第3話 「失くしてしまったキーホルダー」


「ただいま」

 空っぽの部屋に言うのが当たり前だった。

「おかえりなさい」

 でも、安藤さんが迎えてくれるのにも、もう慣れた。今日の安藤さんは、コンセントの近くに正座して、ちょうど充電している所みたいだ。

「安藤さん、ただいま」

「夕ご飯は、もう少し待っていてください。あと三十分ほどで、チャージ完了しますので」

 夕影の差し込む部屋、安藤さんの影が大きく天井にまで伸びる。もうすっかり、安藤さんもこの家に馴染んだみたいだった。家事をこなして、暇なのか、私が帰ると時折、安藤さんは昼寝をしていることがある。

 長い髪を結ばずに眠るので、安藤さんはまるで死んだ人間みたいに見える。髪を身体の下敷きにして、起き上がった時、痛っと小さく呟く。アンドロイドに痛覚があるのかは、、知らないけれど。

「今日、メールが届いていましたよ。読み上げますか?」

「メール? 誰から?」

「加藤梓さまからです」

 ああ、と心で得心する。もうそんな時期か、とも。

「待ち合わせの場所と時間は?」

「駅前の喫茶店、土曜日の正午です。お昼を済ませてこないように、ともあります」

 いつもの場所、いつもの時間、そしていつもの文面。変わらないな、と思う。必要最低限のことだけ書いて、だけど、決して全てを話すわけではない口調。お昼は済ませないように、じゃなくて、一緒にご飯を食べよう、と言えばいいのに。

「分かった。ありがとう、安藤さん」

「あの、これはお伝えしていいのか、悩みましたが、お話しすることに決めました」

 安藤さんの顔が、夕暮れの暗い影に隠れる。

「何の話?」

「梓さまの伝言ですが、メールではなく、本当は純ちゃんが出かけたすぐ後に、直接、こちらにお見えになって、おっしゃられました」

「お母さんが、ここに?」

「はい」

「きっと、近くに来ていたんだよ」

 私はやさしく諭すようにして、安藤さんの懸念を拭い去る。私のお母さんについて何も知らない安藤さんは、これで何も言えなくなるはずだ。

 これは、お母さんと私の話。安藤さんには関係ない。


 失くしてしまったキーホルダーがある。

 父が、一度だけ連れて行ってくれた水族館で、かわいいピンクのイルカのキーホルダーを買ってもらった。本当は、ペンギンのぬいぐるみが欲しくて、だけど、言い出せなくて、私はすぐ近くにあった、そのキーホルダーを指差した。

「高いのでも、大丈夫だよ」

 父は、委縮している私を見かねてか、そう言ってくれたけれど、幼い私は頑なに首を振るだけで、欲しくもないイルカを欲しがった。

 父の、がっかりした顔を覚えている。

 きっと、父も私に何か大きなものを買い与えたかったに違いない。一年に一度、会えるかどうかの娘に、思い出になるものを。

 私は、父と会うたび、お母さんの話を食い違う、二つの影におびえていた。お母さんの話の中で、父はおとぎ話の恐ろしい魔王のようであった。周りのみんなを苦しめて、それでも自分だけはのうのうと笑い、暮らしている。

 一方で、私の目の前に立つ父は、いつもやさしく、優柔不断で、気が弱く、例えお酒が入ったとしても、誰かを傷付けることなんてないだろうと思った。

 私は、そんな父の仮面がいつ剥がれ落ちるのか、と不安だった。今、私に見せている笑顔は偽物で、油断した私を取って食うつもりなんじゃないかって。

 母は、父に私を預けると逃げるように、仕事へ行ってしまったし、そうして送り迎えをしてくれたのも、初めの一、二回ほどで、あとはお小遣いをくれて、待ち合わせの喫茶店に行くように言うだけだった。

 お母さんは、私を父に食べさせようとしているのかもしれない、と幼い私は本当に震えた。それは拙い、子どもの妄想だったのだけれど、今もわずかに残る、心の傷跡に私はまだおびえることがある。

 二人が夫婦であり、私の両親であるということに、私は最後まで慣れることがなかった。父と母は私の前で面と向かって、言葉を交わすことはなかったし、隣に並んで立つということも極力避けていた。

 二人の人生の交点に、私がたった一人、立っていること。それが不思議でたまらなかった。

 水族館へ行った日の帰り、駅で父と別れ、わびしい夕暮れの中を、私は一人で歩いていた。

 多分、あの時の私は怒っていたのだと思う。父の煮え切らない態度と母の心ない言葉の数々に、私は心底うんざりして、そして、それに振り回される自分に、どうしようもない苛立ちを覚えていた。

 道が川に差し掛かった時、私は橋の上から、きらきらと光る水面を見ていた。夕陽を反射して、痛いくらいに眩しい夕焼けに、私は舌打ちして、父が買ってくれたキーホルダーを投げ捨てた。

 キーホルダーは光の波間に音もなく、消えていった。

 私はそれでいいんだ、と思った。

 二年後に父と会った時、父の携帯電話にはお揃いのキーホルダーが付いていた。私はそれを見ても、何とも思わなかった。むしろ、いやらしいと嫌悪さえした。お母さんに内緒で買った、娘とお揃いのキーホルダーを嬉々として付けている父を、私は嫌ったのだ。こそこそとした態度や、母をのけ者にする卑しさを。

 そんな私の幼い心の潔癖さは変わらず、今もあり、自分が大嫌いな理由の一つでもある。

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