第二章 天狗騨記者という男

第五話【『太地町のイルカ』と『辺野古のジュゴン』】

 ヅカヅカヅカヅカヅカヅカ——


 天狗騨記者が外へ飛び出して行き、その僅か数分後、それと入れ替わるように中道キャップのいる社会部のフロアに一人の男が肩を怒らせながら踏み込んで来た。中道はすぐその男の存在に気づいた。

「ここに天狗騨っていう社員はいるか⁉」男は怒気を隠そうともしない大声を発しながらフロア中を歩き回っていたから当然誰でも気づく。


(見なれない男だ)


(顔は元々赤ら顔なのか怒りで赤くなっているのか、沸点の低そうな男だ。あまり接点を持ちたくないタイプだな)


(ああいった気の短そうな男が天狗騨とやり合ったら大変なことになる。入れ違いになったのはこれ幸いだな——)


 男は社会部長の机の前まで行って「天狗騨」を連呼している。


(ウチの部長とタメとは。ずいぶん偉いのか)、とも中道は思った。事実男は若造ではなく相応の歳に見えた。


(天狗騨ねぇ……)


(まさか上役だからと社内の階級であの天狗騨を押さえ込めると思っているのか? 人間に付いてる〝肩書き〟ってのがアイツにはまるで役に立たないってのにな。舐めているととんでもない目に遭う)


(ああいうのはおおかた〝政治部〟辺りから来たんだろう)わざわざここにやって来た理由は中道には容易に想像がついた。

(天狗騨に用があるようだから間違いなく国立追悼施設絡みだな——)

 中道は改めて自身の職場であるフロアを見廻す。

(アイツの〝言いぐさ〟を誰かから聞いた……いや、誰かがわざわざ通報したんだろう。ずいぶん忠誠心の高いことだ)


 男は今もまだフロア中に届く声で「天狗騨!」「天狗騨!」わめいている。


(ま、運の良い男だ。天狗騨に遭遇しなかったのは。以前アイツが論説主幹すら恐怖に陥れた一件を知らないんだろうか? 確かにアレは内々で処理してしまったから知らない人間は知らないだろうが人の口に戸は立てられない。噂話くらいは耳にしているだろうに)


(ともかく俺には関係ない)そう思い中道は目の前の消化必須の業務に取りかかる。


「オイ」

 唐突に横柄な声が上から降ってきた。

 中道が見上げると件の赤ら顔の男がすぐ目の前に立っていた。

「あなたは?」

「お前が天狗騨とかいう社員の上司だろう? どこへ行った?」

 まったく中道の質問に答えようとする素振りも無い。

「失礼ですがどのようなご用件で?」中道が慇懃無礼気味に訪ねると赤ら顔の男はもう怒りを露わにして「政治部長の左沢(あてらざわ)だ! 俺が訊いているんだっ!」


 中道は少しだけ考える素振りをした。


「天狗騨の件でしたら部長(社会部長)かデスク(社会部デスク)にお願いしたいのですが」

「その社会部長とデスクがお前に振ったんだよ。直属の上司に訊くのが話が早いってな」


 中道は社会部長と社会部デスクの方へ視線を送る。まったく素知らぬ振りであった。


(上司のくせに面倒ごとを部下に押しつけるのか……)


「それよりお前、〝天狗騨の件〟と確かに言ったな?」

「はい。キャップですから部下の言動についてはむろん把握しています」

「お前、キャップなら部下の管理くらいしておけ!」左沢政治部長が中道を怒鳴りつけた。

「お言葉を返すようですが現実問題として、彼が何を言おうとそれが本紙の紙面に反映されることはありませんが」

「だから放置しろと?」

「むしろ放置しておいた方が安全です」

「どういうことだ?」

「名は体を表すですね。彼の名字は『天狗騨』ですが、正しくその通り。人間じゃありません。天狗です。妖怪みたいなもんです。そう思ってください」

「言ってる意味がまったく解らんが」

「早い話し一種の危険人物です。深入りせず適当に泳がせておいた方が平穏です」

「ふざけるな! 社論というものを無視して組織が成り立つと思っているのか⁉」


(やれやれ、『多様な意見を尊重する社会の実現を』とか言いながら社内ではこれか。『天狗騨の主張など紙面に反映されない』では納得できないのか)


「ですから、天狗騨と関わるのはやめておいた方が良いですよ」

 それは中道キャップの心底からの親切心だった。さらに中道は続ける。

「ウチの部長とデスクが私にこの話を振ったのはそれほど面倒ごとに巻き込まれるのが嫌だからなのです」

 そう言ってささやかな報復(上司の悪口を他人に言う)をしてみせた中道キャップであった。だがしかし——

「なに⁉ 俺が面倒だと言うのか⁉」


(仮にも新聞記者なんだから文意は掴んで欲しいな……)


 とにもかくにも面倒くさいという感情が今の中道の中の大半を占めつつある。


「違いますよ。天狗騨のことです。彼とあんまり関わり合いにならない方がいいですよ」と念を押すように付け加えた。まだ全ては消えたわけじゃない親切心から中道はこう言ったのだった。


(そもそもあんたは余所の部なんだからな……)


 しかし中道キャップがそこまで言っても左沢政治部長にはまるで立ち去る気配は無い。しかたなく中道は、

「記者が取材で外に出たからには何時戻るかは解りませんよ」と、言外に立ち去るよう伝えたのである。しかし左沢は、その心遣いを感じ取る様子も見せず、

「じゃあ戻るまでココで待たせて貰う! 俺はヤツにどうしても言わねばならんことがある!」とまで息巻いている。


(こっちはさっきも〝内心の自由〟でさんざん苦労したばかりだってのに……こりゃ納得させるような説明をしないと何時までもこのままここに居座られるぞ)


「ではやめておいた方が良いという理由を説明します」

「フン、この社内に漂っている都市伝説か? あんなデタラメなど」


(それを知ってて関わろうとしているのか?)


