第37話 明日への説得

 佳弥は望みもしないガーリーなアクセサリをやるせない思いとともにリュックに詰め込んで、帰宅した。明日はデートだというゴアにプレゼントしてやろうかと思ったが、使わないことは明白である。ゴアの私服は、切れのあるクールなスタイルの物が多い。ふわふわのフリフリとは対角線上にある。ついでに、佳弥の私服は綿パンに落ち着いた色の無地のセーター、のような若さに欠けるものが多いが、本人は婆臭いとは思っていない。


 要らぬ出費をしてしまった、と佳弥は歯噛みしながらも、無事にマーラ・ルブラを脱出したことを飛鳥と幸祐に報告しておく。風呂に入り、家族と夕食を取り、さっさと寝るふりをして、佳弥はこっそりと外に出た。いつものダッフルコートを幸祐に預けてきたから、上着が無くて寒い。


 信号が変わるのを待ちながら、佳弥は幸祐にメッセージを送った。


「今から替わりに行きます。」


「慌てなくていいけど、早めにお願いします。」


どことなく元気の無い返事で、何事かがあったのかと佳弥は心配になる。が、それ以上はメッセージは送らずに佳弥は地下鉄駅へ降りる。


 駅のホームでは、丁度良く酔っ払いが駅員に絡んでいた。佳弥はしめたとの思いで変身し、酔っ払いに膝カックンを幾度か食らわせる。酔いに加えて、膝を折られて視界が揺れることで吐き気を催したのか、酔っ払いは駅員に絡む余裕をなくしてうずくまった。よし、一善行、と佳弥はカウントする。ここは錦からは少し離れているし、どれほどの打撃をマーラ・ルブラに与えられるかは分からないが。


 そうして、人ごみを小柄な女性めがけて体当たりして歩こうとする不機嫌なおっさんの脇腹をくすぐって止めたり、無灯火で走る自転車のライトを勝手に点けたり、路上で怒鳴り合っている男どもに文字どおり冷や水を浴びせて解散させたり、世の中の軋みに対してささかやな抵抗を繰り返しながら佳弥は例のボロアパートにたどりついた。ツボ押しではないのでバイト代は出ないだろうが、そんなことはどうでもよろしい。これは、佳弥による正当な報復劇の一幕である。


 佳弥は穴に潜り込んで、部屋の中に顔を出した。片隅に布団を敷きっぱなしの四畳半の部屋は、電気が消されて薄暗い。佳弥は変身を解いて隣の部屋に入った。ちゃぶ台の前では、幸祐がコートを羽織った上から掛布団をかぶって、縮こまっている。


「遅くなってすみません。」


 遅いと言っても八時にもなっていないが、佳弥は静まり返っている幸祐を不気味に思って優しく声を掛けた。


 幸祐は頭から布団をかぶったまま立ち上がって、佳弥の方を振り返った。お化けの真似でもしているようだ。


「ああ、佳弥ちゃん。心配した。無事で何よりだよ。マーラ・ルブラに変なこと、されなかった?」


布団の中から聞こえてくる声はいつもと変わりない。が、外観が変過ぎる。佳弥は布団と会話したいわけではない。


「色々ありましたが、私だとは気付かれずに済んだと思います。市川さんこそ、大丈夫でしたか?その恰好、寒いんですか?」


「俺は、その、マーラ・ルブラは何とかなったと思うけど…。」


幸祐はその場に座り込んだ。布団を羽織ったまま腕で膝を抱え込んで、うつむいている。


「あのさ、俺、もう帰るから。あっち向いててくれないかな。」


幸祐は腕に顔をうずめたまま力無く呟く。マーラ・ルブラでの出来事を佳弥に尋ねるでもなく、しょぼくれている。いつになく反応が悪いので、さすがの佳弥も心配になった。夜這いすると言っていた女の人にいたずらでもされたのだろうか。どう見ても、これは飛鳥ではないけれど。


