第31話 籠の鳥

 カタカタカタ、と小刻みな音が聞こえて、佳弥はがばっと跳ね起きた。とりあえずポケットに手を突っ込んでスマホを確認する。十九時ちょっと過ぎ。日付は変わらず。まだ、父に怒られる時間ではない。


 ほっとしたのも束の間、佳弥は見慣れぬ光景にぐるりと囲まれていることに気付いた。古臭い畳敷きで四畳半、染みの出た天井、おばあちゃんちっぽい四角い傘の電灯、茶色っぽく汚れた壁。押し入れは黄ばんだふすま戸で閉められている。隣にも部屋があるようで、同じく古ぼけた畳が見える。窓の外は、タールでも塗り固めたかのように真っ暗だ。


「何だ、ここ?」


 きょろきょろとしながら呟くと、隣から聞こえていたカタカタ音が止んだ。のそのそ、と畳を踏む気配がしたかと思うと、よれよれの丹前を羽織ったおじさんが顔を出した。


「目が覚めたかい。」


 妙に気やすい口調でおじさんは佳弥に声を掛けた。四十代半ばくらいの、目鼻立ちのくっきりとした綺麗な顔のおじさんである。しかも、加齢弛みの無いすらりとした体格で、かなりカッコいい。


 でも、どこかで見たことがある気がする。佳弥はうーむと首をひねった。


「おもてなしはできないが、お茶くらいならある。こっちにおいで、佳弥。」


名前を呼ばれて、益々佳弥の混迷の度は深まる。が、一人で四畳半の真ん中で首を右左と傾げていたところで答えが出るとも思えない。佳弥は大人しく隣の部屋に行った。


 隣の部屋は六畳で、二畳程度の板間のお勝手と玄関、トイレと思しき安っぽい扉がくっついている。ひどく狭くて古いアパートのようだ。昭和の香りがする。嗅いだことないけど。


 部屋の真ん中の、これまたレトロな丸いちゃぶ台には、小さくて薄いパソコンが置いてある。ここだけタイムスリップしたかのようだ。昭和にこのサイズのノートパソコンは無かっただろう。昭和なんて、知らんけど。


 台所でお茶を淹れていたおじさんは、茶渋の付いた湯飲みを二つ手に持ってちゃぶ台に置いた。


「美味しくはないが、飲めなくはない。」


そう言って、一口すする。佳弥もおとなしくちゃぶ台の横に座って、お茶を頂いた。おっしゃるとおりの味がする。


「佳弥も捕まってしまったんだな。僕が連絡できていれば良かったんだが、スマホの充電器を持ち歩いていなかったのでね、電池が切れて連絡できなかった。すまない。」


「はあ。それで、あなたはどちら様でしょうか。」


 佳弥は素敵なおじさんをじっと眺めた。さも知り合いであるかのように語られても、佳弥には正体が掴めない。


 おじさんは、ふふ、と意味ありげに含み笑いをした。


「分からないか。それなら、僕の演技もなかなかの域に達していたということだな。」


ヒントを出そう、と言って、おじさんは傍らに置いてある大きめのボディバッグの中身を取り出した。ファンデーション、マスカラ、口紅など、一揃いの化粧品が登場する。佳弥は自分では化粧をしたことが無いが、友達が持っているブランドよりも高そうだということは察せられる。


 この綺麗な顔のおじさんが化粧をしたら、さぞ美人だろう。最近は男性でも化粧をする人がいるというし。だが、この化粧品は明らかに女性用では?佳弥はおじさんの顔と、化粧品をじっと見比べた。おじさんの顔に、想像でアイラインや口紅を引いてみる。にこ、とおじさんが笑ったところで、佳弥はポンと手を打った。


「ああ、飛鳥さんですか。」


「正解だ。でも、意外と驚かないな。佳弥らしいと言えば、そうかもしれないが。」


 そうかも、と佳弥自身も思う。正体を言い当てたが、我ながら動揺していない。歳が違うのはさておき、性別が違うのに。幸祐なら、ぎゃあぎゃあと喚くことだろう。


「僕は趣味で演劇をしていてね、女役もやったりするんだ。変身も芝居の練習になるかと思って、敢えて女性になってみているんだが、思ったよりはまり役みたいだな。」


「そんなこともできるんですね。」


「そうだな。といっても、髪を伸ばして、胸と腰回りを女性らしくしているだけだがな。加減が難しくて、どうしてもやり過ぎになるのが難点だ。」


飛鳥は軽く顔をしかめた。確かに、あのバストはやり過ぎだ。佳弥はいつも困る。だが、自分でもそう思っているのなら、変態ではないのだろう。あのバストを心底素晴らしいと思って作り上げている男性なのであれば、佳弥はお付き合いのほどはご遠慮願いたいところである。


「それで、ここは何ですか?飛鳥さんの自室ですか?」


「まさか。僕の自室はもっと現代的だよ。」


 飛鳥はそう言って苦笑した。


「ここがどこだかは分からないんだが、我々はマーラ・ルブラに捕まったらしい。それで、ここに監禁状態だ。窓も扉も開かないよ。ついでに言うならば、スマホは使えるが、GPSとシンハオのアプリは使えない。随分と器用な真似をしてくれている。」


