第46話 伏兵の奇襲

 見上げると、木の枝に腰かけて長い脚を組み、飛鳥が微笑んでいた。手に持った白い紙きれのような物に火を点けて灰にし、真っ赤な唇をすぼめてふうと吹き飛ばす。これもまた、ツボ押しの一環である。


「あなたたちはバカにするけれど、ツボだって十分効果があるのよ。あなたたちが佳弥と幸祐クンにかまけていてくれたおかげで、好き放題ツボを押せたわ。」


ふふふ、と笑って、飛鳥はふわりと庭園に降り立った。ハイヒールが敷石を打ち、小気味の良い音を立てる。


「美術館の連中は全滅よ。溜まっていた魔もあらかた拡散しちゃったわ。」


「アンタがあっちに回っていたのか。ちっ、三人がかりでやられちまうとは、情けねえ。」


「実質的に二人だったわよ。あんまり責めないであげて頂戴。」


飛鳥は意味ありげな笑みを口元に湛えた。幸祐が、あー、と何とも言えない顔をする。飛鳥はその傍らに立ち、ぽんと背中を叩いた。


「よく頑張ったじゃない、幸祐クン。」


「ええと、はい、まあ。」


「彼のことは、後はあたしに任せて頂戴。先日の借りを返さないと、腹の虫が治まらないもの。」


ふふふ、と飛鳥は声を立てるが、木俣を見据える長い睫の下の目は全く笑っていない。


 木俣はちっと舌打ちをした。江藤を軽く一瞥し、すぐに飛鳥に目を向ける。


「おい、江藤。全部散ったわけじゃねえだろ。急なツボ押しじゃそこまでの効果は無いはずだ。」


「はい。追い返されて残っている部分があります。」


「別ルートで、直に標的に注ぎ込め。標的のあの様子なら、少しでもマラが入り込めば効果が出るだろうよ。」


 確かに、と佳弥も思う。禿さんは、綺麗な女性にお酒を注がれて、魔が来なくたって篭絡されそうな勢いだ。


「俺はあいつの相手をする。お前に手を貸す余裕はもう無いからな。嬢ちゃんと坊主の対処もしておけよ。」


「はい。」


「いいか、お前にゃ実力はあるんだ。最後まで諦めんなよ。」


「…はい。」


 江藤は木俣の背を見つめて、こくりと頷いた。そういう良い感じの先輩後輩感は、悪事と程遠いところでやってくれ、と佳弥は思う。


 その佳弥の視界から、ふっと飛鳥が消えた。と思った直後、木俣の背後に現れた飛鳥は強烈な踵落としを木俣に当てる。


「これは、ほんのご挨拶よ。」


飛鳥は唇に指を当て、うふふと笑う。木俣は両膝を折って地に着いたが、そのまま一旦地面と同化して飛鳥と距離を置いた位置に姿を現した。飛鳥はすぐにそれを追う。距離を置こうとする木俣と、追いすがる飛鳥はたちどころに木々の間に消え、時折梢を鳴らす音が遠くから届くばかりになる。


 佳弥は背後の林から江藤に視線を戻した。これで江藤さえのしてしまえばこちらの勝ちである。さてどう調理してやろう、と佳弥は構えたが、江藤は佳弥に見向きもしないで陰の中に消えてしまった。


「江藤さんどこ行っちゃったんだ?」


 佳弥の横に並んで、幸祐も辺りをきょろきょろと見渡す。


「どこかに隠れて、魔を禿さんに流し込む作業をしているんでしょう。」


「禿さんって…ああ、あの人か。」


幸祐は室内をのぞき込んで納得する。それからすぐに首を傾げる。


「でも、あの黒い塊、何だ?」


「隅に置いてあるやつですよね。さっきは確かめる暇がありませんでした。電気網を飛鳥さんが踏むといけないし、コンセント抜きがてら、ちょっと見てきます。」


 佳弥はからりとガラス戸を開け、部屋をぐるりと囲む廊下に上がった。給仕をする仲居さんの邪魔をしないように気を付けながら、コンセントから屋根の上の電気網のプラグを抜く。


 ふっと背後に気配を感じて、佳弥は首をすくめた。頭上を黒い影が勢いよく薙ぎ払っていく。振り向いたが、江藤本体は見当たらない。どこかにいるはずだ、と佳弥は警戒する。その正面からすっと黒い影が伸び上がった。来たか、と佳弥は構えたが、前面に気を取られたその隙に背後から思い切り突き飛ばされた。不意を突かれ、佳弥は床にうつ伏せに転がる。


「これまでの恨み、晴らさせてもらいます。」


 低く抑えた声が上から聞こえた。と思う間もなく、背中を踏みつけられて動きを押さえられた。しかも、意趣返しのつもりか、手錠らしきものを後ろ手にはめられる。


「このまま指をくわえて見ているが良い。」


「指もくわえられないじゃないですか、この姿勢では。」


腕を動かせないので、指なんて口に運ぶことができやしない。逃げようとしてもがきつつ憎まれ口をたたいてみたものの、佳弥は目の前の畳に魔がすうと湧き出てくるのを目にして動きを止めた。魔の量は少ない。が、薄く、広く、絹の薄衣を広げるように廊下と部屋の畳を覆い隠す。佳弥の目と鼻の先を魔が流れていき、佳弥は思わず息を止めてそれを見守った。


