第32話 猛禽は籠では飼えません
「佳弥、今日は幸祐君とは一緒じゃなかったのか?」
「一緒にいるところを拉致されました。」
飛鳥に聞かれて、佳弥は平坦に答えた。一人で行動するなと偉そうに言っておきながら、すぐ隣にいても何にもならなかったではないか。全く、役に立たない奴だ。佳弥は腹の中で文句を言い、口には出さずにおく。
「連絡してみた方が良いんじゃないか?僕たちとは違うところに監禁されていないとも限らない。」
飛鳥は心配そうな顔をした。確かに、その可能性はゼロではない。佳弥はあっという間に気を失わされてここに連れてこられたので、幸祐がどうなったのか知る由もない。同じように別の昭和部屋に閉じ込められているかもしれない。
とはいえ、アプリが使えない今、幸祐とは連絡の取りようがない。しまった、こんなことならメアドを教えておけば良かったのか。佳弥はほんのちょっぴり後悔したが、やはり教えたくない気持ちが勝る。自然と、眉間にしわが寄る。
「どうしたんだ、不機嫌そうな顔をして。気に掛かることでもあるのかい。」
「いえ、市川さんの連絡先を知りません。アプリしか使っていなかったから。」
「そうか。今どきの子は、そんなものなのか。僕らは何かというとすぐにメアドなんかを交換したものだったが。今は個人情報に敏感なんだな。」
ちょっと違う気もするが、佳弥は敢えて否定しないでおく。
そうか、と佳弥はふと思いつく。ゴアを経由すれば良いのか。何と説明したものか、と少し悩んでから、佳弥はメールを打った。
「悪いけど、市川さんに伝言頼む。飛鳥さんと一緒にいる。赤いリンゴのせいでアプリが使えない。以上」
「意味わからんけど、オッケー。」
ゴアからはすぐに返信が来る。やれやれ、これで良かろう。と佳弥はお茶をすすった。温かくても冷めても美味しくない。困ったものだ。おなかも空いてきたし。
はああ、と佳弥はため息をついた。どうしたものか。きっと、佳弥をはめたのはあの低い声の人影の主だろう。昨日の襲撃と、今日の拉致のタイミングを合わせて考えると、共通項であるあの禿げたおじさんがマーラ・ルブラの目的に関係しているということに違いない。ということは、あの禿げたおじさんと笑顔の貼り付いたおじさんの仲の良さは、なにがしかの悪事につながっている。尾行そのものは、事実を解明しようとする上では間違っていなかったのだろう。だが、あの人影の逆鱗に触れるにもまた十分であった、ということか。また自分の仕事の邪魔をしに来やがって、というところだったのだろう。
だけどねえ、と佳弥は心の内でぼやく。悪事が行われようとしているのに、あっしには関わりのねえことでござんす、と傍観を決め込むのは悪事を働くのと同罪だ。
ぷつぷつと考え事をしていると、スマホが震えた。ゴアからのメールである。
「佳弥と市川さんの間では何が起きてるんだ?まんま転送するよ(笑)。
佳弥ちゃん、大丈夫?どこか怪我は無いか?どこにいるの?リンゴって、またあいつか。めっちゃ心配だよ。俺がすぐそばにいたのに、ごめん。すぐ行くから、どこにいるか教えてくれ。」
はーああ、と佳弥はため息ばかり繰り返す。ゴアにそんなメールを送って、幸祐はどうするつもりなのだ。あのたわけめ。冷静になって文面を考えてほしいものだが、叶わぬ願いだろう。このままゴアを間に挟むと誤解を招く気がしてきて、佳弥は辛気臭くうなだれた。面倒くさいなあ、もう。マーラ・ルブラ、絶対許さん。
「手間を掛けさせて、すまんです。直接連絡するから、私のアドレスを市川さんに教えてあげてください。あと、別に何も無いから、心配ご無用。」
「はいよー。今度ゆっくり聞かせてもらうわ。飛鳥さんとやらのことも含めて。」
ゴアの返信を見て、フォンダンショコラを食べに行く意欲がしわしわとしぼんでいくのを佳弥は感じた。この状況と、幸祐のあのとっ散らかったメールをどうやってスマートに説明しろというのか。無理がある。
不思議そうな顔をして見守っている飛鳥に、佳弥は概略を説明し、スマホの画面をそのまま見せた。飛鳥はこらえきれずに笑いだす。佳弥は全く面白くない。
「市川さんとお話をしても、状況は改善されないと思うんですよねえ。」
「佳弥、もう少し相棒を信頼してやったらどうだ。僕は、幸祐君は良いやつだと思うよ。」