「大丈夫ですか、市川さん。まさか、夜這いされたんですか。」


「何の話だよ、それ。俺、そんな危険まで迫ってたの?」


「いえ、彼女の狙いは飛鳥さんですから、私のふりをしていれば平気だと思いますが。それはそれとして、本当にどうしたんですか。具合が悪いんですか?」


佳弥は掛布団の上から幸祐の背中をさすった。明日の決戦にはいてくれなくても良いのだが、佳弥が一人で動こうとするときっとまた文句を言うだろう。だったら、元気を出してくれなければ困る。足手まといは要らないのだ。


 佳弥が珍しく温かい態度を示したので、幸祐は微かに頭をもたげた。


「あのさ、絶対に笑うなよ。」


「何をですか?」


これ、と言って幸祐は漸く顔を上げ、布団とフードをはねた。佳弥はそれをしげしげと眺め、しかつめらしい表情をした。


「よくお似合いですよ。かなり可愛いと思います。」


佳弥はできるだけ公平な評価を伝えた。幸祐は、ルージュの引かれた唇をへの字に曲げた。もともとぱっちりしたどんぐり眼はアイラインを整えられ、人形のように愛らしい瞳になっている。全体には透明感のあるファンデーションが乗って、ほんのりと頬が赤い。幸祐は、素材の良さを活かした自然なメイクが全体に施されていたのである。それに加えて、どこで仕入れたのか、佳弥と同じくらいの髪の長さのウィッグまでかぶせられている。


「飛鳥さんがしてくれたんですか?やっぱり、お化粧がお上手ですね。」


「言っとくけど、俺が頼んだんじゃないんだからな。黙ってると眠いから、何か手を動かさせてくれって無理やり襲われたんだ。ひどい話だろ。」


「ウィッグは?」


「飛鳥さんが買ってきた。佳弥ちゃんのふりをするなら、確かにこれはあった方が良いんだけど。化粧は無くたっていいじゃんか。俺、もうお婿に行けないよ。」


「何バカなこと言ってるんですか、今は男性もお化粧する時代ですよ。似合ってるんだから良いじゃありませんか。元気出してください。」


 佳弥はしょんぼりする幸祐の掛布団をはいだ。妙に可愛い仕上がりなので、佳弥のコートが似合うのが癪に障る。佳弥はコートも引っぺがし、幸祐の上着を代わりにかぶせてやった。


「明日のことをご相談したいのですが、やめておきましょうか?」


「いや、聞くよ。」


幸祐はウィッグを外して畳に置いた。ふむ、と佳弥は唸る。口紅さえなければ、このまま出勤しても良いんじゃないのか。飛鳥は本当に化粧が上手い。


 だが、そんなことを言うと幸祐がまた凹みそうなので、佳弥は黙ってリュックからマーラ・ルブラの資料を取り出した。


「今晩から明日の夕方までは、彼らは魔を錦で集めて、この美術館に溜めておくようです。古い展示物なんかが、魔を短期間留めておくのに丁度いいみたいですね。それから、午後六時前からそれをこの花さゝぎに流し込みます。この資料によると、七時までに流れの型を作っておいて、七時を過ぎたら本格的に注入するようですね。」


「花さゝぎって、あの料亭か。近付いたことすら無いなあ。でも、どうしてそこに?」


「そこで、予定価格の情報を奪取しようという企みがあるんです。」


 おそらくは、予定価格を知る者を料亭で接待しつつ、必要があれば黄金色のまんじゅうを積み、予定価格の情報を得ようという魂胆であろう。そのためには、良心の呵責や職業倫理のしがらみ、懲罰への恐怖を乗り越えて、目先の利益に食いつくという愚行を促すだけの魔が必要になる。


 飛鳥とも相談して決めるつもりだが、と前置きして佳弥は続ける。マーラ・ルブラは美術館と花さゝぎの二手に分かれて行動するので、佳弥も飛鳥と連携して別れて対応するつもりである。ただ、心配なのは、敵の数が多く、かつ一人一人の能力が高そうなことだ。正面突破は難しいかもしれない。


