第36話 悪事の露見

 佳弥は会議室の時計を見た。三時が近い。イヤホンから聞こえてくる、ちんちくりんのスマホゲームの音も止んだ。どこで打ち合わせかな、と江藤の様子をのぞき見していると、のすのすというちんちくりんの足音が聞こえた。


「江藤さん、打ち合わせ、ここっスよね。」


イヤホンの音と、その場の音の両方が響く。そうだ、と答える江藤の声を背景に、ちんちくりんがコーヒーのペットボトルを片手に佳弥のいる会議室に入ってきた。適当な椅子に腰かけて、鼻歌を歌いながらスマホを取り出してニュースサイトを眺める。さっきのクレームを聞いていないからか、立場的に責任が無いからか、暢気なものである。佳弥はそっと背後に忍び寄って、襟元に付けた盗聴器を回収した。直接聞けるなら、盗聴器の音は邪魔だ。ついでにちらっと見ると、ちんちくりんは芸能人の離婚話というどうでもいい三面記事を熱心に読んでいるところで、佳弥はため息をつきたくなってくる。こいつのせいで悪事が行われるのは、何だか腑に落ちない。こういう奴が、安易に振り込め詐欺の受け子になったりするんじゃなかろうか。悪事にだって責任をもって正面から取り組んでほしいものだ。さっきの人造スマイルみたいに。


 佳弥は壁際に寄って、辺りを眺めた。さっきみたいに机の下でも良いのだが、いささか窮屈で足が痺れる。腰も痛い。もう少し、良い隠れ場所は無いか。


 そうこうしているうちに、人の足音がいくつも近付いてきた。打ち合わせの参加者だろうか、さすがに黒衣は着ていないが、スーツでもない。揃いの作業着のような物を着ているところからして、現場をメインに担当している職員だろうか。これは、もしかしたら江藤よりも変身後の能力が高いのかもしれない。江藤一人でさえ佳弥では太刀打ちできないのだから、正面からぶつかり合うのは避けねばならない。


 作業着姿の男女が四人、それに江藤とちんちくりん、さっきの女性上司という七人が揃い、会議室は扉を閉じた。江藤がA4の資料を配って、説明を始める。


「それでは、明日の工程について、確認を含めた打ち合わせを始めます。」


「その前に良いかい。」


 いかにも熟練の技師、といった風情の壮年の男性が片手を上げた。よく日に焼けて、硬そうな皮膚には深いしわが刻まれている。手もがっしりしていて、職人のようだ。


「何ですか、木俣きまたさん。」


「さっきから臭う気がするんだよ。別のところの変身の気配がさ。」


 江藤が眉をひそめる。それには構わず、木俣は作業着の胸ポケットからスマホを取り出した。するりと変身して、真っ黒な塊になる。にょろにょろを黒くしたみたいだ、と佳弥は思う。黒にょろにょろになった木俣は席を立つと、ぬるぬる滑るように動いて、ちんちくりんの背後に立った。


「な、何スか。」


「何だか、お前、シンハオ臭いな。」


すんすん、と臭いを嗅ぐようにちんちくりんの上にかぶさり、木俣はちんちくりんの後ろの首元に手を伸ばした。黒い手が首回りや襟元を探る。ちんちくりんはくすぐったそうに笑い声を上げた。


