国籍は多国籍ですが感想はそれだけですか?」


 ムカッとくる左沢政治部長。しかし言い返すだけの回答を思いつかない。


「これだけ様々な国籍の大学教授達がいて、どうしてこの187人の中に韓国人はいないのでしょう? この中には日本人でさえ含まれているというのに」


(あっ……)

 確かにそれは不自然だと、左沢も思った。


「それは本当にそうなのか?」と左沢は天狗騨を疑うようなことばを口にした。


「これは韓国の有力紙の記事に拠っています。慰安婦問題について世界中の学者を集めて声明を発するのに当の韓国人大学教授を含めないというのは実に不自然です。意図的に排除されている。やはり韓国人を含めると都合が悪いという声明発信者達の意図があるのは間違いない」


「——やはり韓国人達の慰安婦運動のことを指して『民族主義的な目的のために悪用』と言うためには韓国人の存在は無い方が良かったと、そういうことではないですか」


(むむ……)

 当時この187人もの大学教授達の慰安婦問題に関する声明を喜々気味にASH新聞紙面で伝えていたという記憶が左沢政治部長にはあったが、慰安婦問題に関しての声明なのに韓国人大学教授が除かれている不自然さについては(指摘できていなかった)としか思えない。

(それをこの天狗騨とかいうヤツが……)


「慰安婦問題についての声明を出すのに日本人大学教授を入れるのに韓国人大学教授は外す、こんなことをするくらいならアメリカ人の大学教授でだけでやればいいのに」天狗駄記者が言った。さらに続けて「——この構図って、何かに似ていませんか?」と訊いた。


 左沢政治部長としてはこの長広舌の合間にいちいち質問を挟んでくるやり口に辟易とするしかないが、的確な答えなど用意できるわけが無い。


「都合の悪い者は外し、仲間内の連中だけを集め多数を造り少数を攻撃する。何に似てますか? 左沢さん」



「それは……イジメだろう」


「そうです! イジメです! イジメを行う人間は決して一対一でやらない。徹底的に一対一を避けるんですね。常に多数を集めて少数者を叩く。この声明が正にこれだ。アメリカ人大学教授達だけでやればいいのにそれができない。アメリカ人にはどこかイジメの加害者の臭いがする」


「——そしてこれは日本人宛の声明なのですから当然韓国を非難するだけで終わるわけがない。これには当然続きがあります。続きにはこうある。『——被害女性の尊厳をさらに冒とくするものだが、被害者にあったことを否定したり無視することも同じく被害者を冒とくすることだ』と、改めて日本を非難している!」


「——韓国語訳を韓国に送りつけていない時点で重心は中点にはありませんが、それでも急に韓国と日本、両国を非難する声明を出したのはなぜでしょうか? こここそが従前のこの手の声明に無いこの声明の奇怪さです。この重大な方針転換には意味があるはずです。この〝2015年5月〟の声明が狙う目的とはなんでしょうか? 左沢さん、どう考えますか?」


 左沢政治部長は混乱していた。そもそもこの187人もの大学教授達の声明が韓国をも非難しているなどとは夢にも思っていなかった。いったい当時自分は何を見て何を読んでいたのかと、絶望的になっていた。政治部だというのに知らない! 社会部の天狗騨は知っている!


「……政治、という事だけは分かる」かろうじて左沢は言った。


「なるほど、政治ですか、それは深い答えです。私の考えはこうです。——どう考えても慰安婦問題の幕引きを狙っている。慰安婦問題の幕を引いてしまえば、米軍慰安婦問題の追及から逃れられる——アメリカ人達はそう考えたんじゃないでしょうか?」


「——この声明は後の〝日韓慰安婦合意〟へと繋がっているとしか思えません。なにせ〝日韓慰安婦合意〟はこの年の年内、2015年暮れも押し迫った末日も末日、12月28日に結ばれています。この187人もの大学教授達の声明の七ヶ月ほど後のことです。正に連中が敷いたレールの通りじゃないですか!」


「それでつまりお前はこの声明を支持しているのか?」左沢政治部長がかろうじてこれだけ訊けた。


「ご冗談を。支持などできようはずがありません」


「〝日韓慰安婦合意〟へ繋がっているのなら我々が非難できる道理が無いだろうが!」


「支持できないのは正にそこです!」


「なに? どういうことだ?」


「日本と韓国を両方とも非難してみせるというのは、慰安婦問題を日韓間限定の問題として処理しようという意図が見え見えです。以前はアメリカ人リベラルは『慰安婦問題は普遍的な女性の人権問題である!』という考え方をしていたのにこの考え方を放棄している! これは『日本と韓国の間で慰安婦問題を終わらせないと大変なことになる』という価値観を持っている者のやることです!」


「——さらに支持できない理由があります。この声明が支離滅裂だからです。声明冒頭の方で慰安婦問題について『意見が割れている』とか言っておきながら、結論部分では意見など全く割れていない! 文章の最初と最後の論理的整合性が無い文章では大学入試の小論文試験で落第します。不合格です。大学教授が大学に落ちるんじゃあ笑い話しにもなりません」


「お前がそこまで人をバカにできるほど偉いのかっ⁉」左沢が叫ぶ。


「ならば指摘してきましょう。この声明は『数多くの女性が自分の意思に反して連れて行かれ、ぞっとするような野蛮な行為を体験したという証拠は明らかだ』と断言しています。だが本当に〝証拠が明らか〟なら慰安婦問題についての解釈が割れる余地は無いはずで、意見も割れようがないでしょう」


