第43話 影との戦いの始まり
午後六時過ぎ、花さゝぎの正門では江藤が苛立った様子でスマホを握りしめていた。
「吉村の奴、トイレで寝ていたらしいです。今から来るそうです。」
通話を切って、隣に立つ木俣に声を掛ける。木俣はぐるりと首を回し、投げやりな声を出した。
「まあ、あいつはいてもいなくても大差ないだろ。それより問題なのは、美術館の連中と連絡がつかねえことじゃないか。この時間になっても、マラが流れてこねえしな。こいつぁ、絶対に何かあったぞ。」
「シンハオの妨害ですか。あの二人は昼には確かに部屋にいたんですが。」
「おばはんのペアの坊主が増援を呼んだんじゃないか。」
そう言って、木俣は花さゝぎの敷地内に鋭い目を向けた。
「どうにも、さっきからシンハオ臭いぜ。俺たちの妨害か、いつもの間抜けなツボ押しか知らねえが、誰かいるのは間違いない。江藤も気を付けな。」
江藤は木俣の言葉を聞いて、辺りを窺うように見渡した。広大なアプローチは、時折タクシーがそのまま玄関近くまで入り込んでいく。変身している彼らは、うっかり轢かれないようにその都度脇へ避ける。
「おっと、すみません。」
避けた拍子に人にぶつかりそうになり、江藤は無意識に謝った。
「いえ、そちらこそお気を付けて。」
小柄な男性はそう言って帽子の下で会釈をし、アプローチの奥へと吸い込まれていった。
「…何故、俺に気付いたんだ、あの人?」
首を傾げて、木俣を見遣る。
「あの男性がシンハオですか、木俣さん。」
「いや、あれは一般人だな。シンハオの臭いはしねえよ。まあ、たまには気配に敏感な人もいるからな、その手合いだろう。宴会場には近付かん方が良いだろうな。今はそれよりも、あからさまに待ち構えてるシンハオの方に集中した方が良いぞ。」
江藤は頷いて、濃い眉をぎゅっと眉間に寄せた。
「しかし、美術館から来ない以上、マラが全く足りませんね。ギリギリまで粘って、なけなしのマラを溜めたのに、どうしてしまったんだ。」
「そのうち来ると期待したいところだが、間に合わねえと困るな。ちょいと手近なところで集めてこよう。操作は細かくなるが、直接個人に流し込んじまえば、絶対量は少なくても効くはずだ。」
木俣はそう言って、ぬるりと影の中に消えていった。江藤は腕を組み、神経質そうに指をちろちろと動かし、何かを思案する。手に持ったままのスマホが震えたので、江藤はすぐに通話ボタンを押した。
「どうした、吉村。そろそろ着くか?」
「ういっス。急いでるんで、上から登場させてもらいます。」
「上から?どういうことだ。」
江藤はスマホを耳に当てたまま上を見上げた。
その背後から、首筋にひやりとするものが当てられた。何だ、と思う間もなく、強烈な電気刺激が江藤の全身に流れる。江藤はよろめき、その場に倒れた。
「よし、二殺目。」
そう呟いたのは、両手にスタンガンを持った佳弥である。素早く江藤の両手を後ろに回して、スタンガンをつくね直して作った手錠をがっちりはめる。そのままにしておくとタクシーに轢かれて本当に昇天させてしまいそうなので、ずるずる引きずって門の陰に置いておく。
「すんませんっスね、江藤さん。電話の相手は私です。」
「…クソ、ちびババアか、どうしてここに!?」
「ババアじゃない!私は十六歳だ!」
憤然として、佳弥は江藤がショックで取り落としたスマホを拾い上げた。裏面を見ると、工具が無いとバッテリーを取り外せないタイプだ。仕方ない。佳弥はスマホを持った手を振りかぶって、江藤に訊いてみる。
「壊しちゃっていいですか、スマホ。」
「馬鹿、やめろ、先月替えたばかりだぞ。」
江藤は激しく動揺する。確かに、最新式のアップル製品だ。リンゴつながりで、アップルが安く買えたりするのだろうか。
「じゃあ、いいですか、一度しか聞きませんからね。覚悟して答えてくださいよ。パスコード教えてください。」
「誰が教え…やめろ、やめろ!分かった!」
佳弥が本気で腕を振り下ろしかけたので、江藤は慌てて四桁の数字を叫んだ。佳弥としては壊しても良かったのだが、すんでのところで手を放さずに済んでしまったので、大人しくスマホのロックを解いた。シンハオのものよりもかなり洗練されておしゃれなアプリが立ち上がっていたので、闇雲に操作する。すぐに変身解除のコマンドが表れた。ぽちっとタップし、するりと江藤を覆っていた影が消え去ったのを横目で確認しつつ、佳弥は設定をいじくってパスコードを適当なものに変更した。ついでに顔認証機能はオフにしておく。