「悪人でないのは認めます。しかし…」
有能ではない、と続ける前に、スマホが震える。幸祐から電話である。メアドを教えろとゴアに言ったのに、電話番号まで教えたらしい。おのれ、ゴア。心愛ちゃんのままにしておいてやれば良かったか。切ってやろうかしらと一瞬思ったが、飛鳥が横にいるのでそれは思い留まって、おとなしく通話ボタンを押す。
つながった途端、案の定支離滅裂な幸祐の声が響いてきた。やかましいので、佳弥は暫くスマホを耳から離して置いておく。まあ、少し、落ち着いたらどうかね、市川君。君もいい歳なんだから、と心の中で語りかける。これが精神四十五歳たる者の余裕である。
佳弥が全く返事をしないので、やがて幸祐はうろたえ始めた。そろそろ良かろうか、と佳弥はスマホを持ち直す。
「落ち着きましたか、市川さん。」
「ああ、佳弥ちゃん、無事だったんだ。良かったー。落ち着いていられるわけないだろ、急に消えちゃうんだから。それでどこにいるの、何してるの。怪我は。あいつはいるの?あれ、返事は?おーい、おーい。」
「うるさいなあ、もう。切りますよ。」
途端に面倒になって、佳弥は本音を漏らす。
「切らないで、切らないで。ホント、やめてください。」
「じゃあ、少し落ち着いてください。私の話、ちゃんと聞いていますか。」
「聞いてる。聞く。聞けども。で、どこにいるの?」
こいつは全然落ち着いていない。佳弥は引き続きため息をついた。疲れが増す。何か言って通じるのだろうか。
「さっき気が付いたばかりなので、どこにいるのかは分かりません。これから対策を考えます。以上、連絡終了です。」
「終了しないでってば。あのさ、佳弥ちゃんがそこに着いたのって、何時ごろか分かる?あ、飛鳥さんがいるなら、飛鳥さんに訊いてよ。」
「めんどくさいんで、直接飛鳥さんと話して下さい。」
佳弥はスマホを飛鳥に押し付けた。そうして、ぷいっとそっぽを向く。飛鳥は佳弥を見て笑いながらも、スマホを耳に当てて変身後の声で話しだした。佳弥が黒い影に連れ込まれた時刻を伝え、外の様子が見えない、GPSが使えない、音も聞こえないから、場所が分からないと説明する。
「佳弥は元気よ。怪我?無いわね。心配しないで、あたしが付いてるから。それより、幸祐クンは大丈夫なの?」
言葉の端々から、幸祐は無事で、いまだに路上を彷徨っているらしいことが分かる。こうして声だけ聞いていると、ミラクルボディーの飛鳥がいるような気がしてくるが、振り向くとカッコいいおじさんがラフな姿勢で電話をしている。何だ、このギャップ、と佳弥は変な気持ちになる。異次元に迷い込んだか。
暫く話をしていた飛鳥は、やがてスマホを放して、男声に戻った。
「佳弥、幸祐君が話したいんだとさ。ちゃんと聞いてやったらどうだ?」
「鬱陶しいなあ。」
渋々、佳弥はスマホを受け取った。
「何ですか。状況は飛鳥さんが説明したとおりで、私にはそれ以上のことは分かりませんよ。以上、通信終了。」
「だから、終了しないでくれってば。まあ、佳弥ちゃんがいつもどおりだってのはよく分かったけど。」
「それで十分でしょう。じゃ、そういうことで。」
「切らないで、切らないで。何度言わせれば気が済むんだよ。」
「切りたいんです。何度聞けば分かるんですか。」
不毛な会話だ、と佳弥は思う。今すぐ切りたい。電話代勿体ない。ああ、そうだ、幸祐の通信費が増えたら、正月に帰省するお金が無くなるかもしれないじゃないか。早く切ってやらないと。
「用件は何ですか、手短にどうぞ。」
「明日、それっぽい古アパートを回ってみるよ。マーラ・ルブラだって、瞬間移動できるわけじゃないだろう。佳弥ちゃんが消えた時刻と、そっちに着いた時刻から、大体の範囲は絞れる。変身してなくても、窓が真っ黒に見えるんだろ?」
「外からどう見えるか、知りませんよ。」
「それはそうだけど。だからさ、何か他に分かったら、すぐに教えてくれよ。」
「はい、はい。」
「なあ、頼むよ?って、何で俺が頼む側なのか、よく分からなくなってきたけど。とにかく、佳弥ちゃんを何とかして助けたいからさ。」
「はい、はい。ありがとうございます。じゃ、ホントに切りますね。」
