第十話【覚悟無き死刑廃止論者たち3 弁護士達の精神恐慌す。「イランイスラム共和国とサウジアラビア王国に通報しました」】
社屋の廊下を歩きながら中道は尋ねていた。
「部長、天狗騨のヤツはなにをやらかしたんです?」
「今日の社説は読んでいるな?」
「もしかして弁護士団体が人権擁護大会で『死刑制度廃止宣言』を採択したという方ですか?」
弁護士が絡んできている以上は当然こっちということになる。むろんASH新聞はその採択を猛プッシュする社説を書いている。それに天狗騨が最大限の異議を唱えていたのだった。
「そうだ」と社会部長は短く答えた。
二人はエレベーターホールへとたどり着いていた。下向きの矢印のボタンを中道が押した。エレベーターがこの階にやって来るまではまだ少々時間がかかりそうだった。
「天狗騨記者がその社説の載った本紙を持ってどこに取材に行ったと思う?」社会部長が訊いた。
(あ……)、瞬間的に中道に合点がいった。ほぼ同時に社会部長も口を開いた。
「イランイスラム共和国とサウジアラビア王国の大使館だよ」
(やっぱりあの〝さうじ〟はサウジだったのか)
「それでどうなりました?」
「どうなるもこうなるも想像通りだよ」社会部長は中道の顔も見ずそう言った。
「やっぱり、抗議が来ましたか……」中道は言った。
(今日の社説の大意は概ねにおいてこうあった。
『死刑廃止は先進国では当たり前のこと』
『国連委員会は死刑制度存置国に対し繰り返し是正勧告を発し、それらの国に注がれる視線は厳しさを増している』
『死刑制度存置国は時代の変化からも、世界の流れからも取り残されている』
ということは裏を返すとこういう意味になる。
『死刑制度を維持している国は後進国である』
『死刑制度を維持している国に対し国際社会は厳しい視線を送っている』
『死刑制度を維持している国は時代遅れであり且つ世界の中の反主流派でもある』)
「いま〝やっぱり〟と言ったか?」社会部長は中道キャップに尋ねた。
中道は内心(しまったな)と少々後悔したが今さら後の祭りでもあった。
「ええ」と中道は返事をし、そして思うところを正直に述べた。
「あの社説はずいぶんと注意深くは書かれていますが、それでも『死刑制度を維持している国は後進国であり当該制度を維持している国に対し国際社会は厳しい。死刑制度を維持している国は時代遅れで世界の中では反主流派である』と、そういう意味の事を言っています。これをそのまま宗教絡みで死刑制度を維持している国々にぶつけたら穏便には済まないでしょうね」
「まさかイスラムを挑発しに行く記者が我が社にいたとは」
「しかし部長、イランとサウジがこの件について我々になんらかの圧迫を加えてくる道理は解るのですが、どうして弁護士団体が我々に突っかかってくるんです?」
「文句は一番言いやすい所に持ち込むに限るってことだろう」
「え?」
「ま、今のは少々どぎつい冗談として、イランイスラム共和国、それにサウジアラビア王国と直接やり合うのが怖いんだろう」
(だったら死刑制度を維持している国を遅れた反主流派呼ばわりするのをやめておけば良かったのだ)中道は胸がむかむかとしてきた。
「そんなことよりそれらの国から我々も抗議を受けたんですよね? 我が社の対応はどうなっています?」
「情けないことに〝平謝り〟で乗り切るつもりらしい。内々にな」
「そうですか」
「〝そうですか〟とはまるで他人事だな」
「いえ、そういうわけでは」
「その一方で弁護士への対応については『君らの責任だ』と上層部に言われている」
「それは天狗騨が社会部だからですか?」
「もちろんだ」
ちょうどここでエレベーターがこの階に到着した。ドアが開く。二人は並んで乗り込む。社会部長が続きを始めた。
「こっちの方だってかなり面倒だぞ。なにせ相手は弁護士達だ。『密告によって我々の生存権を脅かした!』だとかなんとかわめいていてな、なんと五人ものお偉いさん弁護士が押しかけて来ている」
「散々自分たちが今までやって来た手を他人に使われると急に言うこと変えますか?」
「それを弁護士相手に言えるかね? さらに面倒なことになるぞ」
社会部長には中道キャップの言わんとしたことが即座に理解できたようだった。
それはつまりこういうことだ。
弁護士団体の行う運動には決まったパターンがある。国連委員会や国際人権団体に赴き日本で起こっていることないし価値観を、露骨な表現で言えば通報し、外国人と一緒になって外圧を日本社会にかけ、その外からの力で日本を変えようと動くのである。今回の『死刑廃止運動』も正にこのパターンに当てはまる。
今回、天狗騨記者もこの同じ手法を使ったのである。しかも通報先は死刑制度を維持し続けるイランイスラム共和国とサウジアラビア王国————
(イスラム教シーア派の総本山と、イスラム教スンニ派の総本山を巻き込むとはなぁ)
正にそれは『全イスラム教相手に』と言うのが妥当であった。弁護士への対応よりもその蛮勇ぶりの方に気をとられ、〝畏怖〟という感情の存在をもはや否定できない中道キャップであった。
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