「お返ししましょう。パスコードは変えちゃいましたからね、事が済んだら教えます。」
佳弥の姿を認識できなくなったのか、江藤とは視線が合わない。聞こえるのかな、と思いつつも耳元で囁いて、佳弥は背中で拘束されている江藤の手の中にスマホを落とした。うまく掴めなくて取り落としているけれど、知ったことではない。何食わぬ顔で少し遠くに蹴り飛ばしてやる。こいつにはこれくらいの仕打ちをしたって罰は当たるまい。
フン、と腰を叩いた佳弥の耳に、しゅるしゅると蛇が草むらを這うような微かな音が聞こえる。佳弥は振り向きざまに飛び退いた。その鼻先を黒い影が掠めていく。
「おいおい、やってくれたもんだな、おばはんよ。」
「私は十六歳です。オバサンと呼ばれるいわれは無い。」
どこにいるのかよく分からないが、木俣がそばにいるらしい。佳弥は大事な点を主張しつつ、辺りを見渡した。人影はどこにもいない。佳弥はじりじりと敷地の内側に後退した。これまでの江藤のやり口を参考にするなら、やつらは地面の影からにゅるにゅる涌き出てくるはずである。佳弥は玄関口の明るい場所に近付きながらも、前後左右の影の濃い場所に視線を向ける。
突如、四方の影が一斉に立ち上がった。一瞬にして暗幕に囲まれ、佳弥の視界は黒一色に染まる。
「破壊工作!」
佳弥は即座に拵えたチェーンソーをぶんぶんと振り回した。母の在所で祖父に使い方を教わったことがあるので、このチェーンソーは自信作である。佳弥の腕には重いから長期戦には向かないが、接近戦では有効だ。佳弥を囲んでいた暗幕は散り散りに切り刻まれ、霧消していく。
「この程度で私を倒せると思ったのかね、木俣君。」
ちょっと偉そうに呟いてみる。本人に聞かせようと思って言ったわけではない。
「凶悪な物を使いやがるな。素人じゃねえのか、アンタ。」
佳弥の目の前に、音も無く人影が現れる。マーラ・ルブラの変身なので顔は見えないが、声は木俣だ。
「素人の定義に拠ります。とにかく、オバサンではありません。」
「そこは分かったよ。お嬢ちゃん、で良いんだろ。」
「ありがとうございます。」
佳弥は生真面目に礼を言って頭を軽く下げた。初めて、マーラ・ルブラから適正な呼称を用いられて、ちょいと嬉しい。
「ったく、江藤も情けねえな。気を付けろって言ったばっかだろうが。」
木俣はアプローチの入り口付近にいる江藤を苦々しそうに睨んだ。佳弥が蹴り飛ばしたスマホがどこかに行ってしまったらしく、懸命に探している。
「一つ伺ってもいいですか?」
佳弥は丁重に切り出した。木俣は首をぐるりと回して、何だという顔をする。
「仮に私がこのチェーンソーであなたをぶった切ったら、あなたはお亡くなりになりますか?」
「何だ、そんなことか。死にはしねえよ。んなことも知らねえで俺たちに盾突いてんのか。やっぱ嬢ちゃんは素人だな。良いよ、安心して掛かってきな。」
どういう理屈は分からないが、死なないというなら安心。変身システムが異なる以上、こちらが死なないという保証は無いから自衛は必要だが、相手に遠慮する必要が無いというのはありがたい。チェーンソーだって、何だって、使いたい放題だ。だが、逆に、とっちめて戦闘不能にするにはどうしたら良いんだ?飛鳥は張り倒したことがあるという口ぶりだったが。繰り返しぶちのめせということだろうか。
まあ、やってみれば分かるさ、と佳弥はチェーンソーを正面に構えた。スイッチを入れて、派手な音を立てる。何度か無駄に大きく振り回して見せ、佳弥は一歩前に踏み出した。
その足が、地面の中に吸い込まれて、佳弥はたたらを踏んだ。足元に真っ黒な影が凝り固まっている。大きな穴が開いているかのように、踏み込んだ足の裏には何の感覚も返ってこない。にゅるりと影が細く伸びて、チェーンソーに絡んだ。バランスを崩した佳弥の手からいとも簡単に奪われたチェーンソーは、影に巻き付かれ、ほどなくして黒い布切れに戻ってしまう。佳弥は何とかして穴から足を抜こうとするが、生コンクリートに足を突っ込んでいるかのように動かない。徐々に沈んでいく一方である。
木俣はにやりと笑った。