「えへ、えへ、やめてくださいよ。くすぐったいっス。」


「おかしいな、この辺臭いんだけどな。お前、ちゃんと風呂入ってるか?」


入ってますよ、というちんちくりんの返事を聞きながら、木俣は机の下をのぞき込んだ。するすると影を机の下一面に伸ばし、探るが、手ごたえ無し。


「っかしいな。絶対臭うんだけどよ。」


「俺と江藤さんは、シンハオの奴らを閉じ込めてある部屋に二度も出入りしたからじゃないスかね。」


ふうん、と言って、木俣は江藤のそばに寄った。


「確かに、江藤もちょいとシンハオ臭いな。でも、閉じ込めてある奴らは変身ができないようになっているんだろ?おかしかねえかい。」


「まさか、逃げ出されたとでも?」


江藤はただでさえ寄っている眉間を更に寄せて、腕を組んだ。暫し考えて、ちんちくりんの方を見遣る。


「悪いが、少し様子を見てきてくれないか。」


「えっ、俺っスか。打ち合わせ、どうするんスか。俺も明日参加するんでしょ?」


「お前は俺と一緒に動くから、後で個別に説明する。とりあえず、あのぼろ家を見に行ってくれ。」


ちんちくりんは不満そうな顔をしつつ、立ち上がった。のろのろと会議室の扉を開けて出て行く。


 ほうほう、と佳弥は心の中で呟いて、懐からスマホを取り出した。画面の光が漏れないように、黒衣で包みつつ幸祐にメッセージを送っておく。


「今からそっちにリンゴが一人行きます。気を付けて。」


「精いっぱい努力します。」


何だかしおらしい返信が来て、佳弥は少し不安になる。が、そちらにばかりかまけている場合ではない。


 佳弥はじっと身動きをしないまま首だけを眼下の会議室に向けた。佳弥は今、会議室の奥の壁に設置されている、背の高いキャビネットの上にうつ伏せに寝転がっている。天井との隙間が、その程度にしか空いていないからである。窮屈だが、机の下にいるよりは楽だし、机の下にいたら危ないところだった。


 佳弥が予想したとおり、作業着の人たちは江藤よりも遥かに変身後の能力が高いと見える。シンハオ臭いって何だそりゃ、と佳弥は思うが、何にせよ佳弥の存在を察知される危険性は非常に高いようだ。佳弥は気休めながら、私は窒素、私は無臭、と心の中で何度も呟く。


 それが功を奏したのかは分からないが、木俣は首を傾げつつも変身を解いて席に戻った。


「では、時間もありませんので、手短に説明します。」


江藤は資料に目を落とした。


「マラの最終集約地点は、資料にあるとおりの場所です。時刻は午後六時半から午後八時半。本日よりマラの流れをこちらに寄せていくことになります。」


 マラ、というのは魔に相当するものか、と佳弥は目星を付ける。呼び名くらい全国統一規格にしてほしいものだ。それより、マーラ・ルブラのマーラはそれと掛詞なのか。どうなんだ、会社名に魔的なものを冠するって。と、佳弥は他人事ながら落ち着かない気持ちになる。


 佳弥からは資料の文字は読めないので、どこに魔を持って行くつもりなのか分からない。オペラグラスでもこさえれば見えるかもしれないが、今は動きは控えたい。後で江藤とちんちくりんが個別に打ち合わせるのを聞くしかないだろう。


「江藤さん、これ、直接錦から持っていくことになってるけどさ、ちょっと難しいんじゃない?」


「そうだよね。仕込みは錦の方が良いと思うけど、当日に一点に流し込むには障壁が多いし距離が遠い。一旦どこかに集めて、そこから流す方が良いね。お城か…いや、東の美術館か。」


「分かりました、では、ここは修正します。」


作業着の人々の意見は素直に取り入れるらしい。作業着の四人が何か言うたびに、江藤は手元の資料にペンで書き込みを加えていく。


「ただ、明日の日中は丸の内にも多少流しておきたいんです。」


「染みる程度で良いなら、丸の内の中で何とかすればいい話だが。人は多いしな。」


錦は市内中央付近の繁華街、丸の内は官庁街である。地名が出てくるたびに、佳弥はふむふむと記憶に留める。明日は明るいうちから活動するらしい。それならば、佳弥も日中から世のため人のために変身の力を使えば良いのだろう。


 木俣がまた辺りを見回し始めたので、佳弥は顔を伏せた。あの職人、鋭すぎる。絶対に戦うべきではない相手だ。飛鳥がやられたのも、あいつではなかろうか。私は窒素、私は窒素。空気中の無害な多勢。無色無臭。佳弥は目を閉じて念じる。