「それは〝都市伝説〟じゃありません。おそらく全部事実です。たぶんそのほとんどに私が立ち会う羽目になった筈です」

「〝はず〟じゃ話しにならんな」


 中道はその物言いに直接反応はしなかった。彼は別のことを考えていたからだ。天狗騨の怖ろしさをこの男に伝えなければ事態がどこまで荒れるか分からない、と考えたのだった。

(余所の部の内情は解らないが『天狗騨という問題記者がいる』という程度の認識しか持ち合わせていないのでは、自ら進んで災難を引き受けるようなものだ)


(とは言え天狗騨がこれまでやらかしてきた諸々のエピソードの数が多すぎてどの話しをこの政治部長様にしたら良いのか考慮を要する。最大の効果をあげるには最もインパクトの強いエピソードを選ぶ必要があるが……)


(決めた)

 中道は選んだ。


「天狗騨という男はアメリカ合衆国政府に対しても全く怯まない、日本人離れした人間です」

「俺は怯んでないぞ!」

(なにもアンタに言ってない)

「一般論ですよ。政界も経済界もどこかアメリカに対しては怯む傾向があると、そう感じているでしょう? よく連中がアメリカの無茶な要求に譲歩する姿を目の当たりにさせられているじゃないですか」

「天狗騨という一社員がアメリカから要求を突きつけられるとでも言うのか⁉」

(解ってないな)

「『逆だ』と言おうとしていました。アメリカ政府に要求を突きつけたのが天狗騨です。日本の政界や経済界がアメリカに要求を突きつけますか?」

「それはどんな要求だ?」

「以前の駐日大使の発言を覚えていますか? SNSに和歌山県太地町のイルカ猟を非難する投稿をしていましたよね?」

「それに怪しからんと文句を言ったのか? 大したことじゃ無いな」


(やれやれ、その『大したことじゃ無いこと』を我が社はやらなかったのだが……)


「天狗騨の言うことはそれとは少しずれているんです。アメリカの駐日大使に『辺野古のジュゴンも守るよう意見表明すべきじゃないですか』と言って取材を申し込みました。むろん断られましたがね」

「へのこの……じゅごん……? 辺野古って普天間基地移設問題の辺野古か?」

「もちろんですよ。他にどこがあります?」

「なんの関係がある?」


(やれやれ、そんなことも解らないで新聞記者か……)


「いいですか。イルカってのは海洋性ほ乳類ですよね? ジュゴンも同じく海洋性ほ乳類なんです。ちなみにクジラもそうです。海洋性ほ乳類を保護するのが正義ならジュゴンの餌場を消滅させる行為である辺野古埋め立ては当然悪だということになります」

「つまり駐日アメリカ大使に『辺野古埋め立て』を非難させようと煽ったってのか?」


 辺野古埋め立て。それはもちろん普天間のアメリカ海兵隊基地を移転するために埋め立てているのである。


「まあ煽ったというのはことばとしてどうかと思いますが、でもここの部も事なかれ主義でしてね。天狗騨に『止めておけ』と、部として諭しはしたんですが、まあ止めるはずもありません」

「君はどう思っているんだ?」

「散々クジラやイルカで『海洋性ほ乳類を殺す悪い日本人を許すな!』とやってきたのがアメリカ人ですから、人間としての良心があるのなら辺野古のジュゴンに対しても同様のアクションがあるべきと考えますね」中道は率直にそう言った。

「ほう」

「これにはさらに続きがあります。当然アメリカはそんな趣旨の取材要請は無視するわけです。アメリカは不都合な質問には回答を示しません。以前アメリカ大使館のサイトに短文SNS程度のメッセージが送れるフォームがあったのですが、天狗騨は執拗に『太地町のイルカと辺野古のジュゴン』の事を書いて送りつけていましてね、アメリカで政権交代が起こる直前でしたか、アメリカ大使館のサイトからそのメールフォームが消えていました」

「それが天狗騨という男のせいだと?」

「まあそれは断定できませんが消えたのは事実です」


 これで天狗騨記者という男を理解してもらえたと、少なくともこの時中道キャップは信じていた。いや、信じ込んでいた。そんな中道キャップはまったく気づかなかったが、この時左沢の目には暗い光が宿っていた。


「ずいぶんその天狗騨っていう部下に入れ込んでいるようじゃないか」左沢政治部長はそう口にした。


(なんだ? 共感ゼロか? 『辺野古埋め立て反対』は我がASH新聞の総意じゃなかったのか?)


(そうか。天狗騨に攻撃されたのがアメリカ合衆国政府だから、だから『攻撃される側』としての立場が実感しにくいのか……)


(じゃあなにか別のエピソードじゃないとダメか。なにかないか……)中道キャップは選択肢を頭の中で並べ始めていた。


 中道はずいぶん甘い男だった。

 靖國神社を心底憎悪する左沢という男が、たとえその内心がどのようなものであったとしても、靖國神社に塩を送るような言動を遠慮なくやってしまう天狗騨記者の存在を許せるわけがなかったのだ。

 しかしそんな他人の内心など露知らず、ただ今も中道キャップは別の天狗騨伝説を頭の中で検索中である——

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