その言葉どおり、佳弥はぷつんと通話を切った。幸祐が何か言っていたようにも聞こえたが、まあ、もう用は済んだだろう。
疲れた。コロンと横になりたいくらいだ。佳弥はのそのそと部屋の隅に置いてあったリュックから充電器を取り出した。通話は消耗する。電池も、気力も。
「おなか空いたなあ…」
佳弥はぶつぶつと呟いた。今日の夕飯は確か、佳弥の好物のアジの開きだったはず。ほぐして、アツアツのご飯に乗っけて、食べたい。まだ大根がいっぱいあるから、風呂吹き大根も作るって母が言っていた。味噌と柚子の皮を乗っけて、食べたい。そうだ、京都の美味しい柴漬けもあった。お茶漬けにすると最高なんだが。あーあ。
知らぬ間に独り言が漏れていたのか、飛鳥がくすくすと笑いだした。
「佳弥の好物は渋いな。」
「ああ、すみません。つい、独り言を。」
「そろそろ夕飯にしよう。大したものは無いんだがな。」
そう言って、飛鳥は立ち上がった。がらんとした台所のそこかしこを空けて、乾麺のうどんとレトルトカレーを取り出す。
「何だか、災害用の食糧みたいですね。」
「そんなのばかりだよ。カロリーメイトとか、アルファ化米とかな。備蓄の中から期限が近い物を回している感じだな。食生活が乱れると、化粧のノリが悪くなるんだが。」
おじさんの声で飛鳥はさらっと言う。佳弥がちらっと見た限りでは、四十過ぎという歳の男性の割には綺麗な肌である。化粧もよく乗るんじゃないかしら。
少しへこみと傷のある大鍋で湯を沸かし、うどんを茹で、カレーを温める。カレーうどんのできあがりである。熱々のカレーうどんをはふはふとすすりながらも、佳弥は逃亡について思案する。
「誰かが食料を持ってくるときに、そ奴をぶちのめして逃げ出せないんですか?」
「無理だな。こっちが変身できないから、向こうを認識できないんだ。いつの間にか、物資が置かれているという感じだ。僕はずっとここに座って、玄関を視界に入れているんだが、それでも気付けない。」
「窓をぶち破れないんでしょうか?」
「試したけど、駄目だったな。フライパンがへこんでしまった。」
「天井とか床下は?」
「手の届く範囲の天井は、板が抜けなかった。ここが一階じゃないのかもしれないが、床下点検口は見当たらないな。」
なるほど、と佳弥はうどんをもぐもぐする。長いことここに閉じ込められているのだから、佳弥がすぐ思いつくことはあらかた飛鳥も試したことだろう。となると、後はスプーンで壁を掘って穴をあける、巌窟王方式しかないのか。何年かかるという話だ。やっていられない。
「しかし、こうして人と会話するのも数日ぶりだ。」
感慨深そうに飛鳥が漏らすので、佳弥は何となく申し訳ない気持ちになった。
「すみません、何だか、私が目を付けられたせいで、飛鳥さんまでこんなことに。」
「ああ、気にしないでくれよ。僕はもともと、マーラ・ルブラとは仲が悪いんだ。中野さんには内緒だがね、しょっちゅう揉めているんだ。今回のは、佳弥にかこつけた腹いせではないかな。」
ふふふ、と飛鳥は笑う。それで中野がぼやいていたのか、と佳弥は納得する。まあ、あの食えないおっさんは、多少迷惑を掛けてやった方が良い。
「それで、佳弥は何故マーラ・ルブラに狙われていたのか、分かったのかい?」
飛鳥に尋ねられて、佳弥は首を横に振った。邪魔をしている、と繰り返されるが、具体的に佳弥の何の行為がどうやって邪魔になっているのかは不明だ。
「飛鳥さんは、私をつけ狙う奴らの目的をご存じですか?中野さんは教えてくれなかったんですけど。」
「あの人は当てにならない。ああ見えて、責任のあるポジションなんだけどな。」
何だ、中野は事務のバイトじゃなかったのか。佳弥は意外に思う。あんないい加減な対応をするやつは、無責任なバイトとかどこかからの天下り再雇用だと考えていた。
「でも、僕もはっきりとは分からない。ただ、僕がしくじったとき、マーラ・ルブラは複数人で対応してきたんだ。個人的な経験上、これは珍しいことでね。推測するに、かなり重大な案件なんじゃないかな。」
「マーラさんとこの案件というと、いつもはどんなことがあるんですか?」
「僕の知る限りだと、仕事上の契約を取るとか、誰かとの縁をとりもつとか、イベントの集客を増やすとか、そんなことだな。」