 佳弥の説明を聞いて、幸祐はうーんと難しい顔をした。マスカラの乗った睫が瞳に掛かって、悩ましげである。


「佳弥ちゃんがそんな危ないことに首突っ込むなんて、らしくないような気もするんだけど。これはさ、道で空き缶拾うとか、痴漢を退治するとか、そういうレベルじゃないだろ。談合を許せないというのは分かるけど、ここまで他社が絡んでいる以上、シンハオ本部に任せるのが真っ当な方法だろ?佳弥ちゃんなら、バイトはバイトだからって割り切って、大きな責任を伴うことは上に任せるって言いそうだけど。」


 ふむ、と佳弥は頷いた。確かに、幸祐の言うとおりだ。社会的道義を貫くにしても、一介のアルバイトが、無茶をしてまで他社の業務にちょっかいを出すべきではない。


 だが、もはやこれは佳弥のアルバイトとしての範疇を超えた問題になっている。逆に、これがバイトの仕事だったらあっけなく放棄しているだろう。佳弥個人のプライドと、これまでに個人的に被った迷惑のために、佳弥は闘うのである。


 佳弥はそう説明して、ついでに付け加えた。


「でも、市川さんもらしくないですよ。こんな面白そうなことに参戦しないなんて。マーラ・ルブラの変身能力はスゴイですよ。ニオイで私たちの存在に気付けるくらいですからね。変な探査能力もあるし。」


「えっ、何それ。」


幸祐はきらきらと目を輝かせた。が、すぐにぐっと我慢するように口をつぐんで深呼吸をする。


「駄目駄目。危ないことをしちゃ、駄目だ。やめとこうよ。」


「柄にもなく心配性ですね。マーラ・ルブラが怖いですか。」


「いや、俺は良いんだけどさ、佳弥ちゃんに何かあったらまずいだろ。ここに閉じ込められるだけならまだいいけど、直接対決したら怪我するかもしれないじゃん。俺はそれが心配なだけだよ。」


「そんなに心配して頂かなくて結構ですよ。」


「そんなこと言うなよ。俺は佳弥ちゃんを歳の離れた妹みたいなもんだと思ってるから。頼りない兄貴分ではあるけれども、できるだけ守ってあげたいんだよ。」


そう言って、幸祐はぽりぽりと頭を掻いた。


 これは困ったな、と佳弥は思案する。こんな兄貴は要らない、変な兄貴は現に存在する兄一人で十分である。という感想はさておき、他人のことを心配する人を説得するのは難しい。しかし、明日マーラ・ルブラを放っておくことはあり得ない。


 佳弥は真面目な顔をして、幸祐の丸い瞳を正面から見据えた。


「いいですか、市川さん。よく思い出してください、あなたの給与明細を。」


「え、急に何のこと。」


「毎月、なんぼむしり取られてますか、住民税。」


「うーん、いくらだったかなあ。二万円近かったかな。」


「それが、公共の福祉でも何でもなく、あの営業スマイルの奴の懐を肥やすのに使われると考えてください。腹が立ってきませんか。あなたは、汗水流して働いて得たお金を彼に気前良くプレゼントするつもりなんですか。変態ですか、市川さんは。」


幸祐は、それは嫌だけど、などともごもごと口ごもる。佳弥はずずっと幸祐ににじり寄った。


「シンハオ本部が動いてくれるのが最善ではありますが、中野さんに相談したって、どうせあのおっさんは何もしやしませんよ。そうでしょう?」


「うん、それはそうかも。」


「じゃあ、私とあなたで、悪を討とうじゃありませんか。私に危険が及んだら、市川さんが助けれくれればいいんです。そうでしょう?」


飛鳥もいるけれど、説得の最中に正確を期すのはまだるっこしいので、端折っておく。佳弥はじっと幸祐を見つめたまま、その手を取って握りしめた。革命の同志・市川よ、と心の中で語り掛ける。スポコン的情熱の演出である。


