第42話 人は見た目が十割
アパートの外に出ると、既に西日が大きく傾いていた。一年で最も陽の短い時季である。陽が落ちると一気に空気の冷たさが度を増す。変身している間は良いが、元に戻ると寒風が突き刺さるようだ。佳弥は首をすくめながら時計で時刻を確認した。
「そろそろ良い時間ですね。私は、集合時刻の変更を飛鳥さんにお伝えしがてら、美術館を覗いてから花さゝぎに行こうと思います。近いですしね。」
「じゃあ、俺も行くよ。佳弥ちゃんを一人にするわけにはいかないもんな。」
心配性だなと思ったが、ここで幸祐とはぐれて片一方になったら花さゝぎでの仕事に支障を来す。佳弥は大人しく幸祐と連れ立って美術館に向かった。
閉館時刻の近い美術館には殆ど入る人はおらず、逆にぽつりぽつりと人が出て行く。受付終了の時刻の間際なので、お高い入館料を払うのは差し控え、ひとまず玄関ホールから見える範囲の展示物を眺めてみた。刀剣類を熱心に眺める若い女性たちが見えるが、人にも展示物にも特に怪しい気配は無し。それから外へ出て、建物の外をくるりと周ってみる。変身していないから気付けないだけかもしれないが、魔がたんまりと湛えられているような気配は無い。
マーラ・ルブラの集合時刻がだいぶ後ろ倒しされたからか、普通の格好をしている人で待ち合わせをしているような様子の人はいない。まだ大分時間があるので、来ていないのだろう。錦での魔の採集の延長は、こちらの担当者も総出での対応と見える。
「特に変わった様子はありませんね。少し変身して見てみますか?」
「それも危険だよなあ。木俣さん以外は、俺らの臭いが分かるのかな。」
「木俣さんが臭い臭いと騒いでいた時、同調する人はいませんでしたけどねえ。」
それとも、もう飛鳥に一切合切任せて、花さゝぎに向かうか。小声でぽそぽそと話しながら、佳弥と幸祐はひと気の無い脇道へ向かう。
一歩先を歩いていた幸祐は、突然ぴたりと足を止めた。気まずそうな顔で振り返って、佳弥の肩に手を置いて無理やり押し戻す。
「何ですか、敵ですか?」
「いや、青少年は、見ちゃ駄目。」
何だそれ、と佳弥はするりと幸祐の手を抜けて、首を伸ばして先の様子を窺った。
薄暗い木陰で、男女が濃密に抱き合い、睦み合っている。合間に何か喋っているようだが、内容までは聞こえない。男性の手が、何かを探すように女性のそこかしこをまさぐっている。
「…あれ、飛鳥さんですよ。」
「えっ、何やってんだ、あの人。」
「あー、あー、やっちゃった。」
「えっ、何をやっちゃったんだよ、見ちゃ駄目だろ、佳弥ちゃん。」
「相手のスマホのバッテリーを抜いたんですよ。」
ついでに、どうやったのか、いつの間にやら相手を昏倒させている。佳弥はひょっこり顔を出して、おーいと手を振った。気付いた飛鳥が、にっこりと毒気の無い笑みを浮かべる。どこかで取ったのか、ひげとハットは無い。ついさっきまで女性といちゃついていた空気は微塵もまとっていない。
「様子を見に来たのかい。」
「はい。飛鳥さんなら心配は無いんですけど、一応。」
「こっちはご覧のとおりさ。これで一人脱落だな。」
飛鳥はバッテリーの無いスマホを女性の上着のポケットに戻した。ぽん、ぽん、と何度か手の上でバッテリーを投げ受けして、自分の荷物の中に入れてしまう。
「マーラ・ルブラの集合時刻が変わったんです。午後六時だそうですよ。魔が足りないみたいです。」
「そうか、大分余裕ができたな。この隙に、僕はじっくりトラップを仕掛けさせてもらうよ。」
今のはハニートラップという奴か、でも、ハニートラップって、美女が男性に仕掛けるものだっけ。でも、飛鳥は美女にもなるし、いやいや、今はカッコいいおじさんだ。佳弥は多少混乱しながらも、足元で崩れている女性を眺めた。
「ええと、この人は誰です?」
「ああ、佳弥が言っていただろう、マーラ・ルブラに、僕を襲いたがっている女性がいるって。お誘いに乗って、返り討ちにしただけさ。この手の人は御しやすいな。」
酢の物よりもあっさりと言ってのけて、飛鳥は微笑んだ。
「じきに目を覚ますだろうが、変身できない以上は戦力外通告だな。」
予備のバッテリーも無いようだ、と女性の脇に落ちているハンドバッグを勝手に探って、飛鳥は結論付ける。
「で、でも、目を覚ました後、どうするんですか、この人。勘違いしたままじゃないんですか?」
やたらと動揺している幸祐がおろおろと尋ねた。
