秋風の憂鬱

もざどみれーる

秋風の憂鬱

 それは、珍しく虫の声もせず、まるで星の足音さえ聞こえてきそうな、静かな秋の夜の事だった。残業を済ませた仕事からの帰途、私は思いがけず、高校時代の旧友に出逢ったのである。

 彼、塚野つかの晴比古はるひこ大分だいぶ酔っている様子で、ただだらしなく

「よぉ、村越むらこしぃ」

 と私の名を呼んだなり、そのまま道端にはたと座り込んでしまった。

「ほら、他に誰か通るかも知れないから」

「ハッ、誰が通ったって構うもんかい」

「お前が構わなくても、俺が構うんだ」

 私がそう言うと、塚野は

「『俺が構うんだ』かぁ。そいつぁちと、変な日本語じゃねぇか」

 と、私の表現の不巧まずさを指摘した。なるほど、確かに彼の言う通りだったかも知れないが、下手に面倒を起こすよりも彼をその場から立たせる事の方が先決だと判断した私は、半ば無理やり塚野を抱き起こして傍らにあった電柱にもたれかけさせた。

「あぁ、サンキュー、サンキュー」

 よく通る声でそう呟きながら、この四十男は脚や尻についた砂をようやく丁寧にはたき落とし始めた。

「いやぁ、全くだねぇ……全くだよ」

 私は一体何が「全く」なのか測りかねたので、ただ

「何が」

 とだけぶっきらぼうに応じてみた。

「こんななりをしていたって、駄目な男はトコトン駄目だって事さ。人間なんてぇのは、やっぱ中身だぁね、うん。……ところで、お前さんの方は最近どうだい」

 塚野は確かに単なる酔っ払いにしておくには勿体無いようななりをしていた。電柱の灯りに照らされたその目鼻立ちの整った顔は、昔日のそれそのものと言って良いほど若々しかった。血色の良い、幾分紅揚こうようした肌の艶は、決して酒のせいばかりとは思われない。見た目良く二重ふたえになったまぶたや肉のほとんど垂れていない頬は、疑い無く彼を麗しいたぐいの人間として今夜も造り上げていた。

 それから塚野は、未だにいささか要領を得ず黙っている私に軽く舌を打つと、先ほど感じた麗しさからは多少の隔たりを認めざるを得ない薄手のデニムシャツの袖をさすりながら、再び古風な言い回しで尋ねてきた。

「お前さんの方はどうさね」

「どうって、何が」 

「おいおい、そんな突っ慳貪けんどんに『何が』ばっかり繰り返すなって。こちとら別に喧嘩売ってるわけじゃねぇんだから」

「そりゃあ、久しぶりに逢っていきなり喧嘩を吹っ掛けられた日にゃあたまったもんじゃないだろう」

「ハァ、全く要領を得ない奴だなぁ」

 と、私が塚野に抱いていた思いを、そっくりそのまま彼から返されてしまった。そして私が苦笑いを浮かべているうちに、私の近況など別にどうでもよくなったのか、彼は頼まれもしないのに滔々とうとうと自分語りを始めた。

「ウチの会社はもう駄目さぁね。親父からいで間もない頃が懐かしいな。……フロアも広くて、社員だって何十人といたんだぜ。それが、今じゃどうだ。ろくに客も入らねぇ床屋の二階に小ぢんまりした事務所を間借りして、俺とカミさんの二人きり。おまけに、一体何処で道を踏み違えたんだか分からねぇ。分からねぇから直しようがねぇ。……全く世知辛いもんだぞ、世の中ってぇのは」

「うーん、そんなもんかねぇ」

 と私が相槌あいづちを打つと、彼は

「そんなもんだ」

 と簡単に応じた。それから私をジロジロ見るなり、こう言った。

「なるほど、お前は大層ご立派な勤労サラリーマン様かも知れないが、世間には急転直下ってのがあるもんだ。……いやいや全く、全くご用心あるべし!」

 そう言い終わらないうちに、塚野は凭れかけていた電柱からフッと背を放して、向かい合った私の右肩すれすれを、別れの挨拶も無いまま私の家路とは反対の方向に進んでいった。


 塚野との世間話にどれくらいの時間を費やしたのだろうと思い、スーツの袖口を軽くめくりあげて時計を確認してみると、その僅か五、六分にしか満たない事に気づいて少しばかり驚いた。

 それにしても、残業で疲労を覚えていたはずの身体が、塚野と詰まらぬ言葉を交わしていたその時だけは幾分軽くなったように感じたのは何故だろう。……旧友というものは、ここまで心身に浮力を与える存在だったのだろうか。「話に興じる」という程度ですらなかったにせよ(敢えて言うなら、私はほとんど彼の愚痴を聞かされていただけである!)、同じ時代を同じ場所で過ごしたというその事が互いの人間に与える快い影響は、ひょっとしたら私の想像以上に大きいのかも知れない。

 そうして今、私は、いつしかひんやりと鳴き始めた季節の風と共にこの場に取り残されて突っ立ったまま、つい今しがたの経験のちょっとした風情ふぜいに浸っている。ただその体験を

「酔っ払いの旧友に出逢って愚痴を聞かされたが、思いのほか良い夜だった」

 等と表現してはいくらなんでもあんまりだろうから、私は声を低くして、ちょいと詩的にこう言いたいのである。

「秋風の憂鬱に、星の輝く夜だった」

 と。

 だが、そんな事を想う度に、私の頭の中にあの端正な酔っ払いがやって来ては、ただ一言、こう言って退けるのだ。

「そいつぁちと、変な日本語じゃねぇか」

 電柱など物ともせずに強くヒューッとよぎり始めた秋夜しゅうやを背に、私は独り、温かく静かに微笑した。


 秋風の憂鬱に、星の輝く夜だった。


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