第七話【覚悟無き死刑廃止論者たち1 『アドルフ・アイヒマン死刑』を非難できないヨーロッパ】

                  ◇

 中道キャップとて天狗騨記者にただ一方的に言われるままになっていたわけではない。彼は一応上司なのである。彼は彼なりに一応反論を試みていたのである。


「OECD(経済協力開発機構)加盟36カ国で死刑制度を維持し続けているのは日本とアメリカ、アメリカの中でも一部の州だけだ」中道キャップそう天狗騨に言い渡した。

「いわゆる『先進国で死刑制度を維持しているのは』というやつですね。ヨーロッパ発のこの手の非難はよく聞きますね。しかしどうでしょうね?」なぜだか天狗騨記者はニカッと笑っていた。


(なんだ? 天狗騨のヤツ、実際先進国で日本とアメリカだけだぞ。この事実を突きつけられて否定できると思ってるのか? ファクトなんだぞ)


「どうでしょうねってのはなんだ?」中道は訊いた。

「言ってることの説得力という問題です」

「相変わらず何を言っているのか解らんが」

「ヨーロッパ諸国はどの程度の覚悟があって『死刑制度廃止論』を外国相手に展開しているのでしょう、ってことですよ。私はたいした覚悟も無くたいそうご立派なことを言っているだけにしか見えません」

「覚悟はあるに決まってるだろ。彼ら欧州諸国の刑法には死刑は無いんだから。廃止する時は相当に覚悟が要ったはずじゃないか」

「ヨーロッパ諸国はイスラエルのアドルフ・アイヒマン死刑を未だに非難していません」


(は?)

 また素っ頓狂なことを言い始めたとしか思えなかった中道であった。




 アドルフ・アイヒマンとは人の名前である。職業・ナチスドイツ親衛隊(SS)中佐。第二次大戦中のユダヤ人大量虐殺において、命令を出す側ではなく出された命令を実行する役、中間管理職の立場での責任者だった男である。

 戦後、逃亡先のアルゼンチンでイスラエル秘密警察に逮捕され、エルサレムで裁判が行われた。判決は死刑。1962年に執行される。

 自国の主権が及ばない外国での拉致監禁・誘拐まがいの逮捕劇。そして死刑制度が無い筈のイスラエルでなぜか執行された死刑。様々な角度から物議を醸した事件であった。

 ただ、「仲間が大勢虐殺されたんだ」、とその心情は酌まれ、なんとなく突っ込みづらい事案でもある。




「まさか『アイヒマン死刑』を今現在の『死刑を廃止すべきという価値観』に照らし合わせて非難しろと?」

「そうですよ」

「あのアイヒマンをかばうつもりか⁉」

「『気に食わないヤツなら例外的に殺して構わない』と言うのが死刑廃止論者ですか?」

「いやそういう意味では……」

「『気に食わないヤツであっても死刑には反対だ』、これを言ってこそ本物でしょうが!」

 天狗騨記者はここで静かにすっと息を吸った。


「過去の反省もせず顧みることも無く不都合な例外を見ないことにして『今からルール変更ね♪』が通じると思ってるんですかーっ!」それはかなりの音量だった。気圧され中道は思わず同意してしまった。

「うっ、うん、至極もっともだ」

 〝過去の追求〟は、やらずにはおれないASH新聞記者としての性なのである。

「そうでしょうとも! 『死刑廃止が善』とするならば過去執行されてしまった死刑に対する反省と追求があって然るべきだ! なぜヨーロッパ諸国は『死刑廃止』という価値観を持っているのにイスラエルを非難できないんですか⁉」

「ちょい待て! 諸国なのか? 欧州諸国がよってたかってイスラエルを悪玉にしろと言うのか?」

「なに言ってるんです⁉ 善とか悪とかじゃない。討論です! だからもちろん『非難に従え』という意味にはなりません! 討論なのだから反論すればいいだけですよ! イスラエルはイスラエルで死刑を肯定すればいいんです!」

「イスラエルを死刑制度肯定側に入れるのか⁉」

「今頃になって死刑を否定するとおかしなことになります! つまり『あれ(アイヒマン死刑)は過去の過ち』ってことになりますから、当然死刑制度肯定国ですよ‼」

「そんな話しをすればユダヤ人団体が黙っていない! 反ユダヤ主義というんだ、それは!」

「どこが反ユダヤ主義ですか? 『今現在の価値観で過去を裁く』、私はこれを肯定しているんですよ! それは『人道に対する罪』という〝後から造られた罪〟の存在を肯定しているってことですよ! 新たに造った価値観で過去を裁いたからこそナチスの高官に罰を与えることができたわけです! それともまさかこの価値観を否定するつもりですかーっっ!」



 『今現在の価値観で過去を裁く』。これを否定してしまった場合、『東京裁判』をも否定することに繋がってしまう。これは『東京裁判否定論』の黄金パターンであった。中道もASH新聞記者である。彼には否定することはできない。ここで、もはや彼には反論の糸口が無くなっていたのである。それを知ってか知らずか天狗騨記者はずいと中道キャップに迫る。



「ここは今一度強調しておきますが、後から造った価値観を適用することでナチス高官を裁くことができた。ならば後から造った『死刑否定』という価値観で『アドルフ・アイヒマン死刑』を非難するのもアリではないですか? これをやってこそ五分と五分、これをしてこそフェアネスというものです。なのにヨーロッパの国々はなぜ言えないんでしょうか? イスラエルが怖いから? ユダヤ人が怖いから? 理由は分かりませんが『言いやすい者にしか言えない主張』というのは本物の主張ではない! 覚悟無き主張です! そんな主張に人を動かす力など無い!」


 天狗騨はさらにずずいっと中道に迫ってきた。


「『言いやすい者にしか言えない主張』ってのは要するにイジメです。弱い者相手にはできるが怖い者に対しては同じことはできない。こういう存在を私が許せると思いますか? 私はイジメ撲滅のため、社会正義実現のために社会部の記者になったんですよーっ!」


 天狗騨記者の決め台詞がここで来た!


 これを口にしたとき天狗騨はかなり怒っているしかなり怖い。狂気のオーラはもう隠し切れていない。

 そのことを理解している中道は心の中であわあわあわとしているだけだった。


 『先進国では死刑廃止は当たり前〜』、社説のノリでよりによって天狗騨にこんなつまらないこと言わなければ良かったと思ったが、この時はもはや後の祭りだった。

 ちなみに、OECD(経済協力開発機構)加盟36カ国の中にイスラエルは含まれている。

                  ◇




 中道キャップは天狗騨記者が帰社するまでの間、必死になって天狗騨追求を諦めるよう左沢政治部長の説得を今なお試み続けている。

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