「しかし、何の目的か知らないが、随分切羽詰まった動き方だな。俺たちは技術屋だからよ、指示のとおりにマラを操作するだけだが、今回はちょっくら無理が無いか?シンハオに対する対抗措置も、堅気の道からは完全に外れているし。」


「すみません。時間に全然余裕が無いんです。私も大分前から動いてはいたんですが、シンハオがらしからぬ動きを見せていて、対応が後手に回りました。情報システム課の解析も時間が掛かって。」


「まー、今更言っても何だけど、もちっと早めに相談してくれんかな。そっちの課は案件丸ごと抱えてやりたいって事情は分からんでもないんだけどさ。」


 木俣はぶーたらぶーたらと文句を言った。江藤と一緒に、上司の女性も謝罪する。さっきからこの人は謝ってばかりだなあ、気の毒に、と佳弥は思う。板挟みの気苦労が絶えない中間管理職ってやつだろうか。


「まあ、いいじゃないですか、木俣さん。おかげで、あの目の上のタンコブにもお返しができたし。」


「んん、俺はあいつがいないと、やりがいが無くて少し寂しいんだけど。あいつ、シンハオのくせに、やることがぬるくねえし。」


「あー、私も寂しいのは分かります。折角だし、私、夜這いに行こうかしら。変身してなきゃ好い男だもんね。相手に気付かれないうちに好き放題できるって、ぞくぞくしちゃうわ。」


ああ、飛鳥のことか、と佳弥は思う。夜這いはやめて。いないのがバレるから。それにしても、飛鳥はこの技術屋集団の間では顔が売れているらしい。しかも、正体の方も。結構仲が良いんじゃないのか。喧嘩するほど、何とやらというではないか。


「皆さん、何度か言っていますが、そちらではなくて年増の婦人の方がまずいんですよ。道理も分からないアホのくせに、何故か的確にマラの流れを変えてくるんです。」


 佳弥はムッとした。佳弥は年増ではないし、アホ呼ばわりされる筋合いは無い。


「おーい佳弥ちゃん、だっけか。まあ、ちょろいもんだったじゃないか。まだ素人だろ。」


「連れもアホで助かりましたねー。」


連れがアホなのは認めよう。だがしかし。佳弥は声に出さないように唸った。幸祐が佳弥を大声で呼ばわったのを聞きつけて、それを利用して佳弥の不意を突いたということか。だから名前で呼ぶなというのに。もう、返事してやらん、と心の中で佳弥は幸祐に八つ当たりする。


 携帯電話の震えるくぐもった音が響いて、江藤が懐からスマホを取り出した。会議中であるにもかかわらず電話に出る。受け答えの断片から察するに、どうやら、ちんちくりんからの連絡らしい。


「ああ、二人ともいるのか。え?オバサンの方が、手作りのトランプでソリテアしてる?侘しすぎて泣けてくるって?そんなこと観察しなくていい。すぐ戻ってこい。」


江藤は苦り切った表情で電話を切った。作業着の面々が忍び笑いを漏らす。


 佳弥はほっと安堵する半面、呆れたような気持になる。手作りトランプって、何だそれ。市川君、女の子のふりをするにしては、いささか発想がおかしくないかな。佳弥は暇過ぎたってそんな真似はしない。だが、任務は達成できたのだから、後でちゃんと褒めてやるとしよう。


「聞こえていたでしょうが、やはり逃げられてはいないようです。皆さんにもお手伝い頂いて閉じ込めてありますし、毎日点検していますし、問題は無いはずです。」


そうか、と木俣は五分刈りの頭を撫でた。よし、諦めてくれ、と佳弥は願う。見つかったら、逃げ場は無い。上司の女性が戦うタイプかどうか分からないが、作業着四人と江藤に囲まれたら、絶対に勝てない。あの部屋から逃げたことが分かった以上、同じ部屋には戻してくれないだろうし。今度こそ、コンクリに詰めて海に沈められるかもしれない。