それは、絶対的な悪事ではない。意思に反して縁をとりもたれたら迷惑だろうが。佳弥は意外そうな顔をする。
「だが、やり口がシンハオとは大いに違う。僕たちのようにツボみたいなものを押すこともあるが、大事なところでは直接に魔の流れに棹を差すんだ。」
「どうやるんですか?」
「それは僕も知らない。あちらのシステムにアクセスを試みてはいるが、ガードが堅いんだ。」
ああ、さいですか。さすがSE、と言って良いのか。佳弥は何とも言えずに、言葉とともにうどんを飲み込む。
「佳弥は昨日も襲われたと言ったな。状況を詳しく教えてくれないか。」
飛鳥に問われて、佳弥は詳しく説明した。幸祐への説明では割愛したが、かつら落としの件も今回はしっかり加えておく。あのかつらおじさんと女性は、その後恙なく社会生活を送っているだろうか。送っているだろうな、大人というものは、無かったことにするべきことを無かったことにできるものだ。
飛鳥は形の良い顎に指を当てて、暫く考え込んだ。
「佳弥が店から出たら、魔が沢山湧き出てきたんだな?」
「そうですよ。」
「マーラ・ルブラの職員を張り倒したところで、魔の流れには影響しない。これは僕が何度か体験しているから、確かだ。」
何度か張り倒しているんだ、やるなあ、と佳弥は感心する。
「とすると、店を出る直前の他の行動、つまり、クレーマーの仲裁が影響したと考えるべきだな。シンハオのシステムに従うなら、不条理なクレームの発生はツボ押しによって抑制される事態だ。佳弥はそれを、直接的な手段で解決した。この不整合が、原因かもしれないな。」
「でも、ツボ押しの効果で得られることって、その辺の善意ある人が普通にやっていることですよ。ゴミ拾いとか、ちょっとしたお節介とか。それで魔の流れが変わると言われたら、善いことをするなと言われるようで悲しい気がしますが。」
「そういうわけじゃないさ。ただ、佳弥は変身する前ならしないようなことを、変身してからやっただろう。」
佳弥は頷いた。さすがの佳弥でも、変身せずにいきなり見知らぬおじさんのかつらをはぎ取るという真似はできない。
「変身は、ただ見た目が変わるだけではないんだ。魔との親和性が格段に上がる。だから、佳弥の最後の行動が、その店から魔を流出させたと見て間違いではないだろうな。」
「それが、私を襲った人にとっては、歓迎できない事象だったということですか。」
「ああ、その魔を何かに使うつもりだったんだろう。」
ふむ、と呟いて、佳弥はカレーの残りをすすった。それから、美味しくないお茶で口をさっぱりさせる。
「言われてみれば、私、変身してからあれやこれやとやらかしてました。」
空き缶を拾うことから始まって万引きを防ぐところまで、何やかんやと変身後に手を出していた気がする。佳弥から話を聞き、飛鳥は呆れたような感心したような顔をする。
「マーラ・ルブラの邪魔って、それだったんでしょうか。」
「その可能性はあるな。佳弥のおかげで、魔の流れが想定外に乱れたんだろう。」
ただ、マーラ・ルブラも佳弥のおせっかいが魔に影響していたとは考えず、佳弥がツボを押すことに原因があると判断した。だから、初めは佳弥のツボ押しを妨害し続けたが、思うような効果が得られず、ここ最近では佳弥本体を狙うようになった。飛鳥はそう推論してから、肩をすくめて続けた。
「それにしても、彼らはよく原因が佳弥だと突き止めたられたな。システムの性能に関しては、どうもシンハオは一世代以上遅れている気がするよ。」
そうかも、と佳弥は思う。機動性一つとってみても、あっちの影の方がずっと上だ。何度スタンガンにやられても起き上がってきたところを見ると、防御力も高いのかもしれない。顔が見えないところも良いし。きっと、精神年齢まで老けさせられる何というペナルティも無いに違いない。あっちにバイトを申し込めばよかったか、と少し悔やまれる。が、もはや手遅れである。
「そうと分かれば、これからもバンバン邪魔してくれるわ。」
佳弥はギリギリと台布巾をねじり上げた。
「随分お怒りだな。」
「飛鳥さんは、怒っていないんですか。監禁は歴とした犯罪ですよ。ついでに、私の人間関係を複雑にしてくれやがって、絶対に許しません。正当な手段で報復してやります。」
