第十七話【『北朝鮮と国交正常化しても一兆円支払う必要は無い。びた一文も支払う必要が無い』】

 その時だ。間が良いのか悪いのか、天狗騨記者が社会部フロアに姿を現した。このフロアを飛び出していった時とは対照的にその足取りはまったく〝普通〟であり、あの猛速の歩速は影も無い。


「天狗騨、天狗騨!」とすぐさま中道キャップが天狗騨記者を呼ぶ。その声に気づいた天狗騨記者は呼ばれた方に、やはり普通に歩いて行く。その中道のすぐ傍に社会部デスクと、むろん左沢政治部長が立っている。

「政治部長の左沢だ」中道や社会部デスクが何かを言う前にもう左沢政治部長が喋り出していた。

 天狗騨記者はその左沢に一瞥をくれると勝手に何事かを悟ったらしく、

「あれだけ〝縦割り行政〟を非難してきたんです。その我々がつまらない縄張り意識にこだわるのは無しにしませんか?」と、そう言った。

「なわばりいしき?」左沢政治部長がおうむ返しに訊き返す。

「違うんですか?」今度は天狗騨記者も訊き返す。


 ある意味、ここだけは天狗騨記者はマトモだった。まともな解釈をしていた。

 即ち、『社会部の記者が政治家にアプローチをかけたこと』に政治部の連中が腹を立てたのだろうと、そう思い込んでいたのだ。

 しかしこの時、中道キャップに扇動された左沢政治部長の精神状態は〝まとも〟ではなくなっていたのである。


「お前ASH新聞の記者でありながらよくも北朝鮮や韓国を攻撃できたものだな!」左沢は渾身の思いを込めそう言葉の矢を解き放った!

「はぃ?」

 ある意味、この時の左沢は天狗騨記者のお株を奪い、超えていた。せめて〝国立追悼施設〟の件をどうにか絡められていたら天狗騨も極めてぞんざいな返答はしなかったろう。取材(?)の収穫ゼロの天狗騨記者は実に投げやりな声調子で反応を示したのである。

「そんなつまらない話しを今している場合じゃない」と。

「つまらない⁉ キサマっ! 北朝鮮や韓国がつまらないことだと言うのか⁉」瞬間的に左沢が沸騰した。


 改めて指摘をしておこう。常人には中々理解しにくいのかもしれないがここASH新聞社内においては北朝鮮及び北朝鮮系や韓国が非難されると我が身が傷つけられたかのような感覚を覚え激高する者は決して珍しくないのである。


「今はそんなのは後回しですよ」さらに天狗騨記者は言い放った。

「さては話しを逸らそうとしているなっ⁉」左沢政治部長が断定した。

「は?」

「この右翼っ、極右っ、ナチスっ、ネトウヨめがぁっ!」

「は? 〝ねとうよ〟って何ですか? そもそも今のあんたと私は顔をつきあわせてのオフラインでしょうが」


 中道は吹き出したくなるのを必死にこらえていた。

 しかも平の記者が部長職という上級職にある者に対し〝あんた〟と言ってのけたことで、さらに左沢の逆鱗に触れたのである。

「上役に向かってその口のききかたはなんだっ⁉」

 さらに左沢政治部長が早口でまくし立てる。

「いいかっ! 北朝鮮と韓国の悪口を言う奴はレイシストだっ! お前の口から出た言葉はヘイトスピーチだという事実を直視しろ‼」

「申し訳ありませんがあなたが何を言っているのかさっぱり理解できません。ここは社会部のフロアです。政治部はお引き取り願いませんかね」

「逃げようたってそうはさせない! お前は『北朝鮮と国交正常化しても一兆円支払う必要は無い。びた一文も支払う必要が無い』と言っていたな⁉ 聞いたという証人だっているんだ! 今さら『言っていない』などという言い草は通じないぞ!」

「言いましたよ! かなり前の話ですが」


 ははははははははっっ! 突如左沢政治部長が笑い出した。


 さすがの天狗騨記者も眉根を寄せている。どこら辺が笑いどころなのかさっぱり理解できなかったからだ。


「愚かな作家が数年前韓国に対するヘイトをネットに書き散らしていたことが今さらながらに明るみに出てメディア・ミックスがおじゃんになったことを知らんらしい!」左沢は高らかに宣言した。


(? ? ?)

