第二十話【左沢政治部長の耳元で悪魔はささやく。『南も北も同じ』、と。】
天狗騨記者にまったく歯が立たず一方的にやり込められている状態が続く左沢政治部長だったが、彼も『右翼! 極右! ナチス! ネトウヨ!』を叫び続けるばかりのまったくの無能ではなかった。
彼の頭の中に悪魔がささやき続けていた。〝悪魔〟は自らの心の内にいる。それはまごう事なく左沢自身の脳が考えついたことであった。
(天狗騨の論破はそう難しいことではない……)左沢は思った。これは決して虚勢ではない。
(天狗騨は言う。『自国の軍事力が強ければ結んだ合意や条約が相手国側から破られることは無い!』と。確かに日ソ中立条約がソ連に破られた実例を挙げられたら〝その通りかもしれない〟という気になる。だが〝軍事力の強い国なのに弱い方から合意や条約を破られた〟という実例をひとつでも挙げられたなら、天狗騨の主張は瓦解する)
左沢政治部長の頭の中には既にひとつの実例が浮かんでいた。
そう、軍事力の圧倒的に強い国の方が〝合意を破られた〟という実例が。
それは————
『米朝枠組み合意』。1994年10月、アメリカと北朝鮮の間で結ばれた合意である。
北朝鮮は核開発を放棄する。
その見返りにアメリカは北朝鮮に対し原子力発電所、いわゆる軽水炉を提供。そして当該原子力発電所が完成するまでの間、年間五十万トンの重油を北朝鮮に提供し続けるという包括的合意である。
『米朝枠組み合意』とはいうものの、日本も無関係ではいられなかった。
それは〝カネ〟の問題である。
この時KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構 Korean Peninsula Energy Development Organization)という合意実行のための組織が作られ、これにカネを出すことになった。
この合意の履行に必要なカネは総額46億米ドル(約5600億円)と見積もられ、この金銭的負担について韓国が中心的役割を果たすことになったものの、日本も10億米ドル(1100億円超)を拠出し負担することになったのである。アメリカと北朝鮮の合意であるが、資金は日韓の負担とされたのである。
一方、重油提供のほうは主としてアメリカが負担することになった。
だがしかし——
2002年10月、北朝鮮が新たに『ウラン濃縮技術』を取得している事実が明らかになった。その結果核開発放棄を謳った『米朝枠組み合意』の前提は崩れ、同年12月に開催されたKEDO理事会は北朝鮮に対する重油供給を停止する決定を行う。
北朝鮮はそれに対し、使用済み核燃料の封印除去(同12月)、IAEA監視要員の追放(同じく12月)、NPT脱退宣言(年明け2003年1月)という対抗措置を立て続けに打ち出す。
ここに『米朝枠組み合意』は機能不全状態に陥ることになる。
このようにこの合意は道半ばでかかる事態となったのであるが、既にこの時日本は1100億円超もの負担額の半分近く、500億円もの血税を拠出した後だった。むろんこのカネが戻ってくるはずもない。
2005年、北朝鮮は核保有を宣言し『米朝枠組み合意』が完全に破られたことが確定する。
アメリカ合衆国政府は北朝鮮と合意を結んだ結果、核兵器を保有され重油だけをとられて騙された。
(1994年当時はソビエト社会主義共和国連邦崩壊から間もない頃であり、中華人民共和国の軍事力も現代とは比べるべくもない——。この時のアメリカ合衆国はまごう事なき一強! 正にスーパーパワー! 文字通り本当の意味での世界最強のアメリカは、北朝鮮によって合意を破られたのだ!)
(天狗騨の主張には穴がある)左沢は確信した。
——だが一方で彼はこうも思っていた。(しかし、それを言ったらもっとマズいことになるのではないか?)、と。
左沢政治部長は天狗騨記者の〝主張の穴〟を見つけたものの、それを突くかどうか尚もためらっていた。
(これは天狗騨の仕掛けたトラップではあるまいか?)彼の頭の中からこの可能性がどうしても排除できなくなっていた。弁護士達がズッタズッタに言論の刃で切り裂かれた話しを聞いた後では際限なく猜疑心が広がっていくのも無理はない。そんな左沢政治部長であった。
(今さっきから天狗騨とは『韓国が日韓慰安婦合意を破った』だとか『韓国が日韓請求権協定を破った』だという胸がムカムカするような話しをしている。この流れの中で〝北朝鮮の合意破りの実例〟など持ち出せば『韓国=北朝鮮』(韓国イコール北朝鮮)という趣旨の話しを事もあろうにこの俺がするということになる————)
(近頃のネトウヨどもの界隈では『南も北も同じ民族』なる、〝悪意あるフレーズ〟が氾濫している……)
左沢政治部長の懸念、それはこういうことだった。
『大韓民国と北朝鮮の国民は同じ民族である』。これ自体はファクトであり、彼ら当事者同士の間では『だから統一しようじゃないか』という〝あるべき未来図〟の根拠ともなっていた。
しかし、日本側右派勢力がこのフレーズを使った場合、その意味がだいぶ変わってくる。そう、『韓国=北朝鮮』(韓国イコール北朝鮮)となる。つまり韓国は北朝鮮と同じくらい信用できない連中である、とそういう意味になる。結論としては『韓国とは組むべきではない! 日韓断交だ!』ということになる。
