第十六話【他人に理不尽な要求を突きつけると……】
「ところで、」と中道キャップが切り出す。
「なんだ?」まだあるのか? とでも言いたげな表情をして社会部デスクが反応した。
「いえ、天狗騨が社の方針に逆らっているのはなにも〝国立追悼施設〟の件だけじゃないのはご存じでしょう?」
社会部デスクは僅かに顔を歪めた。
「この際ですから他の件についてもしっかりと釘を刺しておいた方が良いと思いまして。たとえば北朝鮮と韓国の件とか——」
「なにィ? どういうことだ⁉」
何の警戒感も無く中道キャップのことばに左沢政治部長がぱくっと食いついた。
「オイ中道何を言っている——」社会部デスクのことばがうわずる。
(もう遅い——)
「お前は黙ってろ!」左沢が社会部デスクを制した。「北朝鮮と韓国に天狗騨とかいうヤツが何を言った?」
「もちろん社の方針に反することです」
「そんなことは解ってる! 具体的に言えと言っている!」
「いいんですか? それについても私が言っておきますが」中道はじらす。
「言えっ!」
「分かりました」中道キャップは頷き、話しを始める。
「——『北朝鮮と国交正常化しても一兆円支払う必要は無い』、と」
「なにィ⁉ 一千億円でいいと言ってるのか⁉」
「いいえ。びた一文も払う必要も無いと」
「ふ、ふっ、ふざけやがって! 侵略と植民地支配をなんだと思っていやがるっ!」
「あとそれから『民族学校は日本国内に存在しない方が良い』とも言っていました」
「野郎っ! 完全なヘイトだっ!」
「あとそれから、『〝徴用工問題〟で日本を攻撃する韓国は卑劣だ』とも言ってました。これらの件についても私から言っておきます」
「お前はいいっ! ヤツには俺が直接糾す! まさかこのASH新聞社内で右翼、極右、ナチス、ネトウヨ勢力が生きているとは!」
ちなみにこういうケースで使われる〝右翼・極右・ナチス・ネトウヨ〟なる語彙群は特段論理的意味は持たない。ただ単に『相手は絶対悪玉である』という意味を有する、仲間の中で通じる隠語のようなものである。
この時中道キャップはしてやったりと内心ほくそ笑んでいた。
常人には中々理解しにくいのかもしれないがここASH新聞社内においては北朝鮮及び北朝鮮系や韓国が非難されると我が身が傷つけられたかのような感覚を覚え激高する者は決して珍しくないのである。
中道キャップはこの特性を利用し、左沢政治部長を天狗騨記者という死地に誘引したのだ。
中道はチラと社会部デスクの顔を見た。
顔色が青ざめている。
(ざまあみろ)中道は思った。
左沢は政治部長であり社会部所属の天狗騨記者とは普段から顔を合わせているわけではない。しかし社会部のデスクは当然天狗騨が普段どうわめいているかなど聞きたくなくても聞こえてくるので知っているのである。
たった今中道の言った、
『北朝鮮と国交正常化しても一兆円支払う必要は無い。びた一文も支払う必要が無い』
『民族学校は日本国内に存在しない方が良い』
『〝徴用工問題〟で日本を攻撃する韓国は卑劣』
この全ては社会部デスクの知るところである。つまり『どんな質問をされるか分からない』という状態にはなく、予めどう答えたら切り返すことができるかという回答案を練られる時間的余裕は彼にはあるのである。
にもかかわらずその顔色が青ざめているのはこれらの天狗騨の言い分に対抗できるだけの言い分を未だに考えられていないということを意味していた。
(想定問答集すら作れまい)
社会部デスクは社会に出て優に20年を過ぎている。しかし社会人経験が長い割には人間というものが解っていなかった。
温和しい人間に対しては、何をしても温和しいままだと勘違いしていたのだ。
〝温和しい云々〟はあくまで人間の表層・表面を見ているに過ぎず、その心の内で実のところ何を考えているかなど外からでは到底解らない。温和しく見えても温和しくないこともあるし、本当に温和しい心を持っていても心の状態は永遠不変ではない。外部からの環境、外部からのストレスで変わってしまうのである。
人間をあまりに追い込みすぎるとある時点で豹変する。これを俗に『キレる』ともいう。
あまり思考というものをしない者は沸点が低そうな人間に対しては警戒感を持つものの、沸点が高い人間には警戒感を持たないのである。それが左沢に対しては腰が低いが、中道に対しては居丈高になるという社会部デスクの態度に現れていた。
沸点は高いだけで決してそれは『絶対にキレない』を意味している訳ではないにもかかわらず——
(天狗騨とやりあってあの弁護士達と同じ目に遭えばいい)
中道は己の内心を悟られぬよう懸命に無表情に勤めていた————
報復というものは必然的に実行されるものなのだ。
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