第35話 悪の居城にもクレーマーは来る

 降りた先はワンフロア全部がマーラ・ルブラなのか、壁面にマーラ・ルブラの看板があった。スタイリッシュで読みやすいロゴタイプと、簡素にデフォルメされたリンゴの絵に好感が持てる。お客様はどうぞお入りください、という開放的な様子からして、どうやら世をはばかるつもりは全然無いようだ。就職しても良いかも、と思えるくらい信頼感に溢れている。


 さりとて、フロアが広いのでどこに行けば良いか分かりづらい。佳弥は近くの入り口から中の様子を窺った。整然として、風通し良く、合理的なオフィスである。祝日だからか、人は少ない。しかし、余りに明るく片付いているので、佳弥は何となく入りづらい。いつもは夜に行動するから気にならないが、周りが明るいと黒衣が目立つ気がしてしまう。


 佳弥がエレベーターホールの柱の陰で腕組みをしていると、登ってきたエレベーターがすうと開いた。仕立ての良いコートに身を包んだ顎の細い男性が大股で佳弥の目の前を通り過ぎる。


「おや、建築業界の人造スマイル。」


 佳弥は心の中で呟いた。佳弥がかどわかされた昨晩、よく禿げたおじさんと仲良さげに歩いていた人である。今は相手がいないからか、珍しく笑顔が無い。このおじさんに関しては、笑わない方が親しみが持てる気がする。


 佳弥はすっと人造スマイルの影のように後ろに貼り付いた。人造スマイルは迷うことなくオフィスの中を通り抜け、途中で足を止めた。危うくぶつかりそうになりながらも、佳弥は何とか踏みとどまる。軽く会釈をした人造スマイルの頭の上からそっと覗くと、さっきの眉毛とやや年上の女性が同じように会釈を返していた。ちんちくりんはいない。イヤホンから聞こえる声の様子からして、別の場所で休憩しているようだ。


「どうぞ、こちらへ。」


 先に立った女性に促され、三人は開放的なオフィスを離れて別室に入った。当然、佳弥もするりと滑り込み、机の下に潜った。ついでに、私は部屋の埃、私は部屋の埃、と自己暗示を掛けておく。


「前置きは省略しますが、一昨晩、昨晩のことはご存じですか?」


 人造スマイルが話を切り出した。佳弥からは顔が見えないが、どうも声に愛想は無い。


「はい、こちらの江藤から報告は受けております。功を奏さず、大変申し訳ございません。」


女性の声だ。ということは、佳弥をつけ狙った眉毛野郎が江藤という名前らしい。女性は上司なのか。


「明日には情報を得ないと、年明けの入札までに調整ができません。私もそれなりの対価はお支払いしておりますが、今のところ全く進展していませんね。一体どういう状況なのか、ご説明頂けますか?」


「はい、実は今回の件では競合会社による妨害が著しく、それが原因でこれまでのところ全てが灰燼に帰しました。」


 江藤の声が答える。おいおい、一昨日はともかく、昨日は私は何もしていないぞ、と佳弥は口をとがらせた。一昨日だって、アンタは途中で仕事に戻っていったじゃないか。それも失敗したとしても、佳弥は関係ないはずだ。うまくいかないことを何でもかんでも他人のせいにするな。


「妨害?この件が外に流出しているのですか?」


「いえ、それはありません。競合会社も、私が何のために動いているかは全く理解していないようです。」


「では、何故妨害をするのですか。」


もっともな疑問である。ただ、佳弥は妨害してやろうと意図して何かしていたわけじゃないのだから、そこに理由を求められても困るだろうが。


「妨害工作をしていた他社の者は、かねてより弊社に敵対する態度を示していました。今回も、そういった個人的な怨恨ではないかと思います。」


「そんな理由による妨害で無力化される程度のものなのですか、あなた方の仕事は。馬鹿々々しい。子どもの喧嘩のつもりですか?業務として請け負っておられる以上、組織として対抗して頂きたい。」


ごもっともだ。佳弥は再び同意した。佳弥が金を払ってなにがしかを依頼している立場だったら、同じように怒りを感じるだろう。それはさておき、私はかねてより敵対していたわけではない、と佳弥は言いたい。佳弥のことを説明できないからって、飛鳥とひっくるめていないか、こやつは。


「大変申し訳ありません。ただ、私たちの扱うものは非常にデリケートで、僅かなゆらぎで大きな影響を受けます。多少の妨害で完全に計算が狂い、それを修正するには非常な時間と労力を要するという点はご理解ください。」