マーラ・ルブラと仲良く手を携える未来は、佳弥には決して訪れないだろう。
佳弥は勢い良く立ち上がって、食器を片付けた。ついでに、ホテルの備品のような貧相な歯ブラシセットで、ガシガシと歯を磨く。
ご飯と怒りは腹にチャージされたが、まずはここから脱出しないことには報復のしようもない。変身できたら、小道具をあれこれ作って試すのだが。佳弥は充電中のスマホを手に取った。シンハオのアプリを立ち上げてみる。やっぱり、ログインできないので使えない。これならどうだろうか、と佳弥はベータ版の画面に遷移してみた。
「うーん、ベータ版も駄目かあ。」
ぶつぶつと文句を言っていると、飛鳥が横から画面を覗いて言った。
「佳弥はベータ版を入れてあったのか。あの中野さんがよく出してくれたな。ベータ版は正規版と違って、シフトの無い時でも変身できるからな。余程のことが無いと使わせてくれないはずだが。」
「つい先日、市川さんが中野さんをとっちめてやったら、渋々くれました。」
佳弥はあらましを飛鳥に説明した。飛鳥は意外そうな顔して、ほうと呟く。ほら、アンタがまともなことを喋るとみんな意外だと思うんだよ、と佳弥はどこかの路上にいる幸祐に語り掛ける。テレパシーは無いから、返事も無い。
「いずれにせよ、ベータ版があるなら話が早い。」
「どういうことですか?」
「そっちはいじりやすい。」
ふっと笑みを浮かべると、飛鳥はパソコンの前に戻った。カタカタカタ、と長い指でキーを叩きまくる。
「僕だって、ずっとここで無為に時を過ごしていたわけじゃない。」
トン、とエンターキーを押す。
「ベータ版のバージョンアップ、ほぼ完了だ。」
「へ?」
「さすがに正規版は手が出せないが、ベータ版なら中身を覗くくらいのことは僕でもできる。あとは、マーラ・ルブラがここでのアプリの使用を妨害するためのキーになっている箇所を解析して、改編してやれば良いんだ。それくらいなら、数日あれば何とかなる。」
「それは、中野さんの了承は…」
「独断だよ。僕を身内に引き込んだら、それくらいするのは分かってると思うがね。こう見えてもかなりのワルだからな、僕は。」
にっこりと飛鳥は微笑んだ。化粧をしていなくても、十分に綺麗な笑みである。ワルというよりは、清純派っぽい。これは演技なのだろうか、と佳弥は訝しむ。
「とにかく、もう少しで変身できるようになるということですか。」
「ああ、今晩でデバッグを終わらせられれば、明日には使えるだろう。」
それはありがたい。脱出の可能性がぐっと増える。佳弥は心の中でガッツポーズをとった。
「僕はここで作業する。隣の部屋に布団があるから、佳弥はもう休みなさい。おじさんが一つ屋根の下にいて不快だろうが、そこは我慢してくれとしか言えない。」
「飛鳥さんは、何となく女の人のような気がするから平気です。」
真面目くさって佳弥が答えると、飛鳥はくすくすと笑った。
「それは、僕は喜んでいいのか、悲しむべきなのか。」
佳弥としても不思議だが、答えたとおりなのでどうしようもない。嫌で嫌でしょうがない、という気分で一緒に過ごすよりはずっと良いじゃないか。
「何にせよ、僕は今日で二徹目になる予定だから、明日はもう使い物にならないと思ってくれ。逃亡は佳弥に頑張ってもらわなきゃならない。」
「二徹…大丈夫なんですか。」
「大丈夫じゃないが、やるしかないさ。僕もここの生活はもううんざりだ。」
スマホの充電器を後で借りるよ、と言われ、佳弥は快く了承した。でも、二晩も寝ずに作業を続けて、変身できるんだろうか。
四畳半の間の押し入れを開けると、何故か布団は三組も入っていた。幸祐も捕まえるつもりだったのだろうか、と佳弥は一瞬考えたが、すぐに否定した。そのつもりがあれば、とっくにここに連れ込まれているはずだ。一体、何のための部屋なのやら。マーラ・ルブラの社員寮だろうか。風呂の無い寮なんて嫌だなあ、と思いながら佳弥は部屋の真ん中にまっすぐ布団を敷く。
とんだ冬休みのスタートだこと、と佳弥は布団に潜り込んでため息をつく。カタカタというキーボードの音を子守唄に、佳弥はスッと眠りに落ちた。
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