(……)脊髄反射すらできない左沢であった。


「——しかもです。ここが重要なのですが声明はこうも言っている。『重要な証拠は被害者の証言にある』、『たとえ被害者の話が多様で一貫性がない記憶に依存していても、被害者が提供する総体的な記録は説得力があり、兵士または他の人たちの証言とともに公式文書によっても裏付けられる』、『数字が数万人であれ数十万人であれ、戦場で搾取があったという事実は変わらない』とも187人もの大学教授達の声明は主張しています」


「——さて、左沢さん、ここで思い出してみて下さい。韓国人元米軍慰安婦の証言は確実にあります」


「——韓国人の米軍慰安婦の証言は日本軍慰安婦の証言と混ざり、クリスマス休暇や、ジープや、朝鮮戦争というキーワードが出てきている。これについても被害者の話が多様で一貫性がない記憶に依存していても、被害者が提供する総体的な記録は説得力があると言えます」


「——当時の韓国人米軍慰安婦は〝第五種補給品〟と呼称されていることは韓国政府の公式文書から既に裏付けられています」


「しかもです、『数字が数万人であれ数十万人であれ、搾取があったという事実は変わらない』とまで言ってくれているんです。数字などお構いなしというのは歴史学者としての能力に疑問符がつく物言いですが、取り敢えずこれで米軍慰安婦問題の追及をしても構わないと、アメリカの歴史学者を中心とする187名もの大学教授達からのお墨付きを得たのです! しかも、イギリス人・カナダ人・オーストラリア人・ドイツ人・オーストリア人・シンガポール人・日本人の学者までもがお墨付きを与えている! 韓国人元米軍慰安婦の存在は公文書で確認でき、彼女達が悲惨な証言をしており、被害者の数が数十万人でも数万人でも数は関係無いと言ってくれているのですから、我々はASH新聞は心置きなく米軍慰安婦問題の追及をすべきです!」


「おっ、おっ、お前、そんなことをしてただで済むと思っているのか⁉ アメリカ人を攻撃するなど!」


「彼らが〝やって良い〟という価値観を我々に語ったんじゃないですか」


「語ってない!」


「いいえ、語っています。結局オチは『慰安婦問題は意見が割れていない問題だ』と断言しました。『慰安婦の証言』があるだろうと。そう言った時点で米軍慰安婦問題の追及は当然のことでしょう!」


「アメリカ人が激高したらどうするんだ⁉」


「私はアメリカ人達に親切をしているんです!」


「親切? 米軍慰安婦問題の追及がか?」


「もちろんです」


「どういう理屈でそうなるっ⁉」


「いいですか、アメリカ人の大学教授達の慰安婦問題についての意見は結局ひとつ。『日本が悪事を働いた! 謝れ!』です。慰安婦問題の意見などどこも割れていない。その一方で米軍慰安婦問題の追及をしている者はこの大学教授達の中に一人もいない」


「——日本人はアメリカ人からみて外国人です。外国人だけを攻撃する価値観をなんと言うか、言ってみて下さい、左沢さん」


「……」


「そんなことも答えられないでよく〝差別反対〟の記事が書けるモンです」


 天狗騨記者は一拍間をとった。


「排外主義者です。極右とも言います」


「……」


「しかもこの大学教授達のほとんどは日本人とは人種も民族も違うことでしょう。この大学教授達はつまり民族差別主義者、人種差別主義者でもある」


「——最終的にこの声明に賛意を示した大学教授達は400人を超えたそうです。我がASH新聞社説でも書いていましたね。これだけ大学教授が集まると、普通の日本人も名前を聞いたことのある有名大学も含まれます」


「——マサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学、ハーバード大学の教授も含まれている。こんな有名な大学で日本人差別を公然と行う、排外主義者の極右の民族差別主義者の人種差別主義者が歴史学の教授をやっているんです!」


「——いまさっき左沢さんは『アメリカ人が激高したらどうするんだ⁉』と私に問いましたが、もし激高したら激高したアメリカ人は排外主義者の極右の民族差別主義者の人種差別主義者だということが確定します」


「……」


「まったくもって人種差別主義者が大手を振って教授を名乗り大学で教鞭を執っているなんてまったくシャレになりません。いったい誰がそんな大学に留学に行きますか? 日本人は確実に行きませんよ!」


「——しかし結局それじゃあアメリカ人も困るでしょう。私も一度は彼らを信用したいと考えます! 彼ら大学教授達に失地回復のチャンスを与えるのは〝情け〟です。彼らが救われるには米軍慰安婦問題の追及を、他ならぬアメリカ人大学教授達自身がやることです。これでアメリカ人大学教授達は日本人だけを攻撃する極右の人種差別主義者でないと、客観的に証明することができる。しかしきっと、アメリカ人が米軍慰安婦問題の追及を行うことはハードルが高いことでしょう。そこで彼らがアメリカ国内で動きやすいよう、慰安婦問題の報道を始めた我々ASH新聞が、まず米軍慰安婦問題についてのキャンペーン報道を大々的に展開すべきです!」


(き、き、きやんぺえん?)


「そして最終的にアメリカ合衆国下院において〝慰安婦〟を採択するよう圧力をかけるのです! アメリカ合衆国は慰安婦問題で謝罪することで信頼を回復し尊敬を得ることができる!」天狗騨記者は明らかに真顔で高らかに宣言した。


「私案を紹介します」などとさらに続けて言っていた。



 よもやここまでとは……

 左沢政治部長は、あわわ、あわわ、と半分人事不省になっていた、

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