外国との合意を破るという同じ行為を南も北もやっていて、南も北も同じ民族とくれば、容易にイコールで結ばれてしまうのである。
ちなみに、北朝鮮に合意を破られまんまと騙されたオチとなったアメリカ合衆国は『日韓慰安婦合意』でも両国の仲介者として関わりを持っている。だが大韓民国政府は『日韓慰安婦合意』の結果作られた慰安婦財団を解体し、事実上この合意は破綻している。今ひとつアメリカ合衆国自身にはその自覚が薄いようであるが、客観的にはアメリカ合衆国は北に続いて南にも騙されたと言えた。
これまで左派リベラル界隈においては『北朝鮮の独裁者が約束を破った!』ということにしていたのに、大韓民国の行動によって『北朝鮮と韓国の国民は同じ民族だから同じような行動をとるのだ』ということにされてしまっているのが、ただ今の状況であった。
(韓国と北朝鮮をイコールで結ぶなど悪意ある故意でやっているに決まってる!)当然左沢政治部長はそう思っていたが、北朝鮮が合意を破り、大韓民国も合意を破ったというファクトがある以上は、どう取り繕っても分が悪い。
『慰安婦財団は解散されたがまだ日韓慰安婦合意は生きている!』などとはいくらASH新聞とはいえ社説で書けるはずもなかった。また、
『韓国は徴用工問題で再度日本に公然と金銭的要求を突きつけているが、日韓請求権協定は破られていない!』などとも書けるはずがなかった。
むろん自社の社説であるから書こうと思えば書けるはずなのだが『これを書いていったい誰が説得されるのだろうか?』、という根源的に深刻な問題を生むことになるのは目に見えていたのである。有り体に言ってASH新聞の社説の格のガタ落ちを証明する物証となるのが関の山なのであった。そうなれば『大新聞の社説である!』と大上段に構えてみても日本の政治家に対する圧力にすらなり得ない駄文コラムと化す。
大韓民国による慰安婦財団の解体。そして徴用工問題での日本に対する再度の金銭的要求。これら韓国政府の行動とそれを熱狂的に支持する韓国国民の姿は日本国内の左派リベラル勢力に深刻なダメージを与え続けている。
こんな状態で左沢政治部長が『ハハハ天狗騨よ! アメリカ合衆国も北朝鮮に合意を破られているぞ! 軍事力が世界最強でもこのザマだ。外交の合意と軍事力は何の関連性も無かったな!』などと言ってしまったら、『合意を破るのは軍事力の強弱の問題ではなく、民族性の問題』というところに結論が行き着いてしまう。
韓国をかばうために日ソ中立条約が破られた事案を持ち出そうと〝ロシア人の民族性〟というところに結論が落ち着くだけで、この際ロシア人を堕としても韓国に民族的浮上の目は無い。
(韓国と北朝鮮がイコールで結ばれるなどあり得ない! 絶対に結ばせない!)
この時だ。左沢の頭に閃きが来た!
(ネトウヨの言う『南も北も同じ民族』とは『韓国=北朝鮮』という意味だ。この価値観が危険なのは『日米韓の連携』を否定する価値観だという点にある。韓国と北朝鮮が同じなら、北朝鮮に対抗するために韓国と組むという選択肢自体があり得ない選択肢となる。ネトウヨ的にはそれは大満足だろう。しかし、『日米韓の連携』はアメリカの意向なのだ! アメリカ様だ! ネトウヨはアメリカ様に異様に弱い! ——ならばそんなネトウヨどもを屈服させるには……)
左沢は自分の思いつきが妙案だと確信し今度は疑うことをまるでしなかった。もはや彼の頭の中には『どうやって韓国をかばうか』、それしかなかったからである。北朝鮮による『米朝枠組み合意破り』を持ち出さなかったのも、それを持ち出すことによって韓国がいっそう不利になるのを避けるためであった。
アメリカを持ち出し韓国をかばう。〝完璧〟、としか彼には思えなかった。
『ネトウヨを痛めつけろ!』この時左沢政治部長は己の感情によって自己が完全に支配されていた。
天狗騨記者をASH新聞内に紛れ込んでいる〝ネトウヨ〟と決めつけていた。いや彼の無意識が決めつけたかった。なぜなら相手を完全な悪にできるから! 韓国を攻撃する者は全て悪人だ!
——しかし天狗騨記者は〝ネトウヨ〟ではなかったのである。
そう、この時左沢政治部長は中道キャップが告げたこと、即ち天狗騨記者がかつてアメリカの駐日大使宛てに『海洋性ほ乳類のイルカを捕るな、と言うのなら同じく海洋性ほ乳類の辺野古のジュゴンも守れ、と言うべきではないか!』と公然と書き送ったエピソードのことなどすっかり忘れていたのである。彼は〝日米同盟〟がどうなろうとお構いなしの男であった。
また、天狗騨記者は『ニューヨーク辺りの自称リベラル新聞』だとか『アメリカの下院とかいうろくでなし集団』とも言っていて、その話しは左沢政治部長自身が聞いているはずだったのだが……
〝韓国が悪し様に言われ続けている——〟
この一事のみで左沢政治部長の内心は熟考することを忘れ、自らの予断をもって設定する予定調和に囚われ、断定的な決めつけをしていた。
(天狗騨ぁ! このネトウヨめ。〝日米韓の連携〟を否定できるかっ⁉)
左沢政治部長が本当の意味で天狗騨記者の怖ろしさを思い知るのはこのすぐ後のことである。
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