 では、と気を取り直したように江藤は説明に戻った。


「今晩のマラの集約は、先ほどのとおりでお願いします。明日ですが、事前にお伝えしたように、二手に分かれます。上流で流し込んで頂く組と、下流の最終地点で調整をする組ですね。私が下流で受けますので、木俣さんたちは上流をお願いします。」


「まー、そうなるわな。依頼の内容を内部にも漏らさないってぇんなら。」


 でもよ、と木俣は江藤ではなく上司の女性に顔を向けた。


「今まで、江藤一人で失敗してきたんだろ。例のおばはんはもう出てこないとはいえ、シンハオの動きは警戒した方が良い。俺も江藤組に入らせてくれんかな。」


「しかし…クライアント、標的ともに素性を秘匿するというのが契約上の条件でして。」


「それで失敗しちまったら元も子もねえやな。あのおデブちゃんはちょっと頼りないし、何かあったら江藤だけじゃ手が足りないと思いますよ?」


 ちんちくりんの戦闘力は低いらしい。木俣がいるのは嫌だなあ、と佳弥は思ったが、上司は暫く悩んだ末、首を縦に振った。


「仕方がありません。ただし、クライアントと標的の会合の現場には近付かないようにしてください。周囲で警戒する分には、木俣さんに参加して頂いて構いません。」


 心なしか、江藤は気まずそうな顔をしている。本来一人で任せられていた仕事の尻拭いを他人にさせることで、プライドが傷ついているのかもしれない。木俣は意に介することなく、資料を読み直している。


「じゃあ、俺は明日は午後五時半に花さゝぎの方に集合だな。」


「お願いします。ほかの皆さんは、午後五時に、錦…でなくて、美術館の正面玄関へ。」


 花さゝぎ、とは佳弥でも名前だけはを聞いたことがある老舗の料亭である。どこにあったか覚えはないが、調べればすぐに判る。しかし、そんなものすごい料亭で、あの人造スマイルは禿さんを接待するのか。禿さん、それを受けただけでもう陥落したも同然ではないのか。陥落しないで自腹を切るとしたら、禿さんの財布も相当な痛手だろう。佳弥は気の弱そうな禿さんの顔を思い出した。そもそも料亭に来させないという選択肢があれば良いのだが。


 資料にはあれこれと修正が入ったので、直したものをすぐに印刷してくる、と江藤は会議室を離れた。その間に、作業着の四人は今晩の打ち合わせを始める。どうやら、一人ずつに分かれて、錦近辺で魔を集めて美術館の方に流すらしい、ということは佳弥にも掴めた。具体的な手法となると、略語や隠語が多くて、聞いていてもよく分からない。しかも、個人プレーであるせいか、各人の縄張りを設定したら後は殆ど雑談に終始している。何だか和やかな雰囲気で、謝ってばかりいた上司も笑顔を見せているので、佳弥は少し心が安らぐ。


 ほどなく戻ってきた江藤が資料を全員に配布すると、打ち合わせの参加者は三々五々席を立った。冬の短い日は傾き始めている。早速、錦に行って魔を回収し、美術館の方に溜めておくのであろう。佳弥はキャビネットの上に寝そべったまま、全員が退室するのを見守る。相変わらず何かを気にするような素振りを見せる木俣が出て行き、人の声も足音も聞こえなくなった頃、佳弥は漸く息を深々と吐きだした。


 ちら、と下に目を向けると、誰もいない会議室の机に、余った資料が置きっぱなしになっている。後でちんちくりんと江藤が打ち合わせるときに使うつもりなのかもしれない。が、ありがたく拝見することにいたしましょう、と佳弥は目論む。