 幸祐は佳弥の迫力に呑まれたように目をしばたいていたが、やがてスッと目を逸らした。ほんのりと耳たぶが赤い。そうして、小声で答える。


「わ、分かったよ。どうせ、俺が止めたって佳弥ちゃんは言うこと聞かないしな。」


「分かればよろしい。」


 佳弥はぱっと手を放して、にじり寄った分プラスアルファ後退した。佳弥の情熱は、意図的に見せようとしない限りは表に出ないのである。


「明日の日中は、私は錦の近辺でマーラ・ルブラの邪魔になりそうな善行を積みます。夕方、お仕事が終わり次第、市川さんも参加してください。」


佳弥は熱量の無い、極めて事務的な口調に戻った。


「できそうなら、午後半休取るよ。午前中は、予定があるから無理だけど。」


「分かりました。では、昼過ぎに錦で落ち合いましょう。お仕事が終わったら、連絡をください。その頃には飛鳥さんも復活なさっているでしょうから、夜の計画も立てられると思います。」


 佳弥はそこまで言って、スマホで現在時刻を確認した。あまり遅くまで幸祐を引き留めていては、明日に差し障りが出る。そこで、ふと気付く。明日は二十四日、クリスマスイブではないか。木俣はもうお祭り騒ぎをする歳ではなさそうだったが、ちんちくりんなんてまだ若いのに、夜まで仕事か。気の毒に。


「そう言えば、明日の夜は市川さんはご予定は無いんですか。私の計画に加担していて大丈夫なんですか。」


 一応程度に佳弥は幸祐を気遣ってみた。言われた当人は何のことか分からない様子で、首を傾げている。


「何も無いよ。どうして?」


「クリスマスですから、特定の女性とキャッキャうふふするかと思っていましたが。市川さんの人生で大事な局面であるなら、そちらを優先してくださいよ。私の計画には飛鳥さんもいますし。」


ああ、と言って、幸祐は首を横に振った。


「俺、彼女いないから。寂しいこと言わせないでくれよ。」


「そうですか…あ、失礼しました、特定の男性でしたか。すみません、多様性への配慮が欠けていましたね。」


「そっちもいないよ。っていうか、俺は女の子の方が好きだよ。」


女の子みたいなぱっちりおめめの可愛い顔で言われてもなあ、と佳弥は思ったが、言わないでおく。


 いずれにせよ、予定が無いなら存分に憂さを晴らして頂けば結構。幸祐は少なくとも体力・筋力面では佳弥より当てになる。肉体労働が必要な場面では役に立つだろう。


「じゃあ、今日はお疲れさまでした。明日はよろしくお願いします。」


「うん。頑張るよ。」


 幸祐はそう言って、荷物を手にして四畳半の部屋の穴に向かった。その背に待ったをかけて、佳弥はマスクを一つ差し出した。


「化粧は石鹸では綺麗に落ちませんから、クレンジングを買って帰った方が良いですよ。」


「え、そうなの。」


「その顔、お店で見られたくないでしょう。マスクしていってください。」


顔を見られたくないときの気持ちは、佳弥にはよく分かる。真っ赤な口紅を引いた状態で町を歩くのは、辛かろう。佳弥の温かい配慮を幸祐はありがたく受け取り、心なしか元気の無い様子で出て行った。


 佳弥は穴を隠すように畳を敷き直し、布団も真ん中に寄せた。枕をもう一つ出して、畳の上に置かれていたウィッグをかぶせると、より一層人が寝ている感が出る。こんなもんで良いだろう。


 佳弥は台所で美味しくないお茶を淹れた。ちゃぶ台の脇に座って、飛鳥にも事の次第と資料の画像を送っておく。今日は全然返事が無いので、完全に沈没しているのだろう。幸祐でなくて佳弥に若返りメイクをしてくれなければ意味が無いのになあ、と佳弥は天井に向かってぼやく。きっとまた明日、オバサン呼ばわりされてしまう。気に入らない。マーラ・ルブラ、許すまじ。


 六畳間に布団を敷き、佳弥は早めに布団に潜り込んだ。暖房が無いから、変身していないと寒い。コンチキショウ、絶対に妨害してやる。布団の中で決意を新たにし、佳弥は眠りについた。

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