 言われた天狗騨記者にはやはり何のことだかさっぱり解っていなかった。


 解説しよう。左沢があげた実例を短く説明するととこうなる。


 とあるライトノベル作家がいた。その作家の書いた〝とあるタイトル〟のアニメ化が、正に決定していたというその矢先のことだった。過去、その作家が韓国の悪口をネット上に書き込んでいたことが発掘され暴露されてしまったのである。その結果、せっかく決まっていたアニメ化がおじゃんになってしまった、という話しである。


 左沢政治部長はもちろんいわゆる『ヲタク界隈』に詳しい人物ではないが、『韓国を悪し様にののしった人間が目の前にぶらさがった成功を奪われ没落する様』を目の当たりにして大いに快楽を得たものである。

 要するに左沢は『北朝鮮や韓国の悪口は、言ったのがかなり前だとしても、そのヘイトは免罪はされることは無い』ぞと、そう脅したのである。


 だが天狗騨記者はネジが飛んでいるようなところがある男で、忖度能力がゼロである。


「じゃあ今言ってあげましょうか?」とそう口にしたのである。

「キサマ、逃れられないと悟って開き直ったな!」なぜか勝利を確信したかのような陶酔気味の口調だった。左沢政治部長の脳内は不思議な勝利感で満たされているようだった。その奇妙な優越感にさすがの天狗騨記者もいらだちを覚えたものか「もう話していいんですよね?」と口にする。天狗騨は左沢が返事をする前にもうどんどんと進め始めていた。

「じゃあまず訊きますよ。東京裁判についてです」天狗騨は言った。この男の話にはこういう所がある。

「はあ? なんで東京裁判だ?」

「続けますよ」天狗騨記者は左沢政治部長の質問を一切無視し自分の話を続けていく。「——東京裁判は〝後から造ったルール〟で裁いたという裁判です。あなたはこの裁判に『不当だ!』と言いますか?」

「言うわけ無いだろう!」極めてASH新聞的対応である。

「それが答えです」

「は? 答えだと?」

「そうですよ。それが『北朝鮮と国交正常化しても一兆円支払う必要は無い。びた一文も支払う必要が無い』という理由です」

「ふざけるなっ!」左沢が怒鳴りつける。

「じゃあデスク、デスクは解りますよね?」


 くくくっ、中道の中に笑いがこみ上げてくる。

 当然社会部デスクは前に天狗騨記者が暴れ回っていた時に聞いている筈で、事の顛末を知っている筈だからだ。


「知らん」社会部デスクはすっとぼけた。


「人の話はよく聞いておくべきですよ」天狗騨記者は上司を食ったような発言をした。またも中道の内心に笑いがこみ上げてくる、むろん必死にこらえてはいるが。

 社会部デスクの顔が真っ赤になってきたが、彼は何一つ言えない。

 一瞬中道は(こちらに振られるか)と構えたがそうはならなかった。天狗騨は自らの口で語り出した。


「『現在の価値観で過去を裁く』という行為の視点を変えて考えてみて下さい。視点を変えると『未来の価値観で現在を裁く』という意味になるんです。どうしていつも自分達が〝裁く側〟に立っているんです? 〝裁かれる側〟に立つ可能性もあると、どうして考えられないんです?」


 天狗騨記者は絶妙の一拍な間を置き、続けた。


「北朝鮮に一兆円の資金を渡したとして、果たして未来永劫その日本の行為が賞賛され続けるでしょうか?」


「あっ!」思わず左沢政治部長の口から声が漏れた。彼の頭の中で〝天狗騨のパズル〟が解けた。なぜ〝東京裁判〟の話しを持ち出してきたのかも。

 だが天狗騨記者の口は止まらない。


「北朝鮮に巨額の資金を手渡せばその資金を元手にさらなる軍拡に走ることは間違いないでしょう。きっと核ミサイルが大増殖しますよ。そして北朝鮮は世襲制の独裁国家です。日本からの巨額の資金でその独裁政権はさらに強固になり長続きし、北朝鮮国民はさらに長い間自由も無く人権も無く、このまま圧政下に置かれ続けることになる」


 さらに容赦なく天狗騨記者が続けていく。


「独裁者に巨額の資金を手渡して『これで戦後補償が済みました』だとか『これで過去の清算が終わりました』だとかいう言い分が将来に渡って通じ続けると思ってるんっですかーっ? 通じませんよ! 本来受け取るべき者が何も受け取っていないとして『日本は独裁者ファミリーとその取り巻きを豊かにしただけだった』だとか『北朝鮮国民は何も得ていない』だとかいう声が将来確実に出てくる!」


 左沢政治部長は黙り込み、反撃ができなくなっている。


「時間が経過していけばこの『日朝国交正常化問題』という問題はいつの間にか〝外交問題〟というよりは〝いわゆる人権問題〟という扱いになる。そうなればニューヨーク辺りの自称リベラル新聞が『日本は歴史に向き合い、独裁者ではなく北朝鮮国民に真の補償を』とか言い出すでしょう。アメリカの下院とかいうろくでなし集団もこの件では似たような事を言い出す可能性大ですね。そういう動きがアメリカで始まったらこのASH新聞など震え上がってそれらと同調し日本政府を攻撃しだし、『日本は三兆円北朝鮮に支払え!』とか言い出すんでしょう。今から目に見えるようですよ」