 佳弥はキャビネットの上から身体をずらすと、そっとでっぱりに足を掛けて降り始めた。何の工夫も無く普通によじ登ったので、降りるときも同様である。幸祐や飛鳥のような身軽な芸当は佳弥にはできない。ちょっと息を切らせつつも、佳弥は床に降り立った。埃がいっぱい服に付いていてバッチいが、そんなことは今はどうでもよろしい。佳弥は机の上の資料を一部手に取った。スマホで撮ろうかとも思ったが、音がするのでやめた方が良いだろう。現物を頂戴して、丁寧に折って、小ぶりなリュックにしまい入れる。


 その時、背後から足音と人の声が聞こえてきた。ちんちくりんと、江藤と、木俣までいる。佳弥は取り急ぎ机の下に隠れた。


「マジで悲しいもんっスよ。年増の女が、手で書いたハートの四とか、ダイヤの十一とか、並べてるんスもん。俺、あんな老後は嫌だとしみじみ思いました。」


「ああ、その話は分かったから。スマホの電池が切れて、手持無沙汰だっただけだろう。」


 ちんちくりんにそこまで気の毒がられているのは、佳弥としては面白くない。大体、佳弥の変身後が四十五歳だとしても、老後と呼ぶには早すぎる。人生は四十過ぎてから、と飛鳥も言っていた。が、今はその気持ちは抑える。


 木俣は部屋に入るなり、鼻をくんくんと鳴らし始めた。


「やっぱ、臭うんだよなあ、この部屋。」


「こいつではなくて、部屋が臭うんですか。」


「うーん、そいつも臭うけどな。ついでに、お前ちょっと体臭キツイから、女が欲しけりゃ気を付けた方がいいぞ。」


木俣に言われて、ちんちくりんは慌てて自分のシャツの中の臭いを確かめる。シンハオ臭いのって、男の体臭っぽい感じなのか、と佳弥は机の下で愕然とする。それ、かなり嫌だな。


 木俣は腕を組むと、辺りを見回した。スマホを取り出して、するりと変身する。


「ちょっと走査するから、気持ち悪いかもよ。」


江藤とちんちくりんに一声かけると、木俣はしゅるしゅると影を広く伸ばし始めた。床を、壁を、椅子を、机を、隈なく影が覆っていく。佳弥も例外ではない。足元から伸びてきた影が佳弥を塗り潰すように包む。前歯の裏に冷たい水が凍みた時のような、神経を逆なでする感覚が全身に行き渡る。実に不快、ぎゃーと叫んで払いのけたい気持ちでいっぱいになる。だが、今は忍の一文字である。佳弥はぎゅっと目を閉じ口も閉じ、息を潜め続けた。


「あー、きまっさんのはキツイっスね…。俺ちょっと外出てますわ。」


「おっと、動かんでくれよ。何かいるみたいだ。」


マジっスか、と言ってちんちくりんは足を止めて振り向いた。マジっすか、と佳弥も言いたい。部屋の奥や天井に伸びていた影が収縮し、キャビネットと机の周りに濃密な影が残る。


 木俣はすたすたとキャビネットに向かうと、いとも簡単に飛び上って上を確認した。


「誰もいねえか。」


 いない、いない。私はここにいない。佳弥は心の中で繰り返す。だが、この暗示だけではどうもまずいことになってきた気がする。木俣はキャビネットから離れ、会議机に向けてひたひたと迫ってきている。


「えー、まさかこんな初歩的なとこっスか?」


 ちんちくりんが机の下を覗いた。その途端、ギャーっと大声を上げてのけぞり、机の角に頭をしたたかに打ち付け、また叫ぶ。


「ギャー、ごき、ゴキブリ!誰か取って、取って!」


錯乱して、ちんちくりんは手近にいた木俣に突進した。その顔に、大きく黒々とした艶やかなゴキブリが一匹へばりついている。


「こっち来るな!」


木俣が思わずよけようと身をよじると、ゴキブリはちんちくりんの顔から見事に飛び立って飛行を始める。そして、ゴキブリというものは何故か人のいる方に向かって飛んでいく。