「佳弥ちゃん!」


 幸祐が慌てて入って来ようとしたが、佳弥は大声でそれを制した。


「市川さん、畳に上がっちゃ駄目ですよ。お正月に帰省するお金が無くなりますよ。」


「何の話だよ!」


「また魔を吸い込みたいんですか。もう面倒見てあげませんよ。」


佳弥に言われて、幸祐は畳の表面を凝視した。魔は薄すぎて、遠目では確認しづらい。漸く床一面に魔が広がっていることを認識した幸祐は、ぎょっとしたように立ち尽くした。


 その間にも、魔はゆっくりと禿さんに向かって流れ、音も無くゆるゆると吸い込まれていく。それと時を合わせて、禿さんの目の輝きが少しずつ失われていく。ひどく自信が無いような、不安なような、考えがまとまらないような、そんな表情になる。美女にお酌をされても、半分上の空である。


 人造スマイルが接待相手のこの微妙な変化に気付かぬはずも無く、笑顔の上塗りをしたかのような濃密な笑みを浮かべた。


「市川さん、こうなったら禿さんを直接ぶちのめしてください。それしか手はありません。」


畳の上の魔が薄く小さくなってきたのを見計らい、佳弥は幸祐に声を掛けた。禿さんの様子からして、やらかすのは目に見えている。


「えっ、普通の人を、ぶちのめすの?」


「ここまで来て、これまでの努力を無にするつもりですか。私のことはいいから、早く!」


そこまで言って、佳弥はごすっと後頭部に衝撃を感じた。佳弥を踏みつけたままの江藤が殴ったらしい。殴られた勢いで鼻を床にぶつけて、裏も表も痛い。


「邪魔をするな。」


佳弥と幸祐に、江藤が冷ややかな声を浴びせる。幸祐は廊下に上がったところで動きを止めた。江藤は明らかに殺傷力のありそうな刃物を佳弥のうなじに突き付けていた。何だ、どうしたんだ、と自分の背後を見ることのできない佳弥が頭をもたげると、首筋に鋭い痛みが走る。いでっと声を漏らして、佳弥は頭を下げた。何となく状況は掴めた。


「動かない方が良いですよ。あなた方は我々と違って、本当に死にますから。」


「いくらなんでも、それはやりすぎだろ。」


「何とでも言ってください。おとなしくしていれば危害は加えません。」


 佳弥は頭を上げないように気を付けながら、目だけで様子を窺った。部屋中を覆っていた魔は今や完全に禿さんの中に全て収まり、禿さんは益々自信喪失の体でいる。


 あれ、と佳弥は心の中だけで声を上げた。さっきはエアコンのそばにあった黒い塊が、心なしか禿さんに近寄ってきている。いや、心なしか、どころではない。確かな足取りで、ひたひたと迫っている。二本の足が見えてるし。靴下の感じからすると、大人の男性だ。どうも、佳弥のように全身黒衣に包まれているのではなく、変身していない人が黒い大きな布をすっぽりとかぶっているだけのようだ。


 何だか正体は分からないが、この状況でのあの動き方、少なくとも佳弥をどうこうしようという意図は感じられない。むしろ、禿さんを殴りつけてもおかしくない距離に鎮座している。もしかしたら、味方かもしれない。そうでないとしても、今はその可能性に賭けるしかない。


 佳弥はじたばたともがいた。首を動かすと痛そうだから、そこは注意を払う。江藤が黒い塊に気付いているのかどうか分からないが、意識を逸らしておいた方が良いだろう。


「動くんじゃない。刺さったらどうする。」


「刺したいんでしょ。」


「人殺しはしたくありません。」


江藤の真っ当な回答に、真面目な奴だと佳弥は感心する。が、感心してばかりもいられないので、刺さらない程度にもぞもぞ動き続ける。


 香ばしい香りの美味しそうなお肉料理を目の前にして、禿さんはうなだれている。と思うと、すがるようにして人造スマイルを見つめた。


「…本当に、私が漏らしたとは、誰にも伝わらないんですね?」


「もちろんです。我々は一蓮托生ですから。あなたの不利益になるような真似を私たちがするはずもありません。」


禿さんは暫し口をつぐみ、幾度か生唾を飲み込んだ。それでは飽き足らず、盃の酒もぐっとあおる。酒臭い息を大きく吐いて、禿さんは姿勢を改めた。


 と、その時、辺りをはばからぬ怒声が空気をつんざいた。


「馬鹿者!」


禿さんは細い目をカッと見開き、弾かれたように背筋を伸ばした。江藤も、幸祐も、お酌の美女も、人造スマイルも、その場の誰もが驚き、辺りを見回す。唯一の例外が佳弥である。黒い塊が、禿さんの耳元で大声を上げる瞬間を見届けていたのである。


