第45話 ライバルも不死身なり

 どうしたものか、と身構える佳弥に、木俣は不敵な笑みを浮かべた。


「いずれにせよ、俺の勝ちだ。」


「どういう意味ですか?」


「これまで俺が嬢ちゃんたちとただ遊んでいるだけだと思ったか?ちゃんと仕事もしてたんだぜ。予想以上にお前さんたちが粘るから量は控えめだがな、そこのおっさん一人を唆す程度にはマラが溜まったのさ。」


木俣はくいっと親指を室内に向けた。ガラス戸の奥の廊下の、はたまた奥の部屋で数人が食事をしているのが遠目に見える。睡蓮の間である。例の禿さんのものか、光る頭も垣間見える。


 木俣が軽く手を振ると、床下から薄い墨汁のような物が滲み出てきた。まだ動きに指向性は無い。床下付近の地上をたぷたぷとたゆたっている。


「あなたは、ご自分のお仕事が犯罪行為への加担であることを恥ずかしく思わないんですか。そんなに技能があるのに、自らその価値を貶めているようなものじゃないですか。」


 佳弥は木俣を睨みつけた。


「俺は技術屋なんでな、仕事は仕事だ。個人的な意見や感情は二の次だ。」


「自分の持つ技術に誇りを持てるような仕事をしてください。あなたみたいな人は大人として尊敬できない。」


「青くせえこと言ってんじゃねえよ、お嬢ちゃん。自分で給料もらうようになってからモノを言いな。」


 木俣は小ばかにしたように鼻で笑った。佳弥はムカっとして目をすがめ、一歩木俣に近付いた。


「十六歳が青臭いことを言って何が悪い。考えることを放棄しているだけのくせに、物分かりの良いふりして大人ぶるな!」


佳弥は右手を握りしめ、身体の反動も使いつつ思い切り木俣の頬めがけて拳を浴びせた。ごすっと鈍い音が響き、木俣は何歩かよろめいた。殴られた頬に手を当てて、低く呻く。


「ちっ、手の早いお嬢だ。」


鼻血でも出たのか、手の甲で幾度か鼻の辺りをぬぐう。黒くて見えないので、はっきりしたことは分からない。ただ、今回は確かなダメージを与えられたようだ。もう一発お見舞いしてやろうかしら、と佳弥はぐっと拳を構えたが、木俣はひらりと佳弥の手の届かない位置へ後退する。


「おい、江藤、いるんだろう?」


 木俣はふっと屋根の上を見遣った。まさか、と佳弥も釣られて目を上に向ける。木俣が視線を向けた方向に、夜陰に紛れて真っ黒い人影が立っている。顔も真っ黒なあの様相は、シンハオ組ではなくてマーラ・ルブラだ。


「どうして?江藤さんのスマホはパスコードを変えたはず。」


佳弥が呟くと、木俣が肩を揺らして笑った。


「私物とは別に、業務用の予備くらい持ち歩いてるさ、あいつは。神経質だからな。」


今度は佳弥が心の中で舌打ちをする。飛鳥のように、江藤の荷物の中も改めるべきだった。この辺りに経験値と腹黒さの差が表れてしまう。ぬかった。


「江藤、お前がマラを操作しとけ。俺は嬢ちゃんたちの相手をする。」


「分かりました。十分痛い目に遭わせてやってください。」


 屋根の上から、恨みがましい低い声が響いてくる。随分嫌われたものだ、と佳弥は軽く肩をすくめる。そうして、傍らの幸祐を見上げた。


「どうしますかね。二人いっぺんに相手しないと、意味が無いですよ。」


「そうだなあ。とりあえず、あれいっとこうよ。あいつが屋根の上にいるとやり辛いし。」


よし、と佳弥は頷いた。戦闘能力的に、木俣を幸祐に任せた方が良いが、江藤が屋根の上にいたままでは佳弥では手も足も出ない。都合良く落っこちてきてもらう必要がある。


 佳弥は木俣に背を向けてすたこらと睡蓮の間に向かった。直ちに佳弥を追おうとした木俣を捕まえて、幸祐がスタンガンを押し当てる。木俣は短い呻き声を上げて、その場に膝を着く。