「うわ、来るな来るな!おい、江藤、殺虫剤持って来い!」


江藤は慌てて部屋を飛び出していく。逃げた、とも言うのかもしれない。


「誰か取って、顔、ゴキブリ!」


ちんちくりんは目を閉じているので、ゴキブリが自分から離れたことを察知していない。当のゴキブリは、木俣の真っ黒な中に溶け込むようにして着地している。


「どこだ、どこだ?黒くて見えねえ!」


木俣は変身を解いた。ゴキブリは木俣の作業着の上を素早く前進している。ここでまた、叫び声が発生する。


 阿鼻叫喚、と呟いて、佳弥はそそくさと部屋から抜け出した。途中で江藤とすれ違ったが、叫び声の絶えない会議室に気を取られているためか、全く佳弥には気付かない。


 佳弥は急ぎつつも忍び足でオフィスエリアを駆け抜け、エレベーターホールに到着した。どうしようかなと一瞬悩み、エレベーターを使うのはやめて非常階段の扉を開ける。何十階という高層階ではないので、大したことは無い。が、四十五歳では膝が痛いので、佳弥は変身を解いた。佳弥特製の、人間ラブな性格のゴキブリも消えたことだろう。ゴキブリとは、知らぬ間にどこかに姿を消すものだ。とんとんとんと勢いよく駆け下りて、佳弥は外に出た。


 前後左右を確認する。黒い影は、見えない。変身していないと見えないのかもしれないが。


 いずれにせよ、急いでこの場を離れた方が良い。相手は佳弥の顔を知っている。オバサンだと思い込まれてはいるが、顔の造りがガラッと変わるわけじゃないのだから、十六歳の姿でも気付かれる可能性は十分にある。


 佳弥は小走りでその場を離れた。だが、一ブロック走ったところで角を曲がり、後ろを確認すると、ビルから木俣が出てきた。


「ちっきしょう、何だあのゴキブリ。仕事前にひとっ風呂浴びねえと気持ち悪い。」


顔をしきりにこすっている様子から察するに、木俣も佳弥のゴキブリと熱いベーゼを交わしたのだろう。佳弥はにんまりしつつも裏通りに入って、様子を窺う。佳弥の存在を知ってか知らずか、木俣は足早にこちらに向かってくる。今は若いのでこのまま走って逃げても良いのだが、その後姿を見せたら、私にはやましいところがありますと白状しているようなものだ。どうしようかな、と佳弥は辺りを見回し、手近な衣料品店に飛び込んだ。


 適当にそこいらにある上着を掴んで、試着のふりをして袖を通す。ついでに、髪もほどいて、手近にあったコサージュをぼんぼん乗っけておく。何の店だか知らないが、やたらとフリフリでふわふわな衣装ばかりだ。レースがたっぷりついた何やら正体の分からない布切れを両手で持って、自分に当てるようなふりをして顔を半分隠しながら、佳弥は外の様子を窺った。


 木俣は通りすがりに佳弥のいる店内に目を向けたようだったが、全く関心が無い様子ですぐに立ち去った。さすがにこの店に入って、臭い臭いと連発するわけにはいかないだろう。


 うむうむ、誤魔化せた。佳弥はレースの塊を降ろして、満足げに頷いた。しかし、佳弥の敵は店内にもいたのである。


「お客様、よくお似合いですよ。とーっても可愛い。」


「うへ?」


しまった、と佳弥は思ったが、フリフリな衣装を身にまとった店員がぴたりと貼り付いてきていた。佳弥は手にしていたレースの塊の値札をちらりと見た。結構高い。上着の値札も見てみると、佳弥の天地がひっくり返るくらい高い。佳弥は慌てて脱いで、綺麗に元に戻した。えへら、と店員に笑いかけてみるがちっともいなくなってくれない。さりとて、今すぐ店を出ると木俣に見つかる可能性がある。結局、佳弥はこの店の中で一番安いものを探して購入する羽目 になった。マーラ・ルブラに対する怒りの炎に燃料が足されたのは言うまでもない。

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