「君はそんな人間ではないはずだ。私は知っているよ。君はとても熱心で、心根の優しい人だ。」


「し、渋谷部長…?」


おたおたと、何故かおしぼりを手に握りしめたまま禿さんは腰を浮かして左右を見渡した。だが、黒い布のせいか、その塊を認識することができない。


「君を信じている人たちを、君が大切にしている人たちを裏切るような真似をしてはいけない。そんなことをしたら、君自身の記憶が君自身を縛り、傷つけることになる。君は愛する人たちを守ることができなくなる。君には苦しみしか残らない。そんなことは、あってはならないんだ。もっと自分を強く持ちなさい。君はそれだけの能力も価値もある人間だよ。」


「そ、そうでしょうか…」


「そうだ、君が新採の頃からずっと見てきた私が言うのだから、間違いない。私は君を信じている。」


禿さんは、姿無き声に向かってしょんぼりとうなだれた。だが、その瞳には魔が流れ込んでいた時のような後ろ向きな濁りは無い。黒い塊は、黒い布の下から手を出して禿さんの背中に当てた。


「大丈夫、君ならやれる。これまでだって、回り道があっても着実に前に向かって歩いてきたじゃないか。さあ、顔を上げて。自分を信じてあげなさい。」


 穏やかだが、迷いが無く、力強くて温かい声に、禿さんは漸く正面の人造スマイルに向き直った。おしぼりをそっと机に戻して、咳払いをする。人造スマイルは顔に貼り付いた基本の笑顔は残っているものの、追加の笑顔成分はすっかり抜けてあっけにとられている。


「カバシマさん。やはり、あなたの申し出を受けることはできません。」


 禿さんははっきりと言葉に出した。


「子どもの学費に、家のローン、親の介護費、それに、情けないことに個人的な借金もある。はっきり言って、今の私はお金は喉から手が出るくらい欲しい。あなたはそれを調べたうえで私に接近なさったのでしょう。本当に、お上手だ。ですが、あなたから受け取った金銭で家族を養うのは、私には耐えられない苦痛です。」


禿さんは懐から長財布を取り出した。微かに抵抗を感じている様子でほんの一瞬手を止めたが、すぐに気を取り直して大きなお札を三枚抜き出す。


「この夕食も、ご馳走して頂く訳には参りません。お受け取りください。私にはこういった料亭の相場が分かりませんので、足りなければおっしゃってください。」


ずいっと紙幣を人造スマイルに押し遣る。


 人造スマイルは沈黙し、強固な笑顔に微かな陰りを見せた。ホカホカ湯気を上げていた肉料理が冷めきるほどの時を経てもなお、身じろぎせずに禿さんを見つめる。禿さんは一歩も退かぬとの決意を眼差しに浮かべて、人造スマイルの視線を受け続けた。


「もう二度と、こういったお話はしないでください。私も、私の部下たちも、あなたのお誘いには決して乗りません。我々は仕事に矜持をもって懸命に働いているんです。所詮は木っ端役人、と見くびらないで頂きたい。」


禿さんが確固たる口調で言い切る。その表情にはもはや迷いは微塵も無い。


 人造スマイルは無言のまま、机に置かれた紙幣を手に取り懐の財布に収めた。


「…お話、確かに承りました。」


漸く、言葉を絞り出す。こんな時であっても、ベーシックスタイルの笑顔は消えない。


「では、私はここで失礼いたします。」


スッと人造スマイルは立ち上がった。それを見て、少し慌てたように禿さんも立ち上がって、声を掛ける。


「お金は足りますか?」


「頂いた分で十分です。こちらで会計は済ませておきますので、どうぞ、最後までごゆっくりお召し上がりください。」


人造スマイルは丁寧に会釈をした。そして、禿さんに背を向ける。


「あの、カバシマさん…」


禿さんは人造スマイルの背に声を掛けた。人造スマイルはゆっくりと振り返る。


「入札会場でお待ちしています。正当な競争に勝って頂けば、私はあなたに仕事をお任せするのにためらいはありません。」


数秒の間、人造スマイルは無表情に禿さんを見据えた。だが、言葉を発することなく慇懃に頭を下げ、座敷から廊下へと出て行った。その静かな足取りからは、内面を窺い知ることはできない。だが、佳弥ははっきりと人造スマイルが小声で呟くのを聞いた。


「マーラ・ルブラ…あの、役立たずめ。」


 うわあ、怒ってる、と佳弥はうつ伏せの体勢のまま人造スマイルを見送った。彼があれだけ怒っているということは、マーラ・ルブラに相当の文句を言い、契約の違約金をふんだくるということである。そしてそれは、佳弥をいまだに足蹴にしたままの江藤の機嫌をひどく損ねるということにつながるであろう。まずいではないか。あのお肉、誰も食べないなら欲しいなあ、とか食いしん坊なことを考えている場合ではない。


 佳弥の背から足がどけられたので、佳弥はごろごろと転がって江藤から離れ、苦心して立ち上がった。両手を後ろ手に拘束されていると、立ちにくい。

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