 勝手知ったる高級料亭、下見は万全なので、佳弥は迷うことなくガラス戸を開け閉めして部屋に入り込み、店のお客様からは気付かれにくいコンセント口の前に屈んだ。室内は暖かく、ものすごく良い香りが立ち込めている。おなかすいた。空腹の苛立ちも併せて、佳弥は室内に引き込んである黒い紐の先のプラグを力いっぱいコンセントに挿し込んだ。その直後、屋根の上でぎゃっと声が響いた。間もなく、ごろごろと江藤が落下してくる。佳弥と幸祐が予め仕込んでおいた、屋根に敷き広げられた電気網に通電されたのである。そんなところに立っていては、ステキな刺激を足元から感じることになる。


 室内から江藤の無様な着地を見届け、佳弥は腰を上げた。一瞬振り返って、室内の様子を眺める。


 禿さん、人造スマイル、人造スマイルが呼んだと思われるコンパニオンガール。人をもてなすのに慣れた美しい佇まいの人だが、ガールというにはいささかとうが立っているから、芸妓さんに近いものかもしれない。困ったような、嬉しいような顔をしている禿さんにお酌をしている。人造スマイルは、全身鎧を顔に集中させたような硬い笑みを顔に貼り付けているが、佳弥の見立てによると、心安らかではなさそうだ。ということは、禿さんはまだ陥落していない、ということだ。だが、あの伸びた鼻の下と、あの美味しそうな料理を見る限り、江藤が魔を流したら、どうなるか分かったものではない。何としても、江藤の動きを封じねば。


 外に出ようとした佳弥は、ふと広い部屋の片隅で目を止めた。部屋の最奥に設置されているエアコンと思しきものの前に、人がうずくまったような大きさの黒い塊がある。マーラ・ルブラか、と思ったが、何だか違う気がする。黒ののっぺり感が、どちらかと言えばシンハオっぽい。が、こんなところには、佳弥も幸祐も罠を設置してはいない。


 正体を確かめようかと思ったが、外で江藤が身を起こす気配が感じられたので、佳弥は後ろ髪惹かれつつも部屋を後にした。


 江藤が行動可能になる前に、佳弥はその背中にスタンガンを二丁押し付けた。悲鳴を上げて、江藤が倒れ伏す。これを繰り返していれば、こいつは何もできまい。


 だが、ことはそう易々と運ばない。死角から伸びてきた黒い腕が佳弥をしたたかに打ち、佳弥はあっけなく吹っ飛ばされた。あちこちを敷石にぶつけて痛い。顔をしかめて佳弥が何とか身を起こした頃には、江藤は復活している。


「おっと、江藤に手出しはさせないぜ。」


 江藤を振り返った佳弥に、木俣の声が掛かる。しゅるしゅると伸びてきた黒い影に手を取られ、佳弥は軒下にぶらりと吊り下げられた。私はするめでも干し柿でもない、と憤って、佳弥は空いた手で佳弥を吊るす黒い影にスタンガンを浴びせた。じゅう、と煙のように戒めが解け、佳弥は重力のまま落下する。庭園から飛んできた幸祐が、きわどいところで佳弥を受け止めた。