「なななな、なんで三兆円になっている⁉」

「一兆円を独裁者に与えて独裁政権を長持ちさせた罪で三倍くらいふっかけられるでしょう。だが本当に深刻な問題はこの後だ」


「この後とは?」と中道キャップが繋いだ。さらに火に油を注ごうという思惑からである。


「独裁者に一兆円の血税を渡した後にさらに三兆円追加、都合四兆円という巨額の国税を北朝鮮という国家に与えることを日本国民が温和しく認めるでしょうか?」

「日本人は温和しいに決まってるだろっ!」

「その温和しさも未来永劫の保証書付きかというとそうじゃない。温和しい人間にも限度というものがある。それが人間というものの現実ですよ。現にアドルフ・ヒトラーという独裁者の誕生がそれを証明しています」

「ひっ、ひとらー?」

「さっき私に向かって〝ナチス〟と言ったでしょう? いいですか、ヒトラー政権が誕生してしまったのは『第一次大戦の結果を理由として、あまりに巨額の賠償金をドイツに課したこと』、これが原因となっているというのは定説ですよ」

「この時代にあんな独裁者が出るわけがない! ましてこの日本ではそういう選択肢が無い!」



「ここまで話しがズレてくればもう解るでしょう?」突如天狗騨記者は左沢政治部長に言い渡した。

「ごまかすなっ!」

「『北朝鮮に一兆円の資金を渡して果たして未来永劫その日本の行為が賞賛され続けるでしょうか?』という私のこの問いを、あなたは否定してません。むろん否定もできていない」


 うっ!


「ハッキリと『賞賛され続ける!』とは遂に言えませんでしたね」


「うぐぅ……」


「私が〝北朝鮮独裁政権への一兆円の支払い〟が人権問題として取り扱われ、将来三兆円賠償請求が来ると言ったら、それを否定できませんでしたね?」


 ぐぬぬ……


「それとも今からでも日本が『世襲制の独裁政権に一兆円の資金を渡すこと』は未来永劫賞賛され続けると、この場で断言して貰っても構いませんよ」


 天狗騨は意図して『北朝鮮』という固有名詞を『世襲制の独裁政権』と言い換えていた。しかしそれは全くその通りなので左沢には何事かを言い返すことも不能になっていた。


 天狗騨記者の髭もじゃの口から白い歯がこぼれた。ニカッと笑っていた。


 世襲制の独裁政権に一兆円もの資金を渡すこと、そんなものが賞賛され続けないのは火を見るよりも明らかだった。その時〝東京裁判という価値観〟を使われたら……

 左沢の背中に悪寒が走った。

 過去ASH新聞は『日本人は日本人の戦争責任を自らの手で総括できなかった』と言って日本人を攻撃したことがあった。

 だがもし本当に責任のを実行されてしまったら——


(ごっ、〝合法的に妙義山〟じゃないかーっ!)左沢の精神は千々に乱れる。ちなみにこれは戦後昭和の頃、左翼過激派仲間内での大量殺人事件の事を指している。


 アメリカ人が人権を前面に押し立てて『北朝鮮に一兆円渡した行為』について、攻撃を始めた途端状況は決定的となり猛り狂った日本国民によって『北朝鮮に一兆円渡そう!』と煽った人間は犯罪者にされる。『デス・バイ・ハンギング』と言われ吊される可能性すらあると、そう感じさせたのだった。正に恐るべしは東京裁判!

 これから逃れ、己の責任を消すにはこの現時点において『北朝鮮に一兆円渡す』という行為を全否定するほかない。

 東京裁判を否定できないというASH新聞内の標準的価値観は逆手に取られ天狗騨記者によってまんまと利用されていたのだ。



 時間は止まることなく流れ続け、未来はじきに現在になり現在はじきに過去になる。これは絶対の真理である。故に以下の式が成り立つ。

 『現在の価値観で過去を裁く=未来の価値観で現在を裁く』

 この悪魔の公式の前で左沢政治部長は立ちすくんでいた。



(あ、アメリカンリベラルは『人権』を使って外国を攻撃する……この予測は外れようが無い……これほど容易い未来予測もない……)左沢は悟らざるを得なかった。

 そして『人権』を持ち出されたら最後、抵抗の手段が無いことも……


「つまり私の言った『北朝鮮と国交正常化しても一兆円支払う必要は無い。びた一文も支払う必要が無い』は正しい意見であると断言して間違いないでしょう。未来人に裁かれないよう現代人はよくよく注意して行動しないと!」遂に天狗騨記者は声に出し、とどめを刺したのだった。


「きっ、汚いぞっ、北朝鮮を持ち出されたらお前が勝つに決まってるっ!」左沢が叫ぶように吠えた。

「は、い?」さすがの天狗騨記者も何を言われたのか解らない。


「本当に看過できないのは民族学校をキサマが否定していた事だ!」左沢政治部長は尚も果敢に天狗騨記者に闘いを挑んでいく。

(北朝鮮という国家は否定できても日本国内の民族学校が否定できるわけがないんだ!)そう思いながら。

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