「あっけないもんだな。」
「そうですねえ。」
佳弥もにやりと笑って、木俣の方を見た。正確に言うならば、木俣の背後を見上げた。
佳弥に近付こうとしていた木俣が歩みを止め、微かに首を傾げようとしたその時、ライトセーバーを振り下ろしながら上空から幸祐が降ってきた。落下の勢いに任せて、刀身を木俣に叩きつける。一刀両断、人影は見事に真っ二つに分かれ、その場にとろけて地面に吸い込まれてしまった。
佳弥は穴から足を引きずり出して、よっこらせと立ち上がった。チェーンソーだった黒い布も回収し、手の中に収める。穴がまだあるのだから、木俣は全然滅びていないはずだ。とりあえず穴を封じるか、と屈んだ佳弥の目の前を幸祐が駆けていく。振り返ると、佳弥のすぐ後ろに人影がいくつも揺らいでいる。人影の相手を幸祐に任せ、佳弥は取り急ぎ穴に向けてスタンガンを放った。一応効いたのか、すうと穴は消滅する。
ほっとしたのも束の間、横手から影が伸びてくる。佳弥は拾ったばかりの布切れを刃渡りの凶悪な出刃包丁に変えて、影を叩き切る。これなら振り回しやすいし、殺傷力はまずまず。バランスが良い。
「佳弥ちゃん、逃げろ!」
背後から幸祐に声を掛けられ、佳弥はすたこらと明るい玄関口へ向かって走り出した。ちらりと後ろを確認すると、幸祐が林立する影を片端から薙ぎ払っているのが見える。ライトセーバーに触れた影は、何の抵抗も無く消え去っていく。我ながら、あのライトセーバーはなかなかの性能だ、と佳弥は少し嬉しくなる。自分で使うには軽量化が課題だが。
にしても、木俣の本体はどこなんだ、どれをやっつければ効果的なのか、と佳弥は照明に照らされたエントランスに立って、辺りを見回した。分からない。幸祐の周りにある影は、どれだけ追い払ってもどんどん湧いてくるし、本体ではないだろう。
きょろきょろと首を巡らせていた佳弥の視界の隅で、自分の影が勢い良く立ち上がった。しなる腕を伸ばして、一気に佳弥を背後から抱え込む。
「すわ、痴漢か!」
佳弥は逆手に持っていた出刃包丁を思い切り背後に向けて突き出した。生身の人ならば間違いなく致命傷、ではあるが、佳弥には大した手ごたえは伝わってこない。それが証拠に、何度か抜き差ししても影が佳弥を抱える力が一向に弱まる気配を見せない。こいつが本体だろうか、と冷静に考える一方で、足元と背後の影に全身がどんどんめり込んでいって、全く面白くない状況にある。
コンチキショウ、ともがいていると、急に体が解き放たれて、佳弥は前につんのめって転んだ。影がちぎれたかと思ったが、ちゃんと自分の影は自分に付いている。
「佳弥ちゃんに何しやがる!」
傍らでは幸祐がライトセーバーを両手で構えたまま、人影に対峙していた。
「弱いところから狙うのは王道だろが。坊主はちょっと面倒なんでな、後回しだ。」
「俺は坊主ってほど若くないんだけどな。」
ぼそっと幸祐が漏らす。そんなことを言っているくらいだから、まだ余裕はあるのだろう。木俣はくいっと首を傾げた。
「お前は嬢ちゃんと逆で、中身はおっさんか?」
「おっさんと呼ばれると否定したくなる、微妙なお年頃の二十七歳だよ。」
「何だ、うちの江藤とタメじゃねえか。じゃあ、まだ坊主で十分だ。」
何だって、と佳弥は愕然とする。江藤が三十超えているのは間違いないと思っていた。あいつこそ真実の老け顔ではないか。そんなヤツにババア呼ばわりされていたと思うと、益々腹立たしい。今度口を利くことがあったら是が非にもおっさん呼ばわりしてくれるわ。
拳を固く握りしめて決意した佳弥だったが、不意に横面をはたかれて、左手に吹っ飛んだ。どこかからか影が伸びていたらしいが、全く見えていなかった。イタタ、と身を起こそうとして、またぞろ影が穴ぼこになって佳弥を取り込もうとしているのに気付く。
「わ、わ、吸い込まれるー。」
「佳弥ちゃん!」
紙一重で幸祐が佳弥の手を掴んで引っ張り上げた。幸祐はそのままひょいと佳弥を両腕で抱えると、身軽に屋根の上に跳び乗った。
「佳弥ちゃんを狙うって言うんなら、一緒に逃げながら邪魔するだけだ。あっかんべー。」
幸祐の捨て台詞を聞き、あかんべーって子どもかいな、と佳弥は呆れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます