第40話 敵襲、ではなかった

 食事をしたら塗り直せ、と飛鳥に渡された濃桃色の口紅と小筆をいつものリュックに入れて、佳弥は幸祐と連れ立って外に出た。錦で善行を積む前に、明るいうちに変身して花さゝぎに潜り込んで下見をしておくのである。思っていた以上に広大な敷地と建物で、高級老舗料亭に縁の無い佳弥はへえとかほおとか、感嘆詞を呟くことしかできない。


「見事な庭園ですね。荒らさないように、気を付けないといけませんね。」


「そうだなあ。この苔とか、踏んだらまずいよな。マーラ・ルブラもその辺気を遣ってくれるといいんだけどな。」


敷石だけを踏むように気を付けながら、佳弥と幸祐は日本庭園をめぐる。誰にも認識されないのを良いことに、庭に面した開放的な廊下に腰かけて客のようななりをする。


「この部屋ですね、予約の有る睡蓮は。ただ、木俣さんは、クライアントに接触するなと言われているので、ここには近付かないはずです。」


「こっちに入ってくるとしたら、佳弥ちゃんを襲った江藤とかいう奴とその後輩か。じゃあ、そこでばらけさせることもできるんだな。」


珍しく真面目な顔をして幸祐は呟く。ちょっと上を見てくる、と幸祐が跳んでいったのを見送り、佳弥は地上や建物内をうろうろとする。どう立ち回るかを想像しながら、地形と館内の構造を頭に入れる。


 それにしても、どこかからかお出汁の良い香りがする。そう言えばお昼がまだだった、と佳弥は思い出す。ここで食べられたらさぞ美味しいのだろうが。


 敷地内の全体図を把握できたところで、佳弥と幸祐は花さゝぎを後にした。辺りも高級住宅街で、立派なお屋敷ばかりである。お金というのはどうも仲間と一緒にいたがるらしい。


「それにしても、良い匂いしてたなあ。佳弥ちゃん、昼ごはん食べた?」


「まだです。」


「じゃ、うどんでも食べない?何か、出汁の利いたもの食べたくなっちゃったよ。」


 それは妙案、と佳弥は同意した。やはり、あの香りには抗えない。夜もあの香りを嗅ぎながら影との戦いになるかと思うと、ちょっと切ない。


 高級住宅街には気軽にすすれるような麺類の店が無いので、佳弥と幸祐は繁華街である錦に戻った。道すがらにぽちぽちと善行を積みながらも、安い、早い、まあまあ旨いチェーンの讃岐うどん店を見かけ、そこを目指す。


 と、その時、不意に肩を叩かれて、佳弥は臨戦態勢で勢いよく振り返った。いつでも殺る覚悟はできている。殺さないけど。


「わ、何でそんな睨むの。」


「何だ、ゴアか。敵襲かと思った。」


すらりとしたゴアの姿を認めて、佳弥はふいーと肩の力を抜いた。あれ、ゴアは今日デートじゃなかったのか、と思って見直すと、横に見慣れない若者がいる。はあ、なるほど、こいつがゴアの現時点での彼氏か、と佳弥は失礼にならない程度に観察し、軽く挨拶をした。第一印象は悪くない。ゴアを泣かせるなら一発蹴るがな、と佳弥は顔に出さずに考える。


「敵襲って、何だそりゃ。そんな可愛いかっこして、市川さんとデートじゃないの?」


「断じて違う。」


 佳弥は即答した。その表情はゴルゴ並みに硬い。


「この服装は、悪の秘密結社と戦うためのパワードスーツなのだよ。今日は遊んでいる暇は無い。」


「確かに、佳弥自体は何かと戦いそうな雰囲気だけどねえ。」


 苦笑するゴアの横では彼氏が笑いを堪えるのに必死な様子で肩を震わせえている。無礼者め、と佳弥は彼の評価を下げた。


「佳弥ちゃん、その服でパワードスーツは無理があるんじゃないかな。」


「市川さんは黙っていてください。」


「あはは、仲直りしたんだね、良かったじゃん。他人事ながら心配してたよ。」


「直す仲など無い。」


あっちにもこっちにも不機嫌な視線を投げつけて、佳弥はぶんむくれた。おのれマーラ・ルブラ、と八つ当たり気味な怒りを腹に溜める。


「で、佳弥はこれから本当に何かと抗争するの?人でも殺しそうな目つきしてるけど。」


「うん。趣ある日本庭園にて、三匹のゴキブリどもを罠にはめて追い払うんだよ。」


「ごめん、佳弥の言っている意味が分からない。」


分かってもらおうと思って喋っていないから、やむを得ないことである。ゴアの彼氏はおなかを抱えて苦しそうにしている。もう少し評価を下げておくか、と佳弥は決める。まあ、他人の彼氏だから、佳弥にとっての評価がどう変わろうと影響は無いのだが。


「悪漢を懲らしめる罠って言うと、何かね。」


「えー、落とし穴の中に竹やり仕込むとか?」


「日本庭園に穴を掘るわけにはいかないでしょ。も少し、穏当かつ攻撃力の高そうなの、無いかい。」


佳弥は無理難題を言う。ゴアは笑いながら首をひねった。


「そうだなあ、ゴキブリならゴキブリホイホイでしょ。あとは、電気柵とかクモの巣?」


「なるほどね。参考にするよ。」


まあまあなアイディアか。佳弥は腕を組んで深く頷いた。作って作れないことはなさそうだ。だが、大きなものとなると、布切れが足りるかどうか。設置場所も問題か。屋根の上に関しては幸祐に相談が必要だ。


 腕を組んで小難しい顔をしている佳弥の横で、ゴアは幸祐を突っついた。


「大変ですねえ、市川さんも。この子、ちょっと変わってるでしょ。」


「ん?佳弥ちゃんは面白くて、可愛いよ。」


幸祐はにこりと笑う。


「でも、本当にデートじゃないからね。そんなこと言うと、俺、蹴られるから。」


おお、そうともさ、と佳弥はまた一つ深く頷いた。よく分かっているようで、宜しい。が、ゴアは、はいはい、と分かっていなさそうな返事をした。佳弥は不愉快千万である。


「もう、ゴアはさっさとデートに行きなさい。私は悪の秘密結社を潰すために暗躍するから。」


佳弥が追い払うように手を振ると、ゴアも手を振って雑踏へと消えていった。彼氏と二人して笑いながら、ちゃんと手をつないで歩くあたりは正当なデートであるな、と佳弥は感慨深く見送る。若者よ、メリークリスマス。仲良きことは美しきかな。嗚呼、青春だねえ。


「佳弥ちゃん、何か年寄り臭い顔してるぞ。」


「し、失礼な。」


 佳弥は慌てて頭をぶんぶん振った。

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