 佳弥は試しにシンハオのアプリを開いてみた。立ち上がることは立ち上がるが、ログインできないので何の機能も使えない。電波マークは出ているので、アプリと関係のない通話やメールはできるのだろう。


「飛鳥さんは、この間の銭湯の後からずっとこちらに?」


「そうなるね。僕としたことが、ドジを踏んだ。」


 飛鳥は微かに眉をひそめた。


「食料は時々持ってきてくれるし、ゴミも回収してくれているから、不便は無いんだがな。ネットが使えないと仕事ができなくて困る、とメモを置いておいたら、一日数時間だけWiMAXを貸してくれるようになったよ。」


「ここでお仕事、ですか。」


「ああ。僕はフリーのSEだから、ネットにつながるパソコンがあればどこでも仕事はできる。」


 佳弥はちらっとパソコンの画面を見た。アルファベットがいっぱい羅列してある、黒いウィンドウが見える。パッと見ただけで意味が分かる人がいるとしたら、それは人間ではない。佳弥の場合は、凝視しても理解できない。おそらく、プログラミングなのだろう、と当たりを付けておく。こういう仕事のスタイルもあるんだなあ、と佳弥は感心した。佳弥の周りの大人は殆どが勤め人で、少数が小売の自営業である。フリーランスという働き方は目からうろこと言っても過言ではない。どこででも身一つで仕事になるというのは、素晴らしい。ただし、佳弥は自分がそうなりたいとは全く思わないが。安定第一。


「とはいえ、メイン機じゃないとやり辛いのは確かだ。小さい画面は目が疲れる。佳弥なら分かるかもしれないが、四十を過ぎると目に来るからな。」


「分かりますとも。」


 十六歳の佳弥はしみじみと共感した。それを見て、飛鳥はふふっと笑う。笑い方が、変身後の飛鳥と同じだな、と佳弥は思う。今の飛鳥の仕草には女性っぽさは無いので、そこは不思議なところである。


「それで、ここから脱出はできないんですか。」


「できたらしているよ。」


「まあ、そうですよね…。ということは、私も暫く家に帰れないんでしょうか。うわ、また叱られる。」


 佳弥は両手で顔を覆った。父は物分かりが悪いわけではないが、何も言わずに無断外泊すれば、どうなるかは想像に難くない。しんしんとひたすらに理屈で攻められて、決して楽しくない時を過ごさねばばならないのは間違いない。それも、長時間。おそらくは母も同席して、いらん茶々を入れて、話をややこしくしてくれるだろう。もう、考えただけで気が滅入る。おのれ、マーラ・ルブラ、許すまじ。


「佳弥は家に帰らないと、ご家族が心配なさるだろうな。とりあえず、今日の一泊くらいなら僕が何とかしてやるが…。」


「何とかしてください。ひとまずは、一日だけでも良いですから。」


 佳弥はずずっと飛鳥に寄った。何でもいい、とにかく寿命を延ばさねば。今は考える時間すら残されていない。


 飛鳥はよし、と頷いた。


「佳弥のスマホは使えるんだな?」


「はい。充電器もあります。」


「じゃあ、佳弥の友達の家にお泊りということにしよう。佳弥からご家族に電話して、途中で僕に代わるんだ。僕が、その友達の保護者ということで、適当に説明する。」


佳弥は頷いた。ぺふぺふと画面を操作して、自宅を呼び出す。母の声が応じたので、佳弥は少しほっとする。父よりは、マシだ。友達の家に泊りたいんだけど、良いかな、と訊くふりをする。あら急ね、とか、ご飯は、とか言う母を適当になだめて、友達の親御さんに代わる、と言ってスマホを飛鳥に渡した。


「お世話になっております、飛鳥と申します。急な話で申し訳ありません。娘がどうしても、と聞かなくて。」


 あら、変身後の飛鳥さんの声だ、と佳弥は隣で静かにしながら驚く。あの艶っぽい女性の声は、変身機能のたまものではなくて、地声だったらしい。大したもんだ。


 ええ、はい、と飛鳥はうまい具合に話を続けている。いつの間にやら、佳弥は飛鳥家のお嬢さんと友達で、勉強を一緒にしに来たという設定になっていた。まあ、それくらいが妥当だろう。後で母に何か言われたら話を合わせておかねば、と佳弥は今日の設定を心に刻み付けた。飛鳥が良い具合に締めくくって電話を切ったので、佳弥は大きく息を吐いた。聞いているこっちが緊張した。


「お母様は特に心配されていなかったよ。佳弥は信頼されているな。」


「母はのんびりしていますから。」


 スマホを飛鳥から受け取って、もう一つ息を吐いた。ああ、くたびれた。


「そういえば、飛鳥というのは名字だったんですか。」


「そうだよ。フルネームは飛鳥春信。名前まで聞くと、普通におじさんだろう。」


娘はいない、と飛鳥は言った。佳弥の友達として設定した娘の名前を聞かれたら、適当に考えておいてくれ、とのこと。佳弥はこっそり、春子という名にしよう、と決めておく。


 やれやれ、これで首の皮がつながった。佳弥は美味しくないお茶をごくりと飲んだ。後は、明日の夕方までに何とか脱出する方法を考えなければ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る