上司が釈明する。人造スマイルの反応は分からないが、ほうほうと佳弥は頷く。なら、やってやろうじゃん、些細なことから一歩ずつ。


「昨日、漸く妨害の予防策が功を奏しました。修正作業も予定どおり進んでいます。明日は効力を発揮できるよう、一丸となって当たっております。」


江藤が言うのを聞いて、佳弥はにやりと笑う。予防策は完全に失敗しているぞ。


「しかし、昨日でさえ、弱いところを単身で誘い出すのが精いっぱいで、予定価格を聞き出すどころか、飲食費の肩代わりすらできませんでした。これまでの経験と比較しても、明らかにガードが堅い。あなた方の仕事がむしろ逆に働いているかのようです。この点はどうなのですか。」


「それは今回のご依頼による操作とは関係が無いようです。弊社での事前アセスメントによりますと、言ってみれば、スタート地点が大分後ろに下げられていた、という印象があります。」


「はかばかしくない現状でさえ、あなた方の精いっぱいの成果だとおっしゃるのですか?形として結果が出なければ意味がありませんよ。事前にご相談申し上げた際には、請け負えるとのお話だったのです。今更、条件が悪かったからできませんでした、では話にならない。」


 人造スマイルはご立腹のようだ。江藤とその上司はひたすらに謝罪と、明日こそは、というフラグのような約束を繰り返し、人造スマイルをなだめている。


 佳弥はどうでもいいクレーム&謝罪を聞き流しながら、頭の中で情報をまとめた。


 人造スマイルは、明日までに予定価格を知りたがっている。そのために、マーラ・ルブラに金を積んだ。予定価格の漏洩元として狙われているのは、どうもあの禿げたおじさんっぽい。今のところ、贈賄は全く成立していない。 


 あの禿さん、気が弱そうだったけど、頑張ってるんだ。佳弥が攫われる直前、一人でこの人造スマイルに連れ出されていた様子だったが、耐えたんだ。佳弥は少し禿さんを見直した。が、今や篭絡直前なのかもしれない。マーラ・ルブラがこれからせっせと魔を操作して禿さんの心に魔が差すようにしたら、禿さんは大事な予定価格を人造スマイルに漏らしてしまうに違いない。


 そうして得た予定価格の情報を、人造スマイルは年明けの入札以前に行われる「調整」の場で利用する。


 ここまできたら、「調整」の正体は談合しかないだろう。佳弥は心に怒りの火が燃え上がるのを感じた。不正を働こうとする人造スマイルも、魔を操作して不正に加担しようとするマーラ・ルブラも、とんだ罪人どもだ。そりゃ、人の心に魔がさすようにするなんて、何の証拠も残らないし、刑法的には罪にはならないだろうが、最終的な目的地は犯罪ではないか。私や家族や善良な一般市民の払う税金が、無駄に使われてしまう。こんな奴らを利するために税金をむしり取られていると思うと実に腹立たしいではないか。


 それより何より、そんな犯罪を成立させるために、佳弥は散々襲われて、監禁されて、幸祐に電話番号やアドレスを知られて、ゴアには要らん誤解を与えて、家族には架空の友人宅に外泊という嘘をつかざるを得なかった。私のささやかで穏やかな小市民的平和に満ちた生活をぶち壊しやがって。絶対に生かしてはおけぬ。


 マーラ・ルブラのオフィスがあまりに整いすぎていて、こんな真っ当な会社の営業妨害をするのもどうかしら、と一瞬でもためらった自分が嘆かわしい。こやつらの野望は粉砕すべきものだ。義憤と私怨に燃える目で佳弥は拳を握り締めた。


「仮に明日までに結果が得られなかった場合は、契約違反ということで、支払いの停止及び違約金の請求を行います。ご了承ください。」


「ですが、別件の契約に関しては既に遂行済みです。こちらはお支払い頂くべきものです。」


「無論、そちらは承知しています。同業者への根回しがかなり円滑に進んだのは私も理解しています。しかし、それもこれも、予定価格あってこその話。本契約に関しては、シビアに詰めさせて頂きますので。」


 そう言って、人造スマイルは静かに席を立った。慌てて、江藤と上司もその後に続いて部屋を出て行った。佳弥はそろりそろりと机の下から這い出して、うーんと伸びをした。ずっと縮こまっていて、体中が凝った。会議室の扉の陰に潜んでオフィスエリアを覗きつつ、ぽきぽきと関節を鳴らす。


 やがて、江藤と上司がため息をつきながらオフィスエリアに戻ってきた。こってりクレームを付けられて、お疲れのようだ。何かぼやき合っているようだが、佳弥の位置からは聞こえない。あの顧客を相手にしていたのでは、江藤も仕事熱心にならざるを得ないな、と佳弥は少し同情する。休日出勤だし。

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