「危ない、危ない。着地のこと、考えてよ。」


「それくらい、平気です。」


骨粗鬆症こつそしょうしょうかもしれないだろ、四十五歳ならさ。女の人は、その、そういう時期だし。」


佳弥は黙って幸祐の腕をつねった。その可能性については考えたことが無かった。否定しきれないだけに、腹が立つことこの上ない。


「木俣さんにダメージを与える方法ですが、一つ試してもらっても良いですか。」


 腕をさする幸祐に、佳弥は小声で囁いた。


「道具を使わずに、素手で殴ってください。」


「どういうこと?」


「屋根からの落下、私による殴打、それから、純粋な電気刺激。これらがマーラ・ルブラに効果のあったものです。共通項は、黒い布そのものによる攻撃ではないという点です。彼ら本体の防御力は、私たちの黒い布に対してのみ効果があるのかもしれません。」


なるほど、と幸祐は頷く。


「他人を殴ったことなんてないけど、頑張ってみるよ。」


「本体以外は、道具の攻撃力が直に響いていると思いますから、使い分けてください。それから、まだ通電してますから、ここの屋根は登らないように。」


「それなら大丈夫。俺の靴はゴム底だから、絶縁体。」


幸祐はそう言って笑って見せてから、庭園の中ほどにいる木俣に向き直った。


「じゃあ、佳弥ちゃんは隙を見て江藤さんの邪魔してやってよ。」


「了解。」


 佳弥は視界の隅で江藤を確認した。睡蓮の間のすぐそばで何かしている。幸祐が木俣に向かって行くと同時に、佳弥は江藤にじり寄り始めた。だが、敵もさるもの、佳弥の前後左右から木俣とも江藤ともつかない黒い影が伸びて、佳弥に襲い掛かる。佳弥は両手に柳葉包丁を持ち、何とかそれを撃退するが、江藤の妨害をするところまで至らない。石でも投げてやろうかと思うが、美しく掃き清められ苔むしたた日本庭園にそんな石ころが落ちている道理が無い。もどかしく思っているうちに、佳弥は再度横から殴打されて庭園に吹っ飛んだ。苔を踏むわけにはいかない、とじたばた足掻いて辛くも敷石の上に着地し、身を起こす。


 口の中を少し切ったのか、金臭い味がする。野郎ならばここで血交じりの唾でもペッと吐き出すのだろうが、佳弥は分別ある乙女である。気持ちは悪いが、ごくりと血混じりの唾液を飲み下した。


 その目の前に、ぎゃっと声を上げながら木俣が落っこちてきた。丁度良く下にいた江藤にがっつり衝突している。佳弥が上を見ると、幸祐が電気網の屋根から下を見下ろしていた。木俣を誘い込んで、追い落としたらしい。


「すまん、江藤。」


 二度の転落を経たにしては元気溌剌で木俣は立ち上がった。江藤もふらふらと上体を起こす。


「いえ、おかげさまで整いました。」


 江藤は睡蓮の間の中を見据えたまま、地に両手を付いた。床下に淀んでいた魔がするすると建物の中に移動を始める。


「まずいぞ、佳弥ちゃん!」


 屋根の上から幸祐が叫ぶが、江藤の傍らでは木俣が臨戦態勢をとっているので、佳弥には手出しができない。第一、既に畳の上に広がりつつある魔をどうやって止めたらいいのか、佳弥には分からない。自分で吸うしかないのか。


 その時、順調に広がりつつあった魔が動きを止めた。もどかしそうに身震いして、立ち往生している。


「どうした、江藤。」


「分かりません、何だか抵抗が急に強くなって…くそっ、このままでは散ってしまう。」


「しょうがねえ、手を貸そう…っと。」


 江藤のサポートに回ろうとした木俣を、幸祐が無言で背後から襲った。間一髪で避けた木俣は、やむなく黒い影を伸ばして幸祐に対峙する。


「江藤、状況は!?」


「減衰していきます。シンハオにツボでも押されたみたいです。」


 江藤は焦りを隠そうともせずに木俣を振り返った。疑うような目つきで佳弥と幸祐を睨む。冤罪だ、と佳弥が思ったとき、木の上から婀娜あだっぽい声が聞こえた。


「あたしがさっきまでツボを押して回っていたのだもの、当たり前でしょう。」

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