「放っておくしかないさ。よくあることだよ。いちいちまともに取り合っていたら、こちらの身が持たない。」
「よくあるって…不誠実な。」
「幸祐君も意外と堅いな。僕は僕に備わっている武器を使って戦っただけだ。敵対していながら、それに安易に引っ掛かってくる方が愚かというものだよ。」
うわあ、潔く腹黒いなあ、と佳弥は感心しきりである。が、幸祐は何だか気に入らなさそうな顔で唸っている。お前は乙女か、と佳弥は心の中で突っ込む。
幸祐にはお構いなしに、飛鳥はスマホを懐から取り出して変身した。若返ったカッコいいおじさんではなく、妖艶で豊満な美女の佇まいである。ベータ版のバグをいっぱい潰したからか、ちょっぴりバストが控えめになっている気がする。飛鳥は懐から出したルージュを手慣れた様子で唇に引き、幸祐に向かって艶然たる笑みを向けた。
「まあ、ここで目を覚まされて騒がれても厄介だからな。時間もできたことだし、近くの病院にでも置いてくるよ。」
長い髪をふぁさっと後ろに払いのけながら、飛鳥は男声で話す。これはこれで強烈な違和感がある。
飛鳥はぐったりしている女性を担ぎ上げた。佳弥は女性のハンドバッグを拾って、飛鳥に渡す。
「じゃあ、私たちはそろそろ花さゝぎに行きますね。」
「ああ。木俣には気を付けろよ。僕もこちらが片付いたらフォローに行く。」
飛鳥は、どことなく不服そうなままの幸祐をちらりと見遣った。やれやれ、と肩をすくめて見せる。
「安心して頂戴、幸祐クン。こう見えて、あたしは愛妻家よ。妻以外の女性に手を出したりはしないわ。この子にも後でちゃんとお断りしておくわよ。」
なまめかしい声にしっくりこない発言を残して、飛鳥はひょうと空の彼方に跳んでいった。取り残された幸祐は、憮然として暮れていく冬の夕空を見上げる。佳弥はちょいちょいと幸祐の袖を引っ張った。
「ほら、ぼうっとしていないで。何がそんなに不満なんですか。」
「うーん、自分でもよく分からないけど、もやもやする。」
「獅子はウサギを捕らえるにも全力を尽くすと言いますよ。持てる力のすべてを出して敵に勝つのは正攻法です。飛鳥さんの容姿は明らかに武器ですし。」
「そうだよなあ。」
「好きであの顔に生まれたわけじゃないんですから、ご苦労もあると思いますよ。それであれだけ割り切っていらっしゃるんだから、大したもんじゃないですか。」
そうだなあ、とか、いやしかし、とか口の中で呟きながら、幸祐はのろのろと出口に向かって歩き出した。こんな上の空では困る、と佳弥はやきもきする。
「佳弥ちゃんと言い、飛鳥さんと言い、色仕掛けが上手いのかあ。やられちゃうマーラ・ルブラも情けないけど、俺は何故だか物悲しいよ。」
「飛鳥さんはともかく、私は色仕掛けなんかしていませんよ。できませんし。」
残念ながら、佳弥は飛鳥のような美人ではない。そのくらいの自覚はある。吉村には、仏頂面が基本の佳弥にしては愛想よく道を聞いただけだ。ほかの同年代の女子ならもっとうまく媚を売れるだろうが、心の老いた佳弥はそういう若気の至りは苦手である。
幸祐はそんな佳弥をしげしげと見つめた。
「そうか。」
「そうですよ。ほら、だから、早く行きましょう。」
佳弥は幸祐の背後に回って、ぐいぐいと背中を押した。のたくさ遊んでいるほどの時間は残されていないのだ。
「何笑ってるんですか。その余裕があるならさっさと歩いてください。」
前から忍び笑いが聞こえて、佳弥はぶつくさと文句を言った。突き飛ばすように幸祐を一押しして、手を放す。
「ははは、何だかすっきりした。佳弥ちゃん、俺のツボでも押したかな。」
そんなものは押していない。佳弥はぶうと不機嫌そうにむくれた。どうでもいいから、元気が出たならとっとと歩け。
「ま、飛鳥さんには飛鳥さんにしかできないやり方があるし、俺は俺のやり方で頑張るしかないよな。」
「市川さんに色仕掛けは無理でしょうけどね。あ、お化粧したら、案外一部の好事家から受けがいいかもしれませんよ。」
「それはもう勘弁してくれって。」
心底困ったような顔を一瞬浮かべて言ってから、幸祐は両腕を空に向かって突き出した。
「よっし、やってやるぞー。」
その意気、その意気。佳弥はうむうむと頷いて空を見上げた。日はすっかり落ち切って、宵の帳が降りている。これからが、最終決戦だ。マーラ・ルブラめ、目にもの見せてくれる。佳弥